ランボー 大洪水の後 Arthur Rimbaud « Après le Déluge » 1/2 新たな生の誕生に立ち会う

「大洪水の後(Après le Déluge)」は、『イリュミナシオン(Illuminations)』の冒頭に置かれた散文詩。

いかにもランボーらしく、日常的に使う単語を使った簡潔な構文の文が、機関銃から発せされるように、次々に連ねられる。
その一方で、単語と単語、とりわけ文と文の間の意味の連関が不明で、論理性がまったく見えない。

論理や意味は読者一人一人が作り出すしかない。
そんな風にして、ランボーは読者を罠に誘い込み、ゲームを楽しんでいるのかもしれない。
彼は、生き生きとした言葉の錬金術(alchimie des verbes)を行い、突風のような勢いで、読者を彼のポエジーへと巻き込んでいく。

    Après le Déluge

 Aussitôt que l’idée du Déluge se fut rassise,
     Un lièvre s’arrêta dans les sainfoins et les clochettes mouvantes et dit sa prière à l’arc-en-ciel à travers la toile de l’araignée.
     Oh ! les pierres précieuses qui se cachaient, − les fleurs qui regardaient déjà.

     「大洪水」の後

  「大洪水」の考えが再び腰を掛けたすぐ後。
  一匹の野ウサギがオノブリキスの花と揺れ動く釣鐘草の間で立ち止った。そして、クモの巣を通して向こうに見える虹に向かってお祈りをした。
  おお! 身を隠している宝石たちよ、ーー すでに見つめている花たちよ。


youtubeのDenis Lavantの朗読を聞いてもわかる通り、大洪水(Déluge)を考えた(idée)時からクモの巣(toile de l’araignée)まで、そして、宝石(pierres précieuses)や花々(fleurs)まで、言葉が疾走していく。
このスピード感こそ、ランボー的散文詩の魅力だ。

Gustave Doré, Le Déluge

大洪水(Déluge)の最初が大文字になっているのは、キリスト教のノアの箱舟の挿話を参照していると考えることもできる。
その場合には、大洪水の観念が再び腰掛けた(se rasseoir)とは、聖書の中で、神が怒りのために立ち上がり、再び腰掛けたという記述に基づいていると考えることもできる。
ヴィクトル・ユゴーの詩をランボーが参照した、と指摘されることもある。
しかし、まず最初は、普通名詞の最初の文字が大文字の場合には固有名詞的になるというごく当たり前の解釈から、ーードラクロワの「民衆を導く自由の女神(La Liberté guidant le peuple)」を思いだそう。ーー 「大洪水」という固有の存在を示すために、Délugeの最初を大文字にしたと理解しておこう。

そして、いかにもランボーらしく、「大洪水」が再び腰掛けるとするのではなく、それを「考えること(idée)」が座ったとする。
こうして、言葉をひねるところが、いかにもランボー的だといえる。

続く一文は、イメージに富んでいる。
大洪水という巨大なイメージを喚起した後、一匹の野ウサギ(lièvre)が登場する。
注意したいのは、野ウサギはウサギ(lapin)とは違い、野性的で、体は小さくてもエネルギーにあふれたイメージの動物だということ。
その野ウサギが立ち止まる(s’arrêta)のは、オノブリキス(sainfoins)と釣鐘草(clochettes)の間。
釣鐘草はゆらゆらと揺れ動いている(mouvantes)。

sainfoin
clochette

そこで野ウサギはお祈り(prière)を始める。
その祈りの先には虹(arc-en-ciel)がかかっている。

その美しいイメージだけだと、ランボーの世界では少し単純すぎる。
野ウサギと虹の間にはクモの巣が置かれる。そのひねりがランボー的な仕掛けなのだ。

普通であれば好ましいと思わないクモの巣が、虹に照らされ、七色に輝くのかもしれない。

大洪水の後、一匹の小さな野ウサギが、空にかかる虹に向かって祈りを捧げる。地上では、小さな花が揺れ、ウサギの視線は、虹色の蜘蛛の巣を通して、空へと向かう。
合理的に見れば繋がりが薄い物を指す言葉を素早く繰り出しながら、ランボーは読者のイマジネーションを活性化させ、現実の世界とは違う不思議な世界を現前化させる。

