ランボー「母音」 Rimbaud, « Voyelles » ボードレールを超えて  Au-delà de Baudelaire

「母音」« Voyelles»はランボーの詩の中でも傑作とされ、多くの読者を引きつけてきた。しかし、何度読んでも難しい。なぜこんなに難解な詩が高く評価されるのだろうか。

その魅力を知るためには、ランボーが目指したものを知り、一つ一つの詩句をじっくりと読んでみるしかない。

その試みに挑んだら、ソネを構成する14行の詩句の解説に、12,000字程度費やすことになってしまった。長い長い解説。。。

アルチュール・ランボーは、1872年5月、学校の先生宛に書いた「見者の手紙」の中で、これまでの詩とは違う詩の創造を宣言する。その要点は、全ての感覚を合理的に乱し(dérèglements raisonnés de tous les sens)、新しいもの、未知のものに達する(arriver au nouveau / à l’inconnu)というものだった。

その実践として、1871年8月、テオドール・バンヴィルに向けて、「花について詩人が言われること」という詩を送りつける。
その中で、ロマン主義やパルナス派の詩をやり玉にあげ、現実を写し取る(photographier)詩を否定。
彼の目指す詩は、言葉が未知のなるものを生み出す、というものだった。

まずは、文字をたどりながら朗読を聞き、音楽性を感じよう。ランボーやヴェルレーヌにとって、詩は音楽であり、Chansonなのだ。

A noir, E blanc, I rouge, U vert, O bleu, voyelles,
 Je dirai quelque jour vos naissances latentes :
 A, noir corset velu des mouches éclatantes
 Qui bombinent autour des puanteurs cruelles,

Golfe d’ombre ; E, candeurs des vapeurs et des tentes,
 Lances des glaciers fiers, rois blancs, frissons d’ombelles ;
 I, pourpres, sang craché, rire des lèvres belles
 Dans la colère ou les ivresses pénitentes ;

U, cycles, vibrements divins des mers virides ;
 Paix des pâtis semés d’animaux, paix des rides
 Que l’alchimie imprime aux grands fronts studieux ;

O, suprême Clairon plein de strideurs étranges,
 Silences traversés des Mondes et des Anges…
 — O l’Oméga, rayon violet de Ses Yeux !

19世紀の詩法において、14行のソネでは、2つの4行詩で主題を提示し、最初の3行詩で大きな展開をし、二つ目の3行詩でまとめるという、原則的な決まりがあった。
「母音」では、最初の2行で母音と色の関係が提示され、次の6行でボードレール、パルナス派、ロマン派の詩が取り上げられる。そして、次の6行になると、ランボー自身の詩法である「言葉の錬金術」が示される。

ボードレール的世界

1.母音と色の結合

ランボーは最初の2行で、自分の試みを一気に提示する。

Voyelles

 A noir, E blanc, I rouge, U vert, O bleu : voyelles,
Je dirai quelque jour vos naissances latentes :

A 黒、E 白、I 赤、U 緑、O 青:母音、
いつの日か、お前たちの潜在的な誕生を語るだろう。

全ては黒と白から始まる。
彼の時代、黒は色の存在しない状態であり、白は全ての色が含まれるという考えがあった。その考えに従い、最初に「ゼロ」と「全」を提示したといえる。
次に、色の三原則である、赤、緑、青を列挙する。
この色の提示の仕方はとても合理的である。

母音に関して言えば、A, E, I, O, Uという順番が普通だが、最後の二つが逆になっている。その点については、ギリシア語のアルファベットの順番に従ったという説が有力。そこでは、Alfa(アルファ)が最初で、oméga(オメガ)が最後に来る。従って、アルファベットの順にも論理があるように見える。

