
1857年、『悪の華(Les Fleurs du mal)』を贈られたフロベールはボードレールに礼状を書き、「あなたはロマン主義を若返らせる(rajeunier le romantisme)方法を見つけたのです。」と詩集全体の総括をした。
さらに続けて、好きな詩の題名を幾つか列挙し、その中で、「月の悲しみ(Tristesses de la lune)」を挙げる。そして、そのソネの第1カトラン(四行詩)の3行目と4行目を引用した。

フロベールは、『ボヴァリー夫人』の中で、エンマのロマン主義的な傾向を揶揄しているように見え、ロマン主義の批判者とも受け取れる。しかし、別の視点から見れば、彼もまた「ロマン主義を若返らせる」方法を模索したと考えることもできる。
では、詩人と小説家が同じ方向に歩みを進めていたとしたら、新しいロマン主義とはどのようなものなのだろうか。

同じ礼状の中で、フロベールはボードレールに、螺鈿(damasquinage)にも似た「言語の繊細さ(délicatesses de langage)」が、『悪の華』の「辛辣さ(apreté)」に価値を与えていて、その辛辣さが好きだと伝える。
エンマのロマン主義で批判の対象になるのは、センチメンタリスム。
それに対比されるのは、夢が消えた後の虚しさ、苦々しい想い、不快さ。一言で言えば、「辛辣さ(apreté)」。
とすれば、若返ったロマン主義は、「螺鈿の言葉を彫琢し、辛辣さから美を生み出す」ものと言えるのではないだろうか。
Tristesses de la lune
Ce soir, la lune rêve avec plus de paresse ;
Ainsi qu’une beauté, sur de nombreux coussins,
Qui d’une main distraite et légère caresse
Avant de s’endormir le contour de ses seins,
月の悲しみ
今宵、月は夢を見ている、これまで以上に何もせずに。
ちょうど一人の美女の様。数多くのクッションに身を横たえ、
放心し、軽やかな手で、愛撫する、
眠り込む前に、自らの胸の曲線を。
第一カトランには、夢見る(rêver)、何もせず怠惰に(paresse)、放心した(distraite)、軽々とした(légère)、愛撫する(caresser)、眠る(s’endormir)等、夢幻的な雰囲気を醸し出す単語がちりばめられている。
月が夢見る(la lune rêve)その夜は、まさにロマン主義的だといえる。

そこで、月は一つの美(une beauté)と重ねあわされる。より具体的に言えば、一人の美しい女性。
彼女は眠りにつく前、何も考えず、気もそぞろに、自分の胸を愛撫している。
ちなみに、フロベールがボードレールへの手紙の中で引用したのは、「放心し、軽やかな手で、愛撫する、/眠る前に、自らの胸の曲線を。」の2行だった。
詩人は、月夜の美の夢を、[ s ]の音の反復(アリテラシオン)で導いていく。
題名のTristessesの中では、音としてはtris/tesseと2度、綴り字としては複数形の s で3度、反復される。
詩の冒頭は、ce soirと2度、[ s ]が繰りかえされる。
四つの詩行の最後には、すべてに[ s ]が置かれている。paresse, coussins, caresse, ses seins。
それ以外にも、sur, distraite, s‘endormirの中で[ s ]が響く。
題名の悲しみ(tristesses)が複数形に置かれているだけではなく、至るところに悲しみの音が響き渡っているのである。
Sur le dos satiné des molles avalanches,
Mourante, elle se livre aux longues pâmoisons,
Et promène ses yeux sur les visions blanches
Qui montent dans l’azur comme des floraisons.
ふわふわとした雪崩の、サテンのような背中の上で、
今にも死なんとして、彼女(月)は長い失神に身を委ね、
白い幻に眼差しを這わせる、
蒼穹の中、開花したかのように立ち上る幻に。

