平安時代の美は、京都の貴族文化の中で熟成した、総合芸術として確立していった。その様子を最も見事に表現しているものの一つが、平安時代末期に作成された「源氏物語絵巻」である。
「源氏物語絵巻」は当時の宮廷社会の様子を『源氏物語』のエピソードに則り美しく描き出しながら、『古今和歌集』の仮名序で紀貫之が言葉にした「生きとし生けるもの」の「言の葉」が、平安的美意識の根源にあることを示している。
言い換えれば、人間は自然の中で動物や植物と同じように現実に密着して生き、四季の移り変わりに心を託して歌い、描き、生きる。そして、そこに美を感じる。
まず、「宿木 三」を復元された絵で見てみよう。

時は秋の夕暮れ。
庭には、風に揺れる萩、藤袴、薄が描かれている。その色はすでに少し色あせている。



これらの植物の様子は、ヨーロッパの庭園の幾何学的な姿とは正反対で、人工の手が加わっていない、自然そのもののように見える。
それは、人間も植物も「生きとし生けるもの」と捉え、全てが同じように生をもつ生き物であるという精神を示している。
「宿木 三」の風は、植物を揺らすだけではなく、屋外と屋内を仕切る簾もゆらしている。
その様子を見れば、内と外の区別もまたほとんどないことが感じられる。
壁を中心にしたヨーロッパの建造物では、内を外から完全に遮断し、内部を外部から保護することが重要になる。
それに対して、日本の住居は自然な風を通し、中と外は直接つながっている。
そのことは、人間が自然の一部であり、自然を歌うことがそのまま人の心の表現であることを示している。
描かれている人間は、二人。
琵琶を弾くのは、匂宮(にのおうのみや)。
彼は、夕霧の六君(ゆうぎりのろくのきみ)と結婚したばかり。
彼の前で悲しげな顔を見せるのは、中の君(なかのきみ)。
彼女は、匂宮の心が離れていくことを嘆き、琵琶の音に耳をかけ向けながら、涙を流す。
匂宮の烏帽子や冬の直衣、中の君の十二単、二人の後ろに置かれた屏風絵等は、平安時代の美的生活を描き出している。
そうした中で、中の君は、歌を詠む。
秋果つる 野辺の景色も 篠薄 ほのめく風に つけてこそ知れ
歌の意味は、風に揺れる一群の薄の姿(篠薄)で、秋もすでに終わりにさしかかり、野原の景色も淋しいものになっていることを知ることができる、というもの。
それと同時に、「あきはつる」は、あなたが私に「飽きはてた」という意味にも取ることができ、薄(すすき)を揺らす風から、あなたの薄(うす)い心を感じとることができる、とも伝えている。
これは決して擬人法ではなく、自然を歌うことがすでに心を歌うことになるという、日本的な心性に由来する表現である。
「ほのめく風」のもたらす儚さや哀れさの感覚は、日本的な美を浮かび上がらせる。
その意味でも、「宿木 三」は、「もののあはれ」の感覚を伝えるのに相応しい歌絵だといえる。つまり、季節にしろ、恋にしろ、人間の力ではどうしようもない物事の推移に情感を感じる、日本的心性を表現している。
次に見る「関屋」では、自然の風景の中に人物が配置されている。

季節は9月下旬で、紅葉が山を彩り始めている。
舞台は、逢坂の関。山城国と近江国の間、現在の滋賀県大津市のあたりに位置し、歌枕としても知られている。
描かれている山々は、大陸の山水画に見られるように峰を高く描き、雄大な山間の風景になっている。そうした視点では唐絵的だといえる。
他方、山頂は丸みを帯び、背の低い山並みも見られる。
全体的には、神仙思想を思わせる峻厳な印象よりも、日本の自然の姿を思わせ、やまと絵的な雰囲気を醸し出しているといっていいだろう。
「関屋」は、京都から石山寺詣に向かう光源氏の一行と、常陸国から上京してきた空蝉の一行が、逢坂の関で偶然出会う場面を描いている。
右手に見えるのが京都から来た源氏の一行。左手の牛車が空蝉の一行。
画面左上に青く見える広がりは琵琶湖で、その少し上に打出浜が見える。
そして、歌枕である逢坂の関。
従って、「関屋」を名所絵と呼ぶことができるだろう。
絵画の特色としては、次のような点を指摘しうる。
1)非写実性:山間に描かれている人々の姿と山との大きさのバランスが写実的表現からかけはなれている。山に対して、人間の姿が異常に大きい。
2)非中心性:どこにも中心がなく、部分部分がそれぞれ独立している。
3)非均整:部分が独立していることは、画面全体の調和がないことを示す。実際、絵画全体としての統一性に欠け、左右の均整に対する配慮がなされていない。
4)非全体性:牛車は全体が描かれず、一部が欠けている。同様に、貴族の乗る馬や貴族たちの中で、全体が描かれず、一部が欠けているものが多く見られる。
こうした特色は、ルネサンス以後のヨーロッパ絵画の技法と鋭く対立する。

