ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 2/5

冒頭の散文の後、ランボーは韻文詩「鳥、家畜、村の女たちから遠く離れて(Loin des oiseaux, des troupeaux, des villageoises)」と「午前4時、夏(À quatre heures du matin, l’été)」を挿入し、その後再び散文に戻る。

挿入された最初の詩の主語は「ぼく」。
ぼくがオワーズ川で水を飲むイメージが描き出される。そして最後、「泣きながら黄金を見たが、水をもはや飲むことは。(Pleurant, je voyais de l’or — et ne pus boire. —)」という詩句で締めくくられる。

二番目の詩では、「ぼく」という言葉は見当たらない。しかし、朝の四時に目を覚し、大工達が働く姿が見えてくる状況が描かれるとしたら、見ているのは「ぼく」だろう。
その大工たちが古代バビロニア王の下で働く労働者たちと重ね合わされ、彼等にブランデー(生命の水)を与えるヴィーナスに言及される。

二つの詩は、渇きと水をテーマにしている点では共通している。その一方で、オワーズ川というランボーの故郷を流れる現実の川と古代バビロニアや女神が登場する神話的なイメージは、対照を成している。

その二つの韻文詩の後、散文が続く。

La vieillerie poétique avait une bonne part dans mon alchimie du verbe.

こうした詩的常套句が、ぼくの言葉の錬金術の中でかなりの部分を占めていた。

常套句(vieillerie)の元になる言葉は古い(vieux)だが、リトレ辞典によれば、使い古された思考とか、摺り切れたコンセプトを意味する。

「鳥、家畜、村の女たちから遠く離れて」と「午前4時、夏」の後でランボーがこの表現を使うとしたら、二つの詩は、「詩的常套句(vieillerie poétique)」の例として引用されたことになる。

では、どういう部分が、使い回された思考や表現なのだろう。

Je m’habituai à l’hallucination simple : je voyais très-franchement une mosquée à la place d’une usine, une école de tambours faite par des anges, des calèches sur les routes du ciel, un salon au fond d’un lac ; les monstres, les mystères ; un titre de vaudeville dressait des épouvantes devant moi.

ぼくは単純な幻覚に慣れていた。ぼくにはとてもはっきりと見えていた。工場の場所に回教寺院が見えた。天使たちが作った太鼓の学校、空の道を走る四輪馬車、湖の底にあるサロン。怪物も、摩訶不思議なことも見えた。大道芸の出し物が、ぼくの目の前に、恐ろしい光景を出現させたこともあった。

ランボーはまず「単純な幻覚(hallucination simple)」がどのようなものか説明する。

その原理は、「代わりに(à la place de )」という表現によって的確に表される。

幻覚(hallucination)とは、ノーマルな状態であれば工場(usine)に見えるものを目にしながら、その代わりに(à la place de)、回教寺院(mosquée)を見ていると思い、本当に回教寺院があると思い込むこと。

この作用は、ある物を素材にして、別の物を生み出す変形作用に他ならない。
しかも、その変形に合理性はなく、理性を超えた力によって行われる。
その意味で、卑金属を黄金に変える「錬金術(alchimie)」と並行関係にある。

現実には存在しないものを見るとしても、実は、すでに知っているものが非合理的な変形を受けて組み合わされているにすぎない。
ランボーはその例を3つに分けて例示する。
1)合理的には説明できない組み合わせ。
天使(anges)と太鼓(tambours)、四輪馬車(calèches)と空(ciel)、湖の底(fond du lac)とサロン(salon)。

2)実在しないと見なされているもの。
怪物(monstres)、神秘的なもの(mystères)。

Scribe, Michel et Christine


3)芝居
大道芸(vaudeville)の世界は、現実の世界とは違う、もう一つの世界。
まさに、人は「現実の代わりに」舞台を見る。

創作とは模倣(ミメーシス)であるという考え方が、ヨーロッパの芸術理論の中心を占めていた時代があった。
模倣とは、あるモデルがあり、それに基づいて別の何かを作り出すこと。
その際、モデルと創作物の間に合理的な関係があれば一般的な模倣になるが、その関係が非合理的で、不可解、神秘的であれば、幻想的、幻覚と見なされることになる。

ランボーは、「代わりに(à la place de )」に基づく創作を「単純な幻覚」と呼び、「詩的常套句(la vieillerie poétique)」として提示した。

Puis j’expliquai mes sophismes magiques avec l’hallucination des mots !
Je finis par trouver sacré le désordre de mon esprit. J’étais oisif, en proie à une lourde fièvre : j’enviais la félicité des bêtes, — les chenilles, qui représentent l’innocence des limbes, les taupes, le sommeil de la virginité ! 