では、色とアルファベットの繋がりについてはどうだろう。
まず確認したいことがある。色と文字の結合はランボーの独創ではなく、ロマン主義に時代にすでに行われていた。
ドイツでは、オーギュスト・W・シュレーゲルが、« A は赤, O は深紅, Iは空の青, Ü はヴァイオレット, Uは 深い青 »としている。
フランスでも、ヴィクトル・ユゴーは、「A とIは白く輝く母音。Oは赤い母音。(以下略)」と感じた。アルフレッド・ミュッセも音と色の結びつきから、「ラは黄。ソは赤」と、ある手紙の中で記している。
こうした言葉からは、文字や音と色の連想は斬新ではないことがわかる。それと同時に、その組み合わせに、決まった規則がないこともわかる。ユゴーならAとIは共に白だが、ランボーにおいては、Aは黒、Iは赤。

ランボーは、『地獄の季節』の中で、「ぼくは母音の色を発明した。」と宣言する。上のことからして、発明したのは、具体的な組み合わせ、例えば、Uと緑、Oと青の組み合わせということになる。(ちなみに、『地獄の季節』では、OとUの順になっている。)そのつながりに規則も必然性もなく、自由に組み合わせが可能なのだ。

「母音」でこれから語られるのは、母音と色の潜在的な誕生だと「ぼく」は言う。潜在的な(latent)とは、詩人がそれらの結合を行い、新たな組み合わせを自由に生み出すという意味だろう。『地獄の季節』では、次のように語る。

ぼくはそれぞれの子音の形と動きを整えた。そして、直感的なリズムに従いながら、詩的な言葉を発明した。それが自慢だった。その詩的言語は、いつの日か、全ての感覚に対して開かれたものになるだろう。

全ての感覚に開かれた言葉とは、音、リズム、文字の形が聴覚や視覚に訴えかけるものと理解できる。しかし、そこには留まらず、味覚や臭覚、触覚にも働きかけることをランボーは想定している。彼はボードレールを崇拝し、共感覚の理論に共鳴していたのだ。
共感覚は「コレスポンダンス」で見事に表現されていた。
https://bohemegalante.com/2019/02/25/baudelaire-correspondances/

その上で、ランボーはボードレールを超えようという意欲に満ち満ちていた。そこで彼は、面白いやり方を取った。
ボードレールは共感覚の世界の中で主体と客体が一体化し、恍惚感を得る状態を最高の美と考えた。
ランボーは、その考え方に基づきながら、主観的な詩から客観的な詩を目指す。« je est un autre.»(私は三人称単数のような他者である。)という表現はその現れといえる。一人称の« je »に対して、動詞êtreの三人称の« est »を繋げたのだ。その結果、私と彼(それ)の区別は曖昧になる。こうした表現は、ランボーのランボーたるゆえん。彼は面白がり、遊びとして、動詞の活用を「間違えて」文を作ったのだった。

「母音」でも、このような遊びの姿勢、規則を揶揄し違反を犯す姿勢、パロディーの精神、皮肉な笑いが見られる。

この詩が書かれたのは1871年のことと考えられ、ランボーはまだ17歳にもなっていなかった。生意気で、プライドが高く、何にでも反抗的な青年。


2.Aは黒

彼は、最初に提示した順番通り、Aから始める。

A, noir corset des mouches éclatantes
Qui bombinent autour des puanteurs cruelles,

Golfes d’ombre. (…)

A, 輝くハエたちの黒い胴着。
残酷な悪臭たちのそばで、ぶんぶんと飛び回っている。

影の湾たち。(・・・)

最初に目に飛び込んでくるのは、最後の言葉(影の湾たち)が、第1詩節から第2詩節に飛ばされていること。フランス語の詩句では、基本的には一つの行で意味の切れ目が収まることが求められる。次の行にまたぐ技法(句またぎ、enjambement)もあるが、同じ詩節の中に限られれる。ランボーはその規則を大胆な仕方で無視。明らかに、視覚的効果を狙っている。

