ジャン・ジャック・ルソー 『告白』 Jean-Jacques Rousseau Confessions 誰とも違う自己を語る

18世紀後半を代表する文学者ジャン・ジャック・ルソーは、『告白録(Confessions)』の中で、これまで誰もしたことがない新しい試みをすると宣言する。
その試みとは、自己を語ること。

もちろん、それまでに回想録は数多くあったし、私的な自己を語るというのであれば、モンテーニュの『エセー』も同じだった。
では、ルソーは何をもって、新しい試みと言うのだろうか。

ルソーは、彼の自己(moi)は、誰とも違っていると言う。
現代では、「私」は他の人とは違う唯一の存在と考えるのが普通だが、彼以前には他者と同じであることが「私」の価値であり、違う私に価値を見出すことはなかった。

そして、ルソーの言う「人とは違う私」の中心は「私の内面」。
彼は、個人の価値を、社会的な役割ではなく、心が感じる感情に置いた。

現代の私たちの価値観ではごく当たり前になっていることの始まりが、ルソーの『告白録』にあるといっても過言ではない。

  LIVRE I
intus, et in Cute.

Je forme une entreprise qui n’eut jamais d’exemple, et dont l’exécution n’aura point d’imitateur. Je veux montrer à mes semblables un homme dans toute la vérité de la nature, et cet homme, ce sera moi.

          第一の書

                  内的に、そして、肌の下

私はある試みをすることにした。その試みは、今までに例がなく、これからもその実践を真似る人はいないだろう。私は、私と同類の人々に、一人の人間を、自然の全き真実のままに見てもらおうと思う。その人間とは、私である。

ルソーは『告白』の中で、自分の試みの新しさを読者に印象付けようとする。
そのポイントは、「自然の全き真実のまま(toute la vérité de la nature)」。
自然状態の人間は、まだ社会生活の中で堕落していず、ありのままの姿でいる。ルソーは、これまで生きてきた生活の中で様々な間違いを犯してきたが、それも含めて、真実を語る。その決意が示される。

ここでは、語られる「私」がどのようなものかまだ明らかにされていない。
しかし、ラテン語で記されたエピグラフで、すでに予告がなされている。
「内的に(intus)、そして、肌の下(in Cute)」
ペルシウスの『風刺詩』から取られたこの詩句は、ルソー的「私」が指すのが、肌の下にある「私」、つまり私の「内面」であることを示している。

Moi seul. Je sens mon cœur, et je connais les hommes. Je ne suis fait comme aucun de ceux que j’ai vus ; j’ose croire n’être fait comme aucun de ceux qui existent. Si je ne vaux pas mieux, au moins je suis autre. Si la nature a bien ou mal fait de briser le moule dans lequel elle m’a jeté, c’est ce dont on ne peut juger qu’après m’avoir lu.

私だけ。私は心を感じる。人間がどのようなものかを知っている。私は、これまで見てきた人々の誰とも同じように作られていない。この世に存在する人々の誰とも似ているようにできていない、と信じている。他の人よりももっと価値があるというのではない。少なくとも、私は人と違っている。自然が私を投げ入れた型を、自然が壊したことがよかったのか悪かったのか。それを判断できるのは、私の書いたものを読んだ後になる。

ルソーはここで、決定的に重要な言葉を発する。

私は人とは違っている。
Je suis autre.

その違いは、肉体的なものであるよりも、内的なもの。つまり、「心」。
そのことは、最初に書かれている「私は私の心を感じる(je sens mon cœur)」という言葉によって、明かされている。

ルソーの時代、貴族や裕福な市民たちが集うサロンや宮廷社会の中では、その場に相応しい外見を整え(culture de l’apparence)、極端(extrême)な言動に走らず、中庸(juste milieu)をいくことが、何よりも重視された。
人と合わせず、自分の思ったことをそのまま口にしたりすれば、モリエールが『人間嫌い』の主人公としたアルセルトのように、社会から追放されてしまう。
ルソーの言葉を使えば、自然が私を投げ込んだ型(le moue dans lequel (la nature) m’a jeté)を守り、型にはまって生きることが、社会的に評価される人間(honnête homme)だった。

そうした中で、ルソーは、「私は人とは違う。(Je suis autre.)」と宣言し、「私」の中心に「心(mon cœur)」を据える。

Que la trompette du jugement dernier sonne quand elle voudra, je viendrai, ce livre à la main, me présenter devant le souverain juge. Je dirai hautement : Voilà ce que j’ai fait, ce que j’ai pensé, ce que je fus. J’ai dit le bien et le mal avec la même franchise. Je n’ai rien tu de mauvais, rien ajouté de bon ; et s’il m’est arrivé d’employer quelque ornement indifférent, ce n’a jamais été que pour remplir un vide occasionné par mon défaut de mémoire. J’ai pu supposer vrai ce que je savais avoir pu l’être, jamais ce que je savais être faux. Je me suis montré tel que je fus : méprisable et vil quand je l’ai été ; bon, généreux, sublime, quand je l’ai été : j’ai dévoilé mon intérieur tel que tu l’as vu toi-même.