夜の間ぼんやりと夢見ていた月(lune)は、明け方近くになり、山並みに隠れようとしている。
その山では、ふわふわとした雪の雪崩(molles avalanches)が起き、サテンのように(satiné)艶やかに輝いている。
その向こうにはすでに青くなった空(l’azur)が広がり、雲が開花した木々の葉(floraisons)のように立ち昇ってきている。
それらの雲が白い幻(visions blanches)のように見えるのは、山の雪の色を反映しているとも考えられる。あるいは、今にも息絶えそう(mourante)で、失神しそうな(pâmoison)月が、白く雲を染めているのかもしれない。
いずれにせよ、白い月は、朝の景色の中で、消えていくしかない。
Quand parfois sur ce globe, en sa langueur oisive,
Elle laisse filer une larme furtive,
Un poète pieux, ennemi du sommeil,
Dans le creux de sa main prend cette larme pâle,
Aux reflets irisés comme un fragment d’opale,
Et la met dans son cœur loin des yeux du soleil.
時々、この地球の上に、無為で物憂い月が、
一筋の涙をこっそりと流す。そんな時、
敬虔な詩人は、眠りの敵となり、
手の窪みに、青白い涙を捉える、
その反映がオパールの欠片のように虹色に輝く涙を、
そして、彼の心の中、太陽の眼差しから遠く離れたところに置く。
テルセ(3行詩)になり、月が再び擬人化され、月の涙が一筋、瞳から滴り落ちる。ちょうど、ソファーのクッションに身を埋めた美しい女性が、密かに涙を流すように。

その時の様子が、「無為で物憂い状態(en sa longueur oisive)」と描写される。
物憂さ(langueur)という単語は、19世紀前半のロマン主義まっただ中の時代であれば、メランコリー(mélancolie)と表現されたに違いない。
『悪の花』では、憂鬱(spleen)という言葉に近く、理想(idéal)と対比的に使われる。
そうした状態にある月(美)が流す涙(larme)は、人目を忍ぶひっそりとした(furtive)涙であり、色は青白い(pâle)。
そこで、ボードレールは、青白さ(pâle)と韻を踏む単語にオパール(opale)を選択し、涙に虹の輝き(irisé)を与える。
それこそが詩人(poète)の役割なのだ。
月に対して敬虔な(pieux)詩人であれば、眠りの敵(ennemi du sommeil)として、夜の間も決して眠りはしない。
そして、朝も明けた頃、月が今にも消え入りそうになり一筋の涙を流すとき、その雫を手の平で捉え、彼自身の心の中にそっと置く。
もしそこが太陽に照らされた場所であれば、淡い月の光の雫は目にも入らず、すぐに消え去ってしまうだろう。
他方、太陽から遠ければ、月の涙は、オパールの欠片がキラキラと輝くように、美しく輝く。
詩人とは、太陽の光から遠く離れて、悲しみの涙をそっと心に留め、美に変える存在。
それがボードレールの考える詩人であり、ボードレール自身、「悲しみ(tristesses)」の涙からオパールの輝きを生み出す有様を、「月の悲しみ(Tristesses de la lune)」の中で描き出している。

「月の悲しみ」では、ロマン主義的な言葉が数多く使われているし、描き出されたイメージもロマン主義的な印象が強い。
しかし、決してセンチメンタルな詩ではなく、死や涙や失神という言葉が使われていても、感傷的な要素によって読者の感情を揺さぶることはない。
しかも、フロベールの言うように、「言語の繊細さ(délicatesses de langage)」が素晴らしく発揮されている。(ただし、「辛辣さ(apreté)」は、他の詩に比べると、かなり押さえられている。)
実のところ、涙は素材であり、ボードレールはこの詩の中で、どのように涙を美に変形するかという詩法を語っている。
詩法を語る詩は、エドガー・ポーの「詩の原理」に基づく新しい詩の考え方であり、「月の悲しみ」はそれ自体の内に自らの生成の秘密を含んでいる。
それこそが、ロマン主義を発展させながら新たな詩の創造を目指すボードレールの試みだったといえるだろう。
「ボードレール 月の悲しみ Baudelaire « Tristesses de la lune » 新しいロマン主義?」への1件のフィードバック