視覚という視点からは、Aの文字とハエの胴体の形の類似が提示されていることに気づく。本来は無関係であるAと胴体の黒を結びつけるのが、ランボーの最初の工夫。
母音Aが黒を連想させる、新しい世界が生み出される。

その上で、ボードレール的な共感覚に則り、ハエの飛び回る音が« bombiner »という動詞によって喚起され、聴覚に訴えかける。飛び回るのは悪臭(puanteurs)の周り。そのため、臭覚も同時に呼び覚まされる。

「子音の形と動きを整え」ることも忘れてはいけない。
「残酷な悪臭」(les puanteurs cruelles)という表現は不自然である。残酷さは精神的な次元のことで、匂いと普通は結びつかない。
この名詞と形容詞の関係は、一行上の「輝くハエ」(les mouches éclatantes)と対応し、イパラージュ(hypallage)という修辞学的な技法で説明される。名詞と形容詞の関係を交差させ、「残酷なハエ」と「輝く香り」という結びつきが自然なことを前提に、それを逆転させる技法。
その際に、ランボーは、子音« k »の音で、その関係を成立するように整える。« corset », « éclatantes », « cruelles »という言葉に子音« c »がちりばめられている。そのことで、「胴衣」から「残酷」までが、文字と音でつながる。

また、「残酷な悪臭」は、伝統的な詩では拒否される悪や醜そのもの。伝統に反してそうした要素を詩の中で取り上げるのは、ボードレールに従った詩法だといえる。

生前のボードレールは「腐屍」(« Une Charogne »)の詩人として知られていた。その詩の中では、ハエたちが女性の腐敗した遺体の腹の上でブンブンという音を立て、ウジ虫たちの黒い集団が湧き出している。(« Les mouches bourdonnaient sur ce ventre putride, / D’où sortaient de noirs bataillons / de larve […]. ») 
ハエの連想で、ランボーがボードレールに従っていることは間違いないだろう。

Aの最後、第一詩節の中でAとハエとが共感覚で繋げられた後、視覚的効果を作り出すために、第2詩節に向かって句またぎが行われ、今度はAと湾の形がつなげられる。

しかも、その湾には影あるいは闇を意味する« ombre »という修飾がなされる。
伝統的な絵画では事物の影には黒い色が使われてきたが、ドラクロワを経て印象派の画家たちに至り、影にも色があるという認識がされるようになっていた。
ランボーはそれを知った上で、あえて、黒と影を再びつなぎ合わせたのだろう。黒は色の不在であり、ランボーの思考では、無から全てが発生すると考えられるからである。


3.Eは白

Eの白は、2つの言葉で表現される。« candeur »と« blanc »。
その違いを探ることで、4つの単語が並列し、それぞれの関連が示されない詩句(parataxe)を解読する鍵が見えてくる。

[…]. E, candeurs des vapeurs et des tentes,
Lances des glaciers fiers, rois blancs, frissons d’ombelles ;

(前略)。E、蒸気とテントの無邪気な白、
誇らしげな氷河の槍、白い王、セリの花のおののき。

単なる白(blanc, blancheur)という単語ではなく、« candeur »が使われてることに注目しよう。この単語は、19世紀後半のリトレ辞典によると、精神的な性質で、魂が純粋で邪気のないという意味。しかし、語源的に見るとラテン語の« candor »(輝くような白さ)に由来する。従って、その言葉を使うことで、単なる白という色だけではなく、精神的な意味を込めていることがわかる。

誇らしげな(fier)も精神的な意味が強くある。物を修飾する場合には比喩的な表現になり、ここでは氷河(glacier)を擬人化するともいえる。

セリの花の「おののき」(frisson)も、単に揺れるという以上に、感情や感覚を伴った揺れのことで、花を物質的な次元から精神的な次元に移行させる働きをしている。

このように見るとき、白い王という表現が、それ以外の表現と反対の方向を向いていることがわかる。« candeur »が白くかつ純粋だとすると、« blanc »は白だけで、精神的な次元が欠けている。そして、その形容詞だけが人間と関係付けられている。その結果、王様たちは白く、非人間化される。

