日本の美 平安時代 その2 大陸モデルの和様化

山水屏風、東寺、部分

日本の文化は、古墳時代から江戸末期まで、大陸文化の圧倒的な影響の下にあった。文藝にしても、建築、彫刻、絵画といった視覚表現にしても、モデルとなる理想像は常に大陸にあった。
それが変化したのは、明治維新以降、ヨーロッパのモデルが移入されてから。
それ以前は、6世紀半ばの仏教伝来から数えるだけでも、約1300年の間、日本の目指すべき高度な文化と見なされたものは、大陸文化だった。

そこで注目したいことは、大陸から移入された文化はほぼ完全に日本化され、日本文化の本質を形成する主要成分になっていることである。
ヨーロッパ文化が輸入されてからすでに150年以上経つが、日本文化に完全に溶け込んだとは言えず、舶来品の印がついていることが多い。(ただし、洋服や住居はかなり溶け込んでいるといえる。)

大陸文化が日本で受容され、日本文化の一部と見なされている例を幾つか見ていこう。

漢字

私たちは、漢字を外国から輸入した舶来品であり、それを日本化して現在の形になったことを意識していない。
漢字は日本の文化そのものになっている。

ただし、異国由来である印は残している。
漢字を、漢字から作り出した平仮名とは区別し、大陸由来の文字、つまり「漢」字と呼び続けている。
受容しながら、潜在的に常によそから来たことの印は残す。それは、日本における文化の受容の特色の一つだろう。

仏教

仏教も、6世紀半ばに伝来した外来の宗教である。
日本の古代国家は、聖徳太子を例に取るとわかりやすいように、仏教と律令制度を日本に移植することで、国家を統制しようとした。
その時以来、日本の美術の中心は仏教美術となり、法隆寺を初めとする寺院の建築、仏像などの作成が行われた。

和様化の典型としてあげておきたいのは、神仏習合という宗教思想。
日本古来の宗教思想と新しく導入された仏教は、本来対立するはずである。しかし、仏教伝来以来、仏は「隣りの国の神」として受け入れられた。つまり、日本人は神と仏を区別せず、同じような存在と見なしたことになる。
(その意識は21世紀の現在でも続き、「神様、仏様」と祈ったりする。)
そうした中で、仏像を和様化した典型的な像も造られるようになった。

松尾大社、女神座像

9世紀後半の作とされる、松尾大社の女神座像は、その典型的な例の一つ。
日本には神の姿を人間の形で表すことはなかった。一方、仏像は、仏の姿を人間の形で表している。
神仏習合の中で、神の姿を宮廷の貴族の姿で表現するようになり、この女神像が生まれたのだと考えられる。
別の言葉で言えば、和様化された仏像の典型的な姿。

歴史

大陸への憧れは、飛鳥、白鳳、奈良、平安と時代を下っても変わらず、遣隋使、遣唐使が何度も派遣され、大陸の進んだ文物が日本にもたらされた。

奈良時代に編纂された『日本書紀』(720年)でさえ、冒頭の神代の記述は、中国の古い伝承を元にしている。


古(いにしへ)に天土(あめつち)未(いま)だ剖(わか)れず(・・・)。
故(かれ)、天先(ま)ず成りて、地後(のち)に定(さだま)る。

こうした記述は、『淮南子(えなんじ)』(道家思想家を基礎にして、治乱興亡や古代中国人の宇宙観をまとめた百科全書風の書物)等に見られるという。

平安時代になっても、公の場では漢詩、唐絵が重用されていた。
他方、仮名文字は私的な場で主に女性が使用するもの。清少納言や紫式部がその代表といえる。
やまと絵も10世紀になり、大陸文化の「和様化」の流れの中で創造され、寝殿造りの室内に置かれる屏風や障子に描かれた。
つまり、文化的な高低で言えば、大陸文化が上で、国風文化は下に置かれていたことになる。

和歌

日本の文化を大陸文化と完全に切り離して考えることできない。
何が日本的かという議論になると、必ずといっていいほど、大陸起源が持ち出される。
『古今和歌集』に収められた和歌でさえ、同じことが言われることがある。

紀貫之の有名な和歌。

袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ

袖ひちて むびし水 ーー 昨年の夏、袖を濡らして水をすくった。暑い中で、池の水をすくって、涼んでいた情景を思わせる。
こほれるを ーー 冬になり、寒さで凍った。
春立つけふの 風やとくらむ ーー 立春の今日、暖かい風が吹いて、氷を溶かす。
このように、貫之は、5/7/5/7/7の中で、夏、冬、春の情景を描き出し、四季の移り変わり、そして春が来た喜びを、情感豊かに感じさせることに成功している。
この一句は、日本的な季節感を見事に歌い上げた作といって間違いない。

しかし、「風やとくらむ」には、大陸起源の出典が指摘されている。
『礼記(らいき)』の「月令(がつりょう)」(1年12月の年中行事と天文や暦について論じたもの)には次のような句がある。

孟春の月、東風解凍

陰暦の1月になり、春の風が氷を溶かす、の意。
ちなみに、古代中国の思想では、春は東から来ると考えられていたので、春風を東風と言った。

紀貫之は、「月令」の一節を念頭において、「袖ひちて」の歌を詠んだのだと考えられている。
としたら、その歌は、本当に「日本的」といえるだろうか。

このように、日本の文化を考える時、多くの場合、大陸からの影響を除外することはできない。日本的と言った途端に、それは中国のもあるという反論がしばしば行われる。

それでも「日本的」なものがあるとしたら、受容の仕方と考えていいのではないだろか。
漢字が漢の時代の文字だとしても、完全に日本の文化の中心をなし、平仮名や片仮名と共存している。
三つの文字を使い分ける書記法は、日本文化の特色に他ならない。

起源はどうあれ、表現そのものから、平安時代に成立したと考えられる美の様式について考えてみることは、無駄ではないだろう。(続く)


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