平安時代の時間意識に関して言えば、人間は自然の一部だという意識と並行関係にある。
人々は、仏教に帰依し、死後に極楽浄土に行くことを理想としたわけではない。
ヨーロッパにおいてのように、理想を永遠に求めることはしなかったということになる。
逆に、たとえこの世が煩悩や汚れに満ち、苦の娑婆だとしても、移り変わり儚い時間の中に美を見出した。
在原業平の歌には、そうした時間意識がよく現れている。
濡れつつぞ しひて折りつる 年のうちに 春はいくかも あらじと思へば

詞書に、「弥生のつごもりの日、雨のふりけるに、藤の花を折りて 人につかはしける」とある。
旧暦では1月から3月が春なので、「弥生のつごもりの日」、つまり、三月の終わり頃は、春の終わり。
そんな時、在原業平は、雨の降る中、藤の花を手折り、愛する人に送ったのだという。
そして、その理由を、もう春も残り少ないからだとする。
終わってゆく春を名残惜しいと感じ、そこに美を見出す感性。
それは、時間の流れの中で全てが変わり、最後は消えていく「生」を受け入れ、永遠で不動の不死よりも、絶えず変化する時間の方が好ましいと感じる、日本的な感性に他ならない。
永遠よりも時間を好む
日本の土着の宗教思想は徹底的に現世的であり、死後の魂の救済よりも、この世での御利益をもたらすものだった。
仏教の教えでは、この世は苦の娑婆であり、悟りを開いた仏が住む清浄な地である浄土に行くことが、魂の救いだった。
大陸の神仙思想でも、修行によって不老長寿の存在になることが理想であり、普通の人間では到達できない理想の地、例えば蓬莱に楽園を見出した。
そのどちらにしろ、不死=永遠が人間の求める理想だといえる。
こうした宗教思想が日本に移入されてからも、日本の信仰は現世的なものに留まった。仏教での加持祈祷で祈ることは、五穀豊穣、家内安全等、この世の幸福等。死後の救いよりも、今いいことがあって欲しいと願う。あるいは、今の苦痛を取り除いて欲しいと祈る。

こうした姿勢が典型的に表現されているのが、日本最古の物語と言われる『竹取物語』。
かぐや姫を迎えに来た月からの使者は、記憶を失わせる羽衣と不老不死の薬を姫に渡す。
(1)羽衣
かぐや姫は、羽衣の体にまとう前、お爺さんやお婆さんのことを忘れてしまうのをひどく悲しむ。姫は、感情のない月の世界よりも、悲しみや儚さに満ちた地上を愛しいものと思う。そのことが、羽衣のエピソードによって示されている。
(2)不老不死の薬
かぐや姫は、不老不死の薬を、帝のもとに届けさせる。しかし、帝は、かぐや姫のいない地上で永遠に生きることを望まない。結局、家来に命じて、薬を富士山の頂上で燃やしてしまう。
https://bohemegalante.com/2019/12/30/conte-du-coupeur-de-bambou/4/
『竹取物語』のこの二つのエピソードは、11世紀の日本において人々が求めたものが、決して死後における永遠ではなく、儚く消え去るが感情豊かな生だということを示している。
そのことは、『堤中納言物語』に納めされた「虫めづる姫君」からもうかがい知ることができる。
誰もが嫌う気持ちの悪い虫たちを好んで集める少女は、平安時代の華美な風俗を批判しているとも考えられる。
物語の冒頭、姫はこう言う。
人々の、花、蝶やとめづること、はかなくあやしけれ。人にはまことあり、本地たづねたるこそ、心ばへおかしけれ。
花や蝶を平安貴族たちの華美な生活様式を指すと考えれば、はかなくて、よくないことだと言う姫の言葉がよく理解できる。
実際、姫は、「つくろうところあるはわろし。」と言い、当時の習慣に反して、眉毛も抜かず、お歯黒もしない。
そして、人々の反省を促すために、仏教用語である「本地」という言葉を使う。「本地」とは、仏や菩薩の本来の姿を意味する。
従って、「本地たづねる」とは、物事の本来の姿を見出すことと理解できる。