言葉の表現を見ていくと、« candeurs »の« eur »は« vapeur »に引き継がれるだけで煙のように消えてしまう。それに対して、鼻母音« an »の方は« blanc »に含まれ、二つの白をつなぐ。
さらに、« tente », « lance »にも含まれ、母音反復(assonance)を形成する。さらに、« c »が« lance », « glacier », « blanc »の中に含まれる(allitération)。
このように、« candeur »を形成する音と文字が、2行の詩句を支配していることがわかる。

ところが、« blanc »が出てくる2行目では、« l »の音がより重要性を増し、« lance », « glacier »、« ombelle »と、全部で4度反復される(allitération)。そのことによって、重心が精神的な次元の白さから、単なる色彩としての白さに移行することが暗示されている。
最後に置かれたセリの花« omelle »は、次の詩句で韻を踏む« belle »と響き合い、白い美しい花を読者の目の前に咲かせる。
その時、おののき(frisson)は比喩的な意味になり、目に見える揺れ、つまり物理的な動きとなり、精神的な次元は後退する。

こうした姿勢は、ランボーが攻撃の対象とした高踏派(パルナス派)の詩の姿勢だといえる。
パルナス派は完璧な形式美もつ詩を目指し、ロマン派的な感情の横溢を抑制した。高踏派の代表であるテオドール・ド・バンヴィルに向けた詩「花に関して詩人に言われること。」でも、ランボーは高踏派詩人を「白い狩人」(blanc chasseur)と呼び、彼等の花(詩)を批判した。彼等は無感動、無感覚な「白い王たち」なのだ。

このように読み説くとき、Eの詩句は、高踏派の詩に対する批判であることがわかってくる。


4.Iは赤

赤に移ると、攻撃の対象は、1830年のロマン主義詩人たちになる。

I, pourpres, sang craché, rire des lèvres belles
Dans la colère ou les ivresses pénitentes ;

I, 緋色。吐き出された血、美しい唇の笑い
怒りにとらわれた時の、あるいは贖罪の陶酔の中での。

Iでは、赤(rouge)という単語は出て来ず、« pourpre »が使われる。きらきらとした濃い赤の材質で、古い時代にはローマの執政官やキリスト教の高位聖職者の服として用いられていた。贖罪(pénitent)はその連想。

宗教的な苦行の中で、血を吐くまで自己を責めさいなむことがあったのだろう。そして、それが陶酔につながる。
その時、神の前で悔恨を吐露しているようでいながら、もしかすると悪魔の行為かもしれない。怒りや笑いは堕天使である悪魔を連想させる。笑う唇の美しさが悪魔のものだとすれば、最大の皮肉となる。

この2行詩は、物質的な緋色の素材や吐き出された血で始まるが、笑い、怒り、陶酔という順に、感情的な要素が強くなっていく。これは高踏派ではなく、ロマン主義文学のテーマだといえる。

音では、« i »が« rire »と最初に響き合い、最後に« ivresses pénitentes »と2度連続する(assonance)。その音によって、笑いと贖罪の陶酔が赤く染まる。

« pourpre »には、« p »と« r »が2回づつ出てくる(allitération)。
« p »が次に出てくるのは、最後の« pénitent »。それに対して、« r »は、« rire », « lèvres », « colère », « ivresse »と連続し、悪魔の緋色の笑いが詩句全体に響いているかのような印象を生み出している。


言葉の錬金術

興味深いことに、UとOの詩句で、緑は« viride »という単語が出てきても、青は出て来ない。二番目の3行詩で言及される色は紫。そこにはどのような意味があるのだろうか。

U, cycles, vibrements divins des mers virides,
Paix des pâtis semés d’animaux, paix des rides
Que l’alchimie imprime aux grands fronts studieux ; 

O, Suprême Clairon plein des strideurs étranges,
Silences traversées des Mondes et des Anges :
– O l’Oméga, rayon violet de ses yeux ! 