そして、唐突に感嘆する。
「おお!( Oh ! )」
彼のイマジネーションの世界に何が浮かび上がってきたのだろう。

一つは宝石(pierres précieuses)。もう一つは花々(fleurs)。
宝石はひっそりと身を隠している(se cachaient)。
隠れているということは、これからの可能性を感じさせる。

花たちはすでに(déjà)目を開き、見つめている(regardaient)。
regarderはvoir(見える)とは違い、意図的に何かを見るという意味。
他動詞でありながら、ランボーは目的語をわざと書かない。
では、花たちは何を見ているのか?
それを示さないことで、詩人は、見るという行為だけに焦点が当たる。花はすでに目を開いていて、何かを見つめている。

このように、わずか数行の散文の詩句を読んだだけで、ランボー的な魅力を十分に感じることができる。
何の繋がりもない言葉たちが次々と立ち上がり、日常的に使われる平凡な言葉でありながら、まったく新しい言葉のように輝き始める。
lièvre, sainfoin, clochette, prière, arc-en-ciel, toile de l’araignée…
全ての言葉が新たな生を持ち、もう一つの世界が生まれようとしている。
読者はその現場に立ち会う。

新たな世界がその後も続々と生み出される。

Dans la grande rue sale les étals se dressèrent, et l’on tira les barques vers la mer étagée là-haut comme sur les gravures.
     Le sang coula, chez Barbe-Bleue, − aux abattoirs, − dans les cirques, où le sceau de Dieu blêmit les fenêtres. Le sang et le lait coulèrent.
     Les castors bâtirent. Les “mazagrans” fumèrent dans les estaminets.

  ゴミだらけの大通りに、肉切り台が立ち上がった。みんなが小舟を海の方に引いていった。その海は、版画の上のように、空の上に重ね合わせられていた。
  血が流れた。青髯の家の中、ーー 屠殺場の中、ーー 円形闘技場の中だ。神の印鑑が窓を青白く染めた。血と乳が流れた。
  ビーバーが建築した。「マザグラン・コーヒー」が居酒屋の中で湯気を立てた。

ここでは全ての動詞が単純過去で書かれ、世界が次々に出来上がっていく姿が、歴史的な出来事のように書かれている。
ただし、その内容は理性では捉えられず、奔放なイメージのほとばしりが連続する。

Gustave Courbet, La Mer orageuse (en noir et blanc)

大通り(la grande rue)は穢い(sale)。そこに突然、肉屋が肉を切る時に使う台(étal)が立ち上がる。
そして(et)、人々が海(mer)に小舟(barque)を引いていく(tirer)。

その二つの短文は、「そして(et)」という順接の接続詞で繋げられているが、その関係はまったくわからない。

その前に、なぜ大通りに肉切り台が立ち上がるのかわからない。
なぜ、人々が、版画に描かれているような荒々しい様子の海に小舟を引いていくのかも分からない。

Gustave Doré, Barbe bleue

次の文は、血が流れる(le sang coula)イメージが中心をしめ、その場所として、妻を次々に殺した青髯の家(chez Barbe-bleue)、屠殺場(abatoir)、古代ローマで剣闘士達が戦いを繰り広げた闘技場(cirque)が挙げられる。

ランボーはそこにもひねりを加え、血の赤い色だけではなく、神の印鑑(sceau de Dieu)という言葉で虹、あるいは太陽を連想させる。そして、その光が窓(fenêtres)を青白く染める(blémit)。こうして、別の色を付け加える。
さらに、その青白さには、乳(lait)の白色が加えられる。

この一節は、「血が流れた。」で始まり、「血と乳が流れた。」で終わる。
Le sang coula. […] Le sang et le lait coulèrent.
何の脈絡もなく、乳が現れる。
この唐突さがランボーの世界創造のテンポだ。

次の節では、いきなりビーバー(castor)が出現し、「マザグラン(mazagran)」と呼ばれるコーヒーが湯気を立てる。 
マザグラン・コーヒーは、1840年にアルジェリアで起こった戦争で、マザグランを包囲する戦いがあり、それにちなんだ名前と言われる。

このように、雨後の竹の子のように、脈絡もなく様々な事物が誕生し、世界が形成されていく。
次は、いったい何が現れるのだろう?と期待するようになると、ランボーの言葉の魔術に魅了されたことになる。(続く)


    

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