最後の審判のラッパが、鳴りたいときに鳴ればいい。私は、この本を手に持ち、最高の審判者の前に出頭するつもりだ。そして、大きな声でこう言う。「これが私のしてきた行動です。これが私の考えたことです。私はこうだったのです。」善行も、悪行も、同じように正直に口にした。悪いことを黙っていることも、いいことを付け加えることもしなかった。どうでもいいような装飾を用いることがあったとしたら、記憶が欠けているために空白になった部分を埋めるためでしかない。私が真実だと推測できたのは、自分が真実であると知っていたものであり、偽りだと知っていたことを真実だと推測したことは決してなかった。自分がそうであったままの姿で自分を示した。軽蔑すべきで、賤しいときには、そのように。善良で、寛大で、立派だったときには、そのように。私は自分の内面を、あなたご自身が見ているように、露わにした。

 Michel Ange, Le Jugement dernier, détail

キリスト教の信仰では、世界が終わりを迎える時、人間が生前の行いに応じて、天国に行くのか地獄に行くのかの判決を下される。最後の審判だ。

もちろん、神の前で噓をつくことは出来ない。
ルソーは、その審判の時に『告白』を持っていき、神に審判を仰ぐと言う。それほど、彼の告白は真実であり、どんなことも正直に書いたのだと、何度も何度も繰り返す。

面白いのは、事実に基づかずに創作したところがあることを認めていること。そうした箇所は、記憶が欠如しているために空白があり、それを埋めるために書いた「意味のない装飾(ornement indifférent)」だと主張する。
空白は空白のまま残さず、創作した。
そのことは、『告白』を読み、噓をついていると非難する読者がいた時の言い訳とも考えられる。
ルソーは、そうした部分は自己正当化のためではなく、価値判断とは無関係(indifférent)だと、予め予防線を張っている。

そして、彼が告白した内容が真実であるかどうかの判断を、読者ではなく、神に委ねる。ルソー自身は、真実であったと思うことは真実だと推測し、偽りだったと思うことは決して真実とは推測しなかった。その言葉は、最終的な判断は彼がするのではなく、神に委ねるということを意味する。

そして、彼は自分の「内面(intérieur)」を、神の目が見るのと同じ姿で描き出したのだと胸を張る。

そして最後に、永遠の存在である神に、こう呼びかける。

Être éternel, rassemble autour de moi l’innombrable foule de mes semblables ; qu’ils écoutent mes confessions, qu’ils gémissent de mes indignités, qu’ils rougissent de mes misères. Que chacun d’eux découvre à son tour son cœur au pied de ton trône avec la même sincérité, et puis qu’un seul te dise, s’il l’ose, Je fus meilleur que cet homme-là.

永遠の存在である神よ。私の周りに数多くの人間たちをお集めください。彼等が私の告白を聞き、私の犯した不名誉な行為を嘆き、私の惨めな行いに赤面しますように。そして今度は、彼等の一人一人が、あなたの祭壇の足元で、私と同じ誠実さを持ち、彼等の心を発見しますように。たった一人の人間でもいいので、もし勇気があるのであれば、あなたにこう言いいますように。「私はこの男よりもいい人間だった。」

ルソーが神に向ける言葉は、『告白』が多くの読者を獲得し、広く読まれるように、という願いとも受け取れる。

それと同時に、彼が何を人間の中心と考えているのかが、はっきりと示されている。
彼が望むことは、読者が「自分の心(son cœur)」を発見すること。
一人一人の人間の中心には心があり、それが一人一人の違いの本質に他ならない。

そして、ルソーは読者が、彼の告白を読み、恥ずかしい行い(indignités)や惨めさ(misères)に対して、嘆き(gémir)、赤面する(rougir)ことを期待する。つまり、心が共鳴して欲しいと、密かに願っているのだ。

そして、一人の人間が神に向かって、自分はルソーよりもまともな人間だったと言うのであれば、それはそれでいい。
ルソーはそう書きながら、人間は誰も自分と同じようにいいところもあれば、悪いところもあり、人間に上下はないと考えていたのだろうか。
あるいは、一人くらいは、彼よりも優れていると言える人間がいてもいいと考えているなのか。
いずれにせよ、判断は人間ではなく、神がすること。

ルソーはただ、人間の価値は心(cœur)、内面(intérieur)にあるのであり、神の判断もそこにあるのだと、読者に伝えている。

『告白』を始める前に置かれたこうした言葉は、ルソーの新しさをはっきりと示している。
彼は、「肌の下」にある「心」、つまり人間の「内面」を重視し、人間の価値の中心を理性から感情へと移行させた。
その価値観は、ロマン主義を経て、現代にまで通じている。

『星の王子様』の有名な言葉、「大切なものは目に見えない」に多くの人が共感する。物質ではなく心が大切だという考え方。
その源にはルソーがいる。

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