U, 数々の循環、緑の海の神々しい震え
動物が点在する草原の平和、皺の平和、
錬金術の勤勉な広い額に刻み込まれた皺。

O、奇妙で甲高い響きに満ちた最後のラッパの音、
静けさを通り抜ける数々の世界と天使たち。
ー O オメガ、「彼」の目の紫の光線。

1.Uは緑 

Uの連想の中で使われるのは、« vert »ではなく、« viride »。
19世紀の辞書にこの単語は掲載されていず、現代の語源辞典を見ると、ランボーがラテン語の« viridis »(緑)から援用した言葉と説明されている。つまり、ランボーの造語。
では、その言葉をあえて作り出した理由はどこにあるのだろうか。

最初に指摘したいことは、ラテン語ではUとVの文字に区別がなく、石に文字を刻む場合、Vも全てUと記されていたということ。従って、ランボーがUと緑色(Vert)を結合したのは、子音の形に由来すると考えていいだろう。

次に、ラテン語の« viridis »には母音« i »が含まれていることに、注目する必要がある。直前にIは赤と結びつけられていた。その赤は緑と補色関係にある。

19世紀、色彩の理論が様々に発展した。フランスでもシュブルールの色彩調和論等を中心に、反対色や補色の理論に基づき、19世紀後半、印象派の画家たちが新しい絵画制作の模索をしていた。

シュブルールの色彩環


ランボーもそうした時代の思想に触れていたに違いない。そこで、緑U(V)の補色である赤であるIと隣接させ、« i »を含むラテン語の緑(viride)を作り出したのでははないだろうか。補色を隣り合わせると、双方の色がより鮮やかになる。

ランボーの時代に知られていたのかどうかわからないのだが、補色の一方をしばらく見つめ、その後で白い紙を見ると、残像としてもう一方の色が現れるという現状がある。例えば、赤を少しの間見た後で白い紙に目をやると、緑が現れるという心理作用。
« Voyelles »も、Iの赤の後、緑が続くが、その緑(vert)の中に、« i »が含まれ« viride »となり、赤が残る。これこそ、言葉の錬金術によって生み出された新たな言葉だといえる。

新たな言葉、新たな世界を生み出すというのは、神の領域に属す行為。
ランボーにとって、ボードレールは、第一の見者であり、詩人の王であり、本当の神の一人(un vrai Dieu)。(1871年5月、ポール・デメニー宛ての手紙。)

ランボーは、そのボードレールを超えようとした。
そのために自らに課すのは、労働(travail)である。インスピレーションを待ち、技術を用いず、直感的に作業をするのではない。
創造にはたゆまぬ労働が必要だと考える。インスピレーション中心のロマン主義詩人と、エドガー・ポーやボードレールが打ち立てる詩作の理論が対立している時代にあって、ランボーはボードレールに従い、詩作も技術と労働によって行わなければならないという側に立っていた。
卑金属(日常言語)を黄金(詩)へと精錬する錬金術師は、日夜仕事に励む必要がある。実際、ランボーはいたるところに、労働(travail)という言葉を書き付けた。1871年5月13日の手紙には、「ぼくは詩人でいたいのです。そして、「見者」になるために働くのです。」とある。

「母音」の最初の三行詩でも、錬金術が皺を刻み込むのは、大きく勤勉な額(fronts studieux)だと言われる。その勤勉さという言葉が、労働の証しである。
さらに重要なことに、その形容詞(stu/dieux)には神(dieu)が隠れている。錬金術は、人間を超えた神の業なのだ。ランボーが目指す詩作も、ボードレールを超え、新たな世界創造へと向かうもの。その意気込みが、ここに現れている。

