ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 1/5

アルチュール・ランボーは、『地獄の季節(Une Saison en enfer)』の中心に、「錯乱2:言葉の錬金術(Délires II. Alchimie du verbe)」と題する章を置き、7つの韻文詩とそれらを取り囲む散文詩を配した。

そこで繰り広げられた「言葉の錬金術」の内容は、1871年5月に書かれた「見者の手紙(Lettres du Voyant)」や、同じ年の8月に投函されたテオドール・バンヴィル宛ての手紙に書き付けられた韻文詩「花について人が詩人に語ること(Ce qu’on dit au poète à propos des fleurs)」の中で展開された詩法を、さらに発展させたものと考えられる。

ここでランボーの散文詩を読むにあたり、指摘しておきたいことがある。
多くの場合ランボーの散文の構造は非常に単純であり、それだからこそ、青春の息吹ともいえる生き生きとしたスピード感に溢れている。
その一方で、単語と単語の意味の連関が希薄なことが多く、論理を辿りにくいだけではなく、意味不明なことも多い。
そのために、多様な解釈が可能になる。読者の頭の中にクエション・マークが??????と連続して点滅する。
その不可思議さが、ランボーの詩の魅力の一つでもある。

では、これから『地獄の季節』の心臓部とも言える「錯乱2:言葉の錬金術」を読んでみよう。

À moi. L’histoire d’une de mes folies.

今度はぼくの番だ。ぼくの狂気の一つを物語るとしよう。

「今度はぼくの番(C’est à moi de parler.)」というのは、「錯乱 I」で「ぼく」とは別の人物の告白があり、「錯乱 II」ではぼくが話をする番だという意味。
そして、自分の狂気の一つ(une de mes folies)に関する話(histoire)を始める。

従って、「言葉の錬金術」は一人称の告白であり、最初の段階では、ぼくが持っていたもの、好きだったもの、夢見たことが語られる。

その際、文の主語は徹底的に「ぼく(je)」であり、その後に、動詞+目的語の非常に単純な構文が用いられ、目的語には数多くのものが列挙される。
「ぼくは・・だった。ぼくは・・・だった。ぼくは・・だった。」と反復する文は、あたかも小学生の作文のようでもある。
しかし、それが、逆説的に、散文詩としての文体的効果を高めている。

ぼくの告白は以下の通り。
ちなみに、過去の自分の状態を描く部分の動詞は、全て半過去形に置かれている。

Depuis longtemps je me vantais de posséder tous les paysages possibles, et trouvais dérisoires les célébrités de la peinture et de la poésie moderne.

ずっと前から、ぼくは全ての潜在的な風景画を持っているのが自慢だった。そして、絵画や現代詩の有名なものはつまらないと思っていた。

まず最初に、二つの価値観が述べられる。
自慢なのは、風景(画)(paysages)。
価値を見出さないのは、絵画(peinture)や現代詩(poésie moderne)の中でも有名なもの(célébrités)。
célébritésは有名な画家や詩人という意味に理解することもできる。
とにかく、一般に評価されているものは、つまらない(dérisoire)という判断を下す。

では、風景(画)(paysages)を持っている(posséder)ことを自慢する(je me vantais)として、潜在的あるいは可能な(possibles)風景(画)とは何だろう。
風景(画)を全て(tous)所有することは現実的に不可能。としたら、潜在的なとは、「ぼく」が想像しうるものという意味に理解できる。それであれば、全てを所有することが可能だ。

そのように考えると、「ぼく」の価値観は、現実よりも空想の上に、有名よりも可能性の上に置かれていたということになる。

この告白の後、「ぼく」の好きだったものが列挙される。

  J’aimais les peintures idiotes, dessus de portes, décors, toiles de saltimbanques, enseignes, enluminures populaires ; la littérature démodée, latin d’église, livres érotiques sans orthographe, romans de nos aïeules, contes de fées, petits livres de l’enfance, opéras vieux, refrains niais, rythmes naïfs.

ぼくが好きだったもの。愚かな絵画、ドアの上の飾り、装飾、大道芸人の垂れ幕、看板、通俗的な彩色画。それから、流行遅れの文学作品、教会のラテン語、綴り字がでたらめのエロ本、祖母たち好みの恋愛小説、妖精物語、子供が読む小型本、古いオペラ、馬鹿げたリフレイン、工夫のないリズム。

好きなものは、一般的には価値がないと見なされるもの。
愚かな(idiot)、通俗的な(populaire)、流行遅れの(démodé)、馬鹿げた(niais)、工夫のない(naïf)といった形容詞が、その価値観を伝えている。

次は「ぼく」が夢見たもの。

  Je rêvais croisades, voyages de découvertes dont on n’a pas de relations, républiques sans histoires, guerres de religion étouffées, révolutions de mœurs, déplacements de races et de continents : je croyais à tous les enchantements. 