では、本来の姿とは何か。
姫は、恐ろしそうに見える虫を集め、「これが成らむさまを見む。」と言う。
「成らむさま」とは、虫が成長する過程。
花は最初から花ではなく、蝶は最初から蝶ではない。花は種から芽が出、葉が育ち、咲き、最後は散っていく。
蝶も、最初は毛虫であり、みんなが気持ち悪がる存在。それが成長して美しい蝶になる。
そのことは、姫の口からはっきりと述べられる。
よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ、ことはゆえあれ。(・・・)かは虫の蝶とはなるなり。
この姫の言葉を聞くと、彼女が考える「本地」とは、時間の中で物事が変化することであり、かは虫(毛虫)が蝶になる過程こそが物事の本来の姿だということになる。
https://bohemegalante.com/2020/04/09/princesse-adore-insectes/2/
このように、虫めづる姫君も、かぐや姫と同様に、時間の中で生きることに価値を見出していることがわかる。
四季の定式化
時間の中で生きることを好む傾向が、四季の推移を感じ、そこに美を見出す感受性を生み出していった。
そのための道具が、平安時代に確立したといわれる、季節毎に定められた「景物と暦の対応」ではないだろうか。
春:梅、桜、藤、山吹、風、雪、春雨、鶯、(帰)雁、等。
夏:藤、花橘、卯の花、蓮、五月雨、時鳥、等。
秋:紅葉、萩、女郎花、大和撫子、菊、初風、月、露、霜、時雨、きりぎりす、鈴虫、松虫、鹿、等。
冬:薄、冬草、松、月、水、雪、等。
季節感は、現実に体感している気候ではなく、すでに決められた約束事の景物や、その組み合わせで表現される。
そのことによって、普遍化された時の流れが明確に感じられるようになる。
『古今和歌集』の最初に置かれた和歌は、まさに抽象化された季節感を際立たせている。
詞書には、「ふる年に春立ちける日によめる。」とある。
年のうちに 春は来にけり 一年(ひととせ)を こぞとやいはむ 今年とやいはむ
詞書の「ふる年」とは、新年に対する旧年。和歌の中の「こぞ」も同じ意味。
旧暦では、一年は春から始まり、1月から3月までが春。
「立春」は春の始まりであり、本来ならば一年の始まりになる。しかし、旧暦では、立春の日が12月に来ることもあった。
(その理由は、現代の私たちには少しわかりにくい。
旧暦で、日にちは、月の満ち欠けという太陰暦の要素から決定した。1月2月等の月は、太陽の動きを示す二十四節気という太陽暦の要素から決定。そこで必然的にずれが生じ、旧暦の元日より早く立春を迎えてしまうことがあり、それを年内立春と呼んだ。)
この歌の作者、在原元方は、立春が来たので、その日から新年と言うべきか、それとも暦の通り、その日を12月に入れ、旧年と呼ぶべきかと、自問する。
明治時代に、正岡子規がこの歌を、「実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。」(『歌よみに與ふる書』)と批判した。
それは、この歌が実体験を伴わず、暦の上での季節と年のずれに戸惑っているように見えるという理由だろう。
しかし、『古今和歌集』の冒頭に置かれた和歌であることを考えると、平安時代において、人々が季節感を感じる上で、暦がいかに大きな役割を示したかを理解することができる。
平安時代後期の歌人、藤原俊成は、「この歌、誠に理(ことわり)つよく、又をかしく聞えて、ありがたく読める歌なり。」と述べている。
実際、『古今和歌集』の時代に、体感によってありのままの自然が歌われたのではなく、理によって、「あるべき自然」の姿が作り挙げられたということが、在原元方の歌を通して窺い知ることができる。
そして、こうした定形化された季節感に基づき、歌が詠まれていった。たとえば、小野小町は、秋の夜は長いという決まり事に基づき、時間が早く過ぎ去る悲しみを歌う。
秋の夜も 名のみなりけり 逢うといへば ことぞともなく 明けぬるものを