詩句のレベルで見ていくと、同時対比の法則に則り、赤いIが至る所に置かれている。
音の次元では、« cy(cle), vi(brement), di(vin), viri(de), (pâ)tis, ani(mal), ri(de), (al(chimi(e), (im)pri(mer), (stu)di(eux) »。
文字のレベルではここに上げた以外に、« (di)vin, (p(ai)x, im(primer) »がある。
その中でとりわけ重要なのは、緑の海の震え(vibrements)に付けられた« divin »。そこでは« i »が« v (u) »を取り囲み、赤・緑・赤という配列がなされ、その単語自体で、色彩調和が実現している。
意味のレベルでは、神(dieu)を喚起し、勤勉さ(stu-dieux)の予言となる。

緑と赤の色彩調和は、コレスポンダンスに基づきいた、対立するものの調和でもある。ここでは、動と静が同時に存在する。Uと同格に置かれた4つ言葉の中で、円の循環(サイクル)と海の震えは「動」、草原の平和と皺の平和は「不動」。緑のUは、色彩の輪(cycle)をベースにし、対立するものを調和させる。
それは神の錬金術の場に他ならない。


2.Oは青。

二番目の3行詩では、Oと青が結びつけられるはずなのだが、青は出て来ない。第一行の予告、« O bleu »がここで裏切られてしまうのだ。その一方で、紫(violet)に言及される。

私の読みとして、そこにランボーの遊びの精神があるという仮説を提出してみたい。終わりが始まりであるという、生の運動の戯れを暗示するという仮説。

この3行詩は明らかに、「ヨハネによる黙示録」を下敷きにしてる。
ラッパの音が響き、天使が飛び交い、最後の言葉オメガが発せられるのが、その証である。

 « Voyelles »の最初の言葉は« A »だった。そして、最後の行では« O »が置かれ、その後、オメガという言葉が並置される。
そのようにして、14行のソネットの時空間が、アルファとオメガの中に収められている。

「ヨハネの黙示録」の1章8節にはこうある。
「神はおっしゃった。私はアルファでありオメガである。最初であり最後である。いま存在し、かつて存在し、やがて来るべき者。全能の者。」
オメガという言葉を詩の中に書き込むことで、ランボーは黙示録のこの言葉を思い起こさせようとしたのだ。

詩の最後を告げるため、詩人はラッパの音を響かせる。
その際、ラッパに「他を超越した、最後の」(suprême)という形容を施す。しかも、« Suprême Clairon »は最初の文字が大文字になり、あたかも固有名詞のように、つまり他に変わるものがない単一の存在として出現する。

「ヨハネによる黙示録」の中では、ラッパが天使によって7回吹かれる。
第一の天使のラッパが鳴ると、血の混じった雹と血が地上に降り注ぐ。そのようにして、6番目のラッパまで、地上は破壊され続ける。
しかし、第7のラッパは、地上が神の国になることを予告する。
「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。」(11章15節。)
そして、22章13節では、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。」という言葉が、再び発せされる。

詩の最後の言葉は、「彼のまなざし」だが、« Ses Yeux »と語の最初は大文字になっている。
ここでも大文字は普通名詞を固有名詞にし、このまなざしとは、神という唯一の存在の眼差しであることを示している。
そこで、紫の光線(rayon violet)は、神の目の光線なのだ。

では、なぜ青ではなく、紫なのか? 

ランボーは、オメガに言及した時点で、終わりを強く意識していた。
虹の7色の考えるとき、一番外の光線が赤で、一番内側の光線は紫と見なされる。つまり、虹の光線の段階的変化では、光の色は赤で始まり紫で終わる。
ランボーは、神の目の光線の色を、虹のスペクトルに従って紫にしたのではないだろうか。

さらに、黙示録の神は、自らをアルファでありオメガであると言う。
アルファとオメガは、対立し排除し合うのではなく、両立する。「あるいは(ou)」ではなく、「と(et)」の関係。
「母音」の« O »も、ラッパの音であり、沈黙でもある。音と無音を同時に体言する。