ぼくが夢見たもの。十字軍、誰も記録を読んだことのない発見の旅、歴史のない共和国、抹殺された宗教戦争、習俗の革命、人種や大陸の移動。ぼくは全ての魔術を信じていた。

ここで列挙されたことが、具体的に何を指しているのか、はっきりしたことはわからない。
とにかく、「ぼく」は夢見たことを、息せき切ったように語り続け、読者はそれについていくしかない。

最後の、全ての魔術(tous les enchantements)を信じていたと付け加えるが、風景(画)と同じように、全て(tous)と言われることで、「ぼく」が冷静にものごとを観察し、判断しているのではなく、主観的な思い込みを連ねているのだろうと推測できる。

こうした告白の後、これまでの詩的創造の中で決定的な重要性を持つ詩作に言及される。

  J’inventai la couleur des voyelles ! — A noir, E blanc, I rouge, O bleu, U vert. — Je réglai la forme et le mouvement de chaque consonne, et, avec des rythmes instinctifs, je me flattai d’inventer un verbe poétique accessible, un jour ou l’autre, à tous les sens. Je réservais la traduction.

ぼくは母音の色を発明した! ーーAは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。 ーーぼくはそれぞれの子音の形を動きを規定した。そして、直感的なリズムで、詩の言葉を発明したことが自慢だった。その言葉は、いつか、全ての感覚に開かれたものになるはず。別の言葉に置き換える作業は保留しておいた。

ランボーにとって、「母音(Voyelles)」がどれほど大きな意味を持つ詩だったのかよくわかる。
この詩は、ボードレールの影響から一歩踏み出し、彼自身の詩(法)を作り上げた記念碑的なものだった。
https://bohemegalante.com/2019/05/28/rimbaud-voyelles/

面白いことに、「母音」と「言葉の錬金術」では、UとOの順番を変えている。
A noir, E blanc, I rouge, U vert, O bleu,(Voyelles)
A noir, E blanc, I rouge, O bleu, U vert. (Alchimie du verbe)
順番が逆になっている理由は、フランス語の韻文詩で二つの母音が連続することを避ける原則があることから来ている。
韻文詩では母音衝突は避けられている。
他方、散文の「言葉の錬金術」では、あえてbleu – Uと母音衝突をさせ、新しい詩の可能性を示している。

その上で、「ぼく」は詩の言葉(verbe poétique)を発明した(inventer)ことを自慢に思った(je me flattai)と言う。
つまり、韻文詩「母音」が、言葉の錬金術によって生み出された詩的言語の第一歩だったということになる。

その言語は、直感的なリズム(rythmes instinctifs)を持ち、全て(tous)の感覚(sens)に開かれている。
全ての感覚に訴えかけ、活動させる言葉は、ランボーの詩学にとってとりわけ重要である。
「見者の手紙」の中の有名な表現がそのことをはっきりと示している。

Le Poète se fait voyant par un long, immense et raisonné dérèglement de tous les sens.
詩人が自らを見者にするのは、全ての感覚を、長い間、限りなく大きく、しかも理性的に混乱させることによってである。

韻文詩「母音」に関して、「発明した(inventer)」という言葉が2度繰り返されていることに注目しよう
その詩を構成するのは、錬金術によって生み出された最初の詩句だった、とランボーは考えているのだろう。

そして、こう付け加える。「別の言葉に置き換える(traduction)のは保留した。」
これはランボーの謎かけかもしれない。
その答えを推測すれば、「言葉の錬金術」を構成する散文は、韻文「母音」を散文に書き直した(traduire)もの、ということになる。

  Ce fut d’abord une étude. J’écrivais des silences, des nuits, je notais l’inexprimable. Je fixais des vertiges.

それは、何よりも先に、一つの習作だった。ぼくは沈黙を、夜を、言葉にした。表現できないものを書き留めた。眩暈を固定させた。

「言葉の錬金術」の最初の一節の最後を締めくくる散文は、それまでの散文と同様に「ぼく(je)」を主語とし、動詞と目的語が続く単純な文で構成されている。
しかし、それにもかかわらず、好きなものや夢見たことを告白する文とはまったく違い、スピード感が素晴らしく、内容もスタイリッシュになっている。

スピード感は、一つの文が非常に簡潔で、目的語の数が限られることから来ている。
J’écrivais…. je notais…. Je fixais….

それぞれの動詞の目的語となる単語は、読者の意表をつく。
書く(écrivais)対象は、沈黙(silences)と夜(nuits)。
書き留める(notais)対象は、表現できなもの(l’inexprimable)。
固定する(fixais)対象は、眩暈(vertiges)。
これらの言葉から、具体的に何を言葉にし、書き留め、固定するのかわからない。
しかし、そのわからなさが、直感的なリズム(ryghmes instinctifs)の散文によって表現されると、ランボーの作り出すポエジーの魅力の源泉になる。

単純でありながら、この上なくスタイリッシュなこの散文は、小学生が「ぼくが・・・ぼくが・・・」と繰り返す子供っぽい散文ではなく、読者の五感に強く訴えかける詩的散文。
ランボーは、「言葉の錬金術」の冒頭で、あえてそのコントラストを作り上げた。

彼の散文は、言葉の錬金術師によって精製された黄金の詩句なのだ。

この後、自作の韻文詩が2つ引用される。(続く)


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