浦島物語 平安時代 名残りの美

浦島の物語は、平安時代になると、中国大陸の書籍の強い影響の下で、「浦島子伝」や「続浦島子伝」と題される漢文の物語として語り直される。

その一方で、和歌や物語の中で取り上げられ、大陸の影響とは別の需要のされ方をした。
そこでは、10世紀初めから続く「日本化」の心性が反映し、理想世界よりも現実世界に関心を持ち、死後の救いよりもこの世での心の動きを重視する、日本的感性を確認することができる。

日本的感性は、仏教の浄土や神仙思想の蓬莱を求める以上に、消え去ったものに対する名残り惜しさ、儚いものに抱くあはれさの感情に価値を置く。
その価値観に根ざした美意識が、平安時代において定式化されたのではないだろうか。

昇天する浦島 大陸の思想

『万葉集』では、水江の浦の島子の物語が語られた後、最後に反歌が付けられている。

常世辺に 住むべきものを 剣大刀 (つるぎたち)()が心から (おそ)やこの君

剣大刀は「汝(な)」の枕詞。
浦の島子に「この君」と呼びかけ、常世の国に住んでいたらよかったのに、お前は愚かだから、地上に戻ってきてしまったと非難する内容の歌になっている。
浦島は、永遠の生命を得ながら、望郷のために永遠を捨て、地上に戻った愚か者なのだ。
こうした考え方は、永遠の生命を得ることを望む神仙思想に基づいている。

平安時代になっても大陸からの影響は続き、「浦島子伝(うらしまこのでん)」や「続浦島子伝」と呼ばれる漢文の物語では、中国の伝奇的な物語の要素が加わり、奈良時代以上に超越的な要素が強まる。

蓬莱山蒔絵袈裟箱

冒頭で、霊亀は海神の娘であり,前世には浦島子と夫婦だったとされる。
結末では、浦島子は故郷に帰り、妻から渡された箱を開ける。そこまでは奈良時代の物語と同じだが、その後の展開は全く違う。
箱からは紫の煙が舞い上がり、 浦島子はその煙に乗って天に上り、「浦島明神」になる。

浦島が昇天して神になるというこの結末は、神仙思想を色濃く反映している。
「莱山蒔絵袈裟箱」には、画面中央に蓬莱山を背負った大亀が波上を進む姿が、その上には松喰鶴が描かれている。
その金と銀の蒔絵は、蓬莱思想の世界を表現した図柄だと考えられている。
平安時代の浦島伝は、この蒔絵と同じ精神に基づいている。

「続浦島子伝」には、性的な描写が描かれる。ある研究者によると、それは中国の房中術を記した『洞玄子』のにある「性の営み」の描写に由来するという。

前世の契り、蓬莱山における性養生(方術の一部)、地上に戻ってからの昇天などの要素は、超越的な次元に重きを置く大陸の思想を色濃く反映している。

超越的理想世界 vs 人間的現実世界

神仙思想における蓬莱山や仏教における浄土は、現実世界を超越した理想世界であり、修行によってそこに達するか、死後にそこに行くことを祈願する場所である。

10世紀の終わり頃に編纂された『往生要集』は、天台宗の僧侶である源信が、浄土教の観点から極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書。その中心的な思想は、次の表現によって明確になる。

厭離穢土(おんり・えど)
欣求浄土(ごんぐ・じょうど)

穢土(えど)とはこの世のことを指し、現実世界を憎み、離れること。
そして、彼岸にある浄土(じょうど)を一心に求めること。

仏教的な救済は、本来は、この世の幸運ではなく、魂が極楽浄土に至ることであり、超越的なものだったことが、この表現から理解できる。

当時の現実は過酷であり、その上、社会的な正義(=正法)がまったく行われない時代=末法が到来するという「末法思想」も広まっていた。
そして、1052年は末法の始まる年だという説が信じられ、人々の現実社会への不安はさらに大きなものになっていた。

現実の過酷さは、「餓鬼草紙」や「地獄草紙」といった絵画によって容易に想像できる。
これらは地獄を描いた図とされるが、現実の悲惨さを象徴的に映し出していると考えていいだろう。