また、ラッパを意味する« Clairon »には、クリアーな(clair)という音が含まれるが、他方で、突き刺さるような不快で奇妙な音(des strideurs étranges)に満ちてもいる。ラッパの音にも、二つの対立する要素が両立している。

沈黙も、数々の世界と天使たちが横切るため、決して無音ではない。
とりわけ、天使は黙示録ではラッパを吹く役割を果たしている。
また、世界も、« des Mondes »と大文字が使われ、固有名詞化されていると同時に、音の面では、« dé-mon »(悪魔)を連想させる。

このようにして、対立するものの一致(coincidentia oppositorum)が行われていることがわかる。
現実の次元では対立、区別されるものが、無限なる神の次元では解消され、根源的な一である。

 紫(violet)には、V(U)=緑、I=赤、O=青、E=白が含まれる。そこにないのは、Aだけ。そのAは、詩の冒頭にある。
そこで、全ての色を統合するために、最初に戻ることになります。最後が最初に戻り、循環の輪が出来上がる。
ランボーは、O=青という予告を裏切り、スペクトルの紫によってオメガの最終性をより強調し、さらには、« violet »に欠けている« A »を補充するため、詩の最初の一語、« A »へと回帰する仕組みを作り上げたのである。

以上のように詩句を読み説いていくと、「母音」の最後の6行は、錬金術の詩だということがわかってくる。それが生み出すものは、最初であり最後である根源的な一者。その形は円環。
« U »では« cycles »と複数形だったが、« O »は円形そのものによって示される。対立するように見えるものも、その対立ゆえに動き、調和へと向かう。対立がなければ不動であり、何も生まれない。
「ヨハネ黙示録」第21章6節にこうある。
「私はアルファでありオメガである。初めであり終りである。渇いている者には、無償で、命の水(eau vive)の泉から飲ませるだろう。」

16歳の詩人ランボーは、言葉遊びをしながら、黄金の詩句を精錬する錬金術を発案し、母音と色彩の組み合わせを試してみたのではないか。
その結果出来上がった「母音」という詩は、多くの読者にとって命の水(eau vive)となり、詩的な渇望をもたらすと同時に、渇きを癒してもくれる。


おわりに

「母音」はしばしば、「見者の手紙」で表明された詩法に基づいて実現された詩だとみなされる。
« Je est un autre. »という表現の後、5月15日の手紙の中では、銅が目を覚ましてラッパ(clairon)になっているのに気づく、と続けらた。
「私」の後の動詞が« est »となっていることで、私から主観(subjectif)性が奪われ、それ(il)と同じになる世界。その意味で、客観的(objectif)な世界での出来事だといえる。

ランボーは最初こうした世界を共感覚的に捉え、A=黒の世界を描いた。
二番目の4行詩では、Eを純白(candeurs)、Iを緋色(pourpres)に固定し、パルナス派やロマン主義の詩的世界として提示。そこで表現されたのは、過去の詩であり、ランボーが超えようとした詩だった。

それに対して、次の六詩行は、言葉の錬金術の実験。
注意したいことは、それら二つの間に断絶があるのではなく、感覚を錯乱させるという意味ではボードレール的であり続けるということ。
その上で、終わりを強く打ち出し、逆接的に、始まりへの回帰を促した。そうした永遠の循環、永劫回帰は、U(V)とラテン語から作り出した« viride »、Oの円と« violet»によって表現された。

「母音」は、「言葉の錬金術」の中でランボー自身の言う「めまい」(des vertiges)が定着された世界だ。私たちの通常の感覚が乱された結果であるその錯乱が、全てを終わらせると同時に新しい出発を発動し、読者に命の水を与えてくれる。

「母音」、それは、読者の餓えに応じて、全ての感覚の連関を自由に解放する術を教え、未知の世界へと運んでくれる詩。その世界は常に循環し、新たなものとなる。

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