次にぼくは、魔術的でヘンテコな論理を、言葉の幻覚によって説明した!
ぼくは最後には、精神の混乱を神聖だと見なすようになった。熱に浮かされ、何もせずにいた。動物たちの至福が羨ましかった。 ーー 毛虫たちは辺獄の無垢を再現し、モグラたちは純潔の眠りを再現しているんだ!

ランボーは、ここで、「単純な幻覚」から「言葉の幻覚(hallucination des mots)」へと移行する。
その移行は、「言葉の錬金術」にとって、本質的な問題を含んでいる。
ランボーの詩法は、「単なる幻覚」ではなく、「言葉の幻覚」に基づいているのだ。

「ぼく」の詩法においては、言葉(mots)自体が錯乱(délires)し、幻覚化(hallucination)する。
そして、「魔術的でヘンテコな論理(sophismes magiques)」が、幻覚化した言葉によって説明される。
こうした表現自体、言葉が眩暈にとらわれていると言っていいだろう。

ランボーは、こうした言葉を連ねることが、合理的な精神から見れば、精神の混乱(désordre de mon esprit)だと見なされることを理解している。
しかし、熱(une fièvre)に侵され、無為な状態にいる(oisif)「ぼく」は、精神の無秩序を神聖(sacré)なものとみなし、混沌を肯定する。

そうした中で、「魔術的でヘンテコな論理(sophismes magiques)」の二つの例を出す。
1)毛虫(chenilles)は、「辺獄の無垢さ(’innocence des limbes)」を表象する(représenter)。
2)モグラ(taupes)は、「純潔の眠り(sommeil de la virginité)」を表象する。

地獄の手前にある辺獄が持つ無垢さとか、純潔の眠りとかいう表現自体、意味不明であり、誰もが納得する説明はできない。
その上、一方は毛虫によって、他方はモグラによって表される(représenter)と言われても、それは詭弁(sophismes)にしか思えない。そこに合理的な論理はない。

「ぼく」は、そんなヘンテコな論理を振り回して、動物たち(bêtes)、つまり毛虫やモグラの至福(félicité)が羨ましかった(envier)と言う。

こうした言葉たちを合理的に理解することはできない。無理に解釈をしても詭弁にしかならない。
意味不明な言葉の連なり!

しかし、この散文は不思議な魅力を放ち、詩的な輝きを放っている。
言葉たちが幻影を生み出し、読者は眩暈に襲われ、ポエジーの美を感じ始める。
精神の錯乱を否定するのではなく、神聖なものだと思い始める。
言葉が現実を再現するのではなく、言葉それ自体で自立し、新しい意味を生み出していく。そのことに快感を感じ始める。

そうした言葉の創造性こそが、ランボーの「言葉の錬金術」なのだ。

Mon caractère s’aigrissait. Je disais adieu au monde dans d’espèces de romances :
« Chanson de la plus haute tour »

ぼくの性格はとげとげしくなっていた。ぼくは、一種のロマンスのようなもので、この世にさらばと言った。
    「もっとも高い塔の歌」(韻文詩)

現実を生きる限り、精神の錯乱は受け入れられない。従って、人々とぶつかり、性格が険しくなるのも、必然的な結果だといえる。
そこで、「ぼく」は世界に別れを告げる決心をし、その印として「もっとも高い塔の歌」を残すことにする。

「もっとも高い塔の歌」の歌については、以下の項目を参照。
https://bohemegalante.com/2019/11/22/rimbaud-chanson-de-la-plus-haute-tour/

この韻文詩の後、再び散文による自己語りが続く。(続き)

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