餓鬼草紙
地獄草紙

平安時代の人々は、こうした絵画に見られる「苦の娑婆」を生きながら、超越的な魂の救いではなく、日々の生活に密着した救いを求めた。
つまり、家内安全を祈り、農作物のよき収穫を願う等、現世的な事柄が最大の関心事だった。

実際、平安仏教では、加持祈祷が重要な役割を果たした。
例えば、病気の原因となる物の怪を調伏するために加持祈祷を行う。
未来の予測は陰陽師が行い、予防のために僧侶が祈祷を行う。
こうした呪術的側面は、人々が宗教に期待したことが、死後に超越的な極楽浄土に行くことよりも、現世的な御利益だったことと対応している。

超越的世界ではなく、現世への関心を最もよく示すのは、日本最古の物語と言われる『竹取物語』である。
月からの使者は、かぐや姫に、人間的な感情を消し去る羽衣と、不老不死の薬を渡す。
月に昇天する前、かぐや姫は、育ての親を慈しむ気持ちを失うことを悲しみ、羽衣を着るのを躊躇う。
https://bohemegalante.com/2019/12/30/conte-du-coupeur-de-bambou/3/
不老不死の薬は、愛する帝に贈る。
すると帝は、姫のいない地上で生きながらえることに意味はないと言い、部下の兵士に命じて、不死の薬を富士山の頂上で燃やしてしまう。
https://bohemegalante.com/2019/12/30/conte-du-coupeur-de-bambou/4/
この二つのエピソードが示すのは、日本的な感性は、超越的な永遠性を求めるのではなく、時間の流れる現実世界で感じる人間的な感情を重視するということである。

浦島物語であれば、海上の蓬莱山で永遠の生を享受するよりも、地上にいる父母を慕う心持ちを持つ浦島に共感する。
神仙思想の視点から見れば愚か者かもしれないが、地上的な日々の生活に価値を置く者にとって、地上に戻る浦島は共感できる人間に見えたに違いない。

平安時代に確立した感性は、移ろいやすいものを前にしてあはれを感じる心の動きに美を感じる。そうした美意識を、季節感や恋愛に託して、定式化したのだと考えられる。

和歌や物語における受容

移ろいやすいものに対する感受性が浦島物語の中で強く反応するとしたら、浦島が地上に戻り、妻から渡された箱を開ける場面だろう。

平安時代に書き改められた浦島子の話では、浦島子は昇天して神になる。その最後は、現実主義的感性には合わない。
それよりも、『万葉集』の浦島のように、年を取り、死んでいく結末のほうが、あはれを感じさせる。

さらに平安人の心持ちに相応しいのは、『丹後風土記 逸文』の結末だろう。
そこでは、妻である神女が渡した玉匣には「芳蘭之体」つまり蘭の花の芳香が詰まっていた。
そして、浦島が箱を開けると、蘭の芳香(の体=本質)が風雲に乗って蒼空の彼方に飛び去ってしまう。
その香りとは、蓬莱山の本質だったと考えてもいい。彼は、妻の命じた禁止に違反したために、永遠の名残りを失ってしまう。

『丹後風土記 逸文』では、浦島と妻は最後に和歌の応答をし、さらに後の世の人の歌が二つ置かれる。
その中の一つでは、浦島が箱をあけなければ、妻とまた会えたのにという内容が詠われている。

水の江の 浦島の子が 玉匣(たまこばこ) 開けずありせば またも会はましを

平安時代に詠まれた和歌は、この記述に基づいているのだと考えられる。
例えば、10世紀半ばの『後撰和歌集』に挙げられている歌。

あけてだに 何にかは見む 水の江の 浦島の子を 思いやりつつ

11世紀初頭の『拾遺和歌集』に収められた和歌。

夏の夜は 浦島の子の 箱なれや はかなくあけて くやしかるらん

二つの和歌とも、箱を開けることがはかなさと結びついている。

こうした和歌の伝統を踏まえた上で、『源氏物語』の「夕霧」でも、浦島に言及される。

柏木の未亡人である落葉の宮は、母、一条御息所の病気加持のために、小野の山荘にいる。そこに、夕霧が訪れ、落葉の宮に想いを告げる。そして、その関係が発端となり、一条御息所は死んでしまう。
落葉の宮は、そのまま小野の山荘に残り出家したいと思ったが、父朱雀院から諫められ、夕霧によって本邸の一条宮に連れ戻される。