クロード・ロランの「ローマ郊外のヴィラ」を見ると、画面全体に統一感があり、風景から超越した一つの視点を中心にして捉えられた空間が、画面全体を構成している。
その視点は画家の目であり、この絵画は人間の視線から見た風景ということになる。しかし、その目は、画布に描かれた空間に含まれているものではなく、超越的な存在である。
それに対して、「関屋」には、全体を一気に見渡す超越的な目は存在しない。それぞれの部分に密着した目があり、その目が捉えた部分の集合体が1枚の中に合わせられている。
場面の中で、近くにある山と遠くにある山は区別できるが、透視遠近法や空気遠近法に従って描かれているわけではない。
日本的な心性が超越性を求めないのと同じように、やまと絵にも超越的な視点は存在しない。その場その場に密着し、その場に溶け込むようにして、場面場面が描かれている。
「柏木 二」では、平安貴族の住居の内部が美に溢れていたことを垣間見させてくれる。

中央に横たわるのは、柏木。
彼は光源氏の妻である女三の宮との密通を源氏に知られたことで病に伏せっている。
枕元に座るのは、柏木の親友であり、光る源氏の息子でもある夕霧。
柏木が死を前にして、夕霧に、光る源氏への取りなしを遺言としての伝える場面を描いている。
画面の左側を見ると、手前に3人の侍女が、後方に2名の侍女が控えている。
合計7名の着る衣は、どれも美しい。
とりわけ、夕霧と、左の手前の侍女の衣には、大きな桜の花があしらわれ、室内を区切るために使われた簾に描かれた小さな桜と対照をなしている。
画面の右手に置かれているのは、春の風景を描いた屏風。その後ろには、やはり春の風景を描いた障子。
手前の青い部分は海。緑の山並みは円やかで、やまと絵であるとことがわかる。
実は、柏木が初めて女三の宮を見た蹴鞠の日が春であり、桜とつながっている。そこで、この場面のいたる所に配置された桜は、柏木の女三の宮に対する想いを暗示しているとも言われている。
その意味で、人間の心模様が花によって表現されているということができ、「生きとし生けるもの」が同じ心持ちを表す日本的感性を示していると考えることもできる。
この「柏木 二」には、長い詞書が付けられている。それは美しい料紙の上に、美しい文字で書かれ、詞書自体が美的価値を持っている。

このように、平安時代の末期には、物語と絵画と文字が集まり美を表現する、総合芸術が成立していた。
平安時代の寝殿造りの住居の内部がいかに美的空間であったのかは、「東屋 一」や「宿木 二」等からも見て取ることができる。


こうした空間の中で、現代の日本的な感性の基礎のなる美意識が成立したのだと考えられる。
ここに暮らしたのは、京都という非常に限られた空間に住むごく少数の貴族たちだけだった。従って、『古今和歌集』や『源氏物語』等は特権階級にしか属さず、一般の人々の意識とは何の関係もなかったという考え方もある。
しかし、歴史を経て、平安時代の宮廷の文化が、和歌や物語を通して下の階級に属する人々の伝わり、日本各地に広まっていったことは疑うことができない。
季節の移ろいに美を感じ、そこに「生きとし生けるもの」の心の表現を見る。
それが、平安時代に出来上がった美意識だといえるだろう。

その後、鎌倉時代、室町時代を通して、禅の思想が移入され、平安の美意識と融合する。無の思想が平安的時間の流れに、新たな解釈を与えることになる。
その点については、別の考察が必要となる。