好きな人と逢っていると、時間はすぐに経ってしまう。秋の夜は長いと言われているのに、それは言葉だけのこと。秋の夜長は、「ことぞともなく」、つまり、特に何事もなく、あっという間に明けてしまう。
この小町の気持ちは、月の羽衣を羽織る前のかぐや姫が感じていた感情と同じものだといえる。
それは、時間の中に生き、時間とともに変化するからこそ、感じられるものなのだ。
そのための手助となったのが、暦によって固定化された基準だった。言い換えると、暦のおかげで、時間の推移をはっきりと感じられるようになった。さらに、その推移に基づく感慨を言葉によって表現できるようになったのだといえる。
季節は巡る
日本的感性は、永遠を求めず、過ぎ去る時間の中に生きるのを好むことは確認した。
儚さ、もののあわれ等、消え去るものへの嗜好があることは確かである。
しかし、それは死や虚無への向かう暗鬱な傾向ではない。
過ぎ去ったものは、戻ってくる!
ただし、日本的感性は、現実を超えた超越性を含むヨーロッパ的な永劫回帰とは異なる。日本における永劫回帰は、現実に密着している。なぜなら、その典型は、四季の回帰だから。
一つの季節は去るが、次の年には必ず戻ってくる。
時間の経過は、一方向に進む直線ではなく、循環する円環として自然に心に描き出される。
桜は一週間で散ってしまう。儚さの美の象徴ともいえる。しかし、来年はまた咲く。
過ぎ去る時間を嘆くことに美を感じるとしたら、消え去る動きに生を感じると同時に、またいつか戻ってくることが前提とされているからである。
『古今和歌集』の中にも、永遠を願うように思われる歌はある。
我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

「我が」は親愛の情を示す言葉であり、「我が君」とは、自分にとって親しい人、あるいは愛する人と考えていいだろう。
この歌が元になり、「君が代」が作られているので、国家主義的な歌のように受け止められてしまう可能性があるが、実際には、相手の長寿を願う内容。
小さな石が大きな石になり、そこに苔が生えるまで、長い間幸せに生きて欲しいと歌う。
この時意識にあるのは、永遠ではなく、長く続く時間に他ならない。
花のごと 世の常ならば 過ぐしてし 昔はまたも かへりきなまし
ここでは、花に関しては、世の常、つまり世界は変わらない(=常)という認識が示される。つまり、花は毎年開花と落花を繰り返す。
それに対して、人の世は、一度過ぎ去り昔になってしまうと、二度と戻ってこない。だからこそ、花と同じように、また楽しかった昔が戻ってくればいいのに、と詠嘆を込めて歌う。
この和歌の基本的な考え方は、劉廷芝が「代悲白頭翁」の中で綴った「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」と同じ。つまり、花は年毎に変わることなく咲くが、人の境遇は年ごとに変化していく。
その上で、この歌では、過ぎてしまった時間を惜しみ、戻って来ないことはわかっているけれど、しかし戻ってきて欲しいとあえて歌にする。
そこに、日本的な美意識が反映している。
百人一首でも有名な紀友則の歌。
ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ
散りゆく桜になぜこれほどの美を感じるのか。
口では「静心なく」と言いながら、そこにしっとりとした情感を感じ、美的感動を味わうことができる。
その理由は、すでに何度も繰り返しているように、春はまた巡ってくるという安心感が、心の根底にあるからではないだろうか。
清少納言の曾祖父、清原深養父の歌では、散ることの意義が明確にされている。
光なき 谷には春も よそなれば 咲きてとく散る 物思ひもなし

詞書には、「にわかに権勢を失って嘆いている人を見て、時勢の恩恵に浴した晴れがましさの覚えもないかわり、急に時を得なくなった為のなげきをも知らないでいる自分を詠んだ歌」とある。
歌そのものの意味を考えると、光が射さない谷間には春がやってこないので、咲いた花が散るのではないかと心配することもないという、醒めた思いが綴られている。
この歌を詞書通りに、社会的な権力をテーマにした歌だと考えると、光が当たらない男の悲哀を歌ったつまらない歌ということになる。
しかし、「物思ひもなし」に焦点を当てると、咲いた花がすぐに散ってしまう心配、つまり「静心なく」が、いかに平安貴族にとって重要な出来事であるのかがよくわかる。

『古今和歌集』で中心をしめる季節の和歌は、春夏秋冬の順に並べられ、時間軸の上に置かれている。
清少納言は、同じように、春夏秋冬の流れに従い、それぞれの季節の美を列挙する。
時は流れ、過ぎ去るが、季節はまた回ってくる。
暦によって季節を定形化し、季節感を誰もが感じるようにする。
極端に言うならば、儚さや束の間の感覚が永遠と一つになっている。それが平安時代に確立された美意識を支える時間意識だと考えられる。