その引っ越しの車の中で、落葉の宮は、隣の空席に刀と螺鈿の箱があるのを目にし、次の歌を詠む。その時の気持ちを、紫式部は、浦島のようだと説明する。

恋しさの 慰めがたき 形見にて 涙に曇る 玉の箱かな

(中略)誦経にせさせたまひしを、形見にとどめたまへるなりけり。浦島の子が心地なむ。

「誦経にせさせたまひし」というのは、玉の箱が、一条御息所の病を癒すために加持祈祷を行った僧侶へのお布施として作られたことを意味する。
しかし、箱は僧侶に渡されず、「形見にとどめたまへる」、つまり、そのまま形見として取っておいた。
落葉の宮は、小野を後にする車の中で、その玉の箱を見て、亡くなった母のことを想いだし、涙にくれる。
その時の気持ちが、海の蓬莱山から玉匣を持ち帰った浦島の気分だというのである。

浦島物語に対するこうした理解は、決して浄土に行くことを願う神仙思想的なものではない。小箱は、愛する者の名残り、失われたものへの愛惜の象徴に他ならない。
そこには、現世での心の動きこそが美を生み出す、平安時代の美意識がある。

紫式部にとって、浦島は名残りを連想させたらしい。「賢木(さかき)」の章では、素性法師の和歌から光源氏の歌を引き出し、その返答歌として藤壺に浦島物語での名残の感情を口にさせている。

源氏に強く迫られた藤壺は、桐壺帝の死の一周忌を迎えると、誰にも知らせず突然出家する。
その屋敷を源氏が訪ねていくと、藤壺の暮らしぶりは様変わりしていて、邸は人も少なく、気のせいか沈んでいるようにも見える。

光源氏は、その光景を「いとものあはれなるけしき」と感じ、何も言葉を発しないでいる。しかし最後に、「解けわたる池の薄氷、岸の柳のけしきばかりは、時を忘れぬ」と言い、その場で、「むべも心ある」と素性法師の和歌を口ずさむ。

音に聞く 松が浦島 今日ぞ見る むべも心ある あまは住みけり (後撰集)

「むべも心ある」とは、奥ゆかしい心を持っている、という意味。
松が浦島とは仙台の近くにある海岸で、平安時代にはすでに有名だった歌枕。『枕草子』の中でも名前が挙げられている。
素性法師は、有名な「松が浦島」を目にし、そこには趣味のよい海人が住んでいるのだと歌にした。

源氏は、藤壺の屋敷の寂しげな様子に「いとものあはれなるけしき」を感じ、尼(あま)と海女(あま)を掛詞として、素性法師の歌を思い出す。
そして、そこに自分の歌を重ねる。

ながめかる 海人のすみかと 見るからに まづしほたるる 松が浦島

「ながめ」は、「長布」(海藻)と「眺め」が係り、海藻を採る海女と、その姿を眺めるという意味が含まれる。
「海人」には「尼」が掛けられ、藤壺を指す。
「しほたる」は「潮垂る」。「海人」の縁語であるが、涙がこぼれ落ちるの意。
藤壺の館のある場所を、歌枕で名高い松が浦島と見なし、趣があればあるほど、まずなによりも先に涙が流れてくると、源氏は詠う。

実は、ここまでは、歌枕の地としての「松の浦島」が話題になっていて、素性法師の歌も、源氏の歌も、浦島物語とは何の関係もない。

ところが、源氏の和歌を伝えられた藤壺は、松の浦島を離れ、浦島物語を連想させる返歌を口にする。

ありし世の 名残りだになき 浦島に 立ち寄る波の めづらしきかな

彼女の住まいに昔の名残りなど残っていず、誰も訪れはしない。そんな中、立ち寄る人がいるとは、珍しいこと。
そのように詠う藤壺にとって、浦島という名前は「名残り」と結びついている。

永遠を求める心には、名残りなど無用だといえる。
その反対に、「いとものあはれなるけしき」に「なまめかし」さを感じる心にとって、名残り惜しさは美の源泉となる。

平安時代の美意識は、浦島物語から、儚く消え去るものに対する想いを読み取ったのだった。

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