ランボー 大洪水の後 Arthur Rimbaud « Après le Déluge » 2/2 新たな生の誕生に立ち会う

ビーバーと黒いコーヒーの後は、何が立ち上がってくるのだろうか?

  Dans la grande maison de vitres encore ruisselante les enfants en deuil regardèrent les merveilleuses images.
Une porte claqua, et sur la place du hameau, l’enfant tourna ses bras, compris des girouettes et des coqs des clochers de partout, sous l’éclatante giboulée.
Madame*** établit un piano dans les Alpes. La messe et les premières communions se célébrèrent aux cent mille autels de la cathédrale.

 窓がたくさん付き、今でもまだ水が滴り落ちている大きな家の中で、喪に服した子ども達が素晴らしい絵を見た。
 一つの扉が音を立てた。村の広場で、子供が腕をグルグルと回した。至る所にある風見鶏や鐘塔の雄鶏たちから理解され、キラキラと輝く突風の嵐に吹かれて。
 ***夫人がアルプスの山中にピアノを一台据え付けた。ミサと最初の聖体拝領が大聖堂の何十万もの祭壇で祝われた。

まず最初に、複数の窓(vitres)のある大きな家(la grande maison)が見えてくる。
まだ水が滴り落ちている(encore ruisselante)のは、大洪水の名残りだろう。
その家の中にいる子供たちが喪に服している(en deuil)のも、洪水の被害を暗示している。

子供たちは、素晴らしい絵(les merveilleuses images)を見る。
定冠詞がついているので、それらがどの絵なのか読者もわかっているものとされている。
キリスト教の文化圏であるならば、大洪水の後のノアの箱舟等をイメージさせるものだろう。

次に、一つのドア(une porte)が音を立てて(claquer)開く。
そのドアは大きな家のドアで、開けたのは中にいた子ども達の一人かも知れない。
その子(l’enfant)は、村の広場(la place du hameau)に立ち、腕を回す(tourna ses bras)。
その行為は非常に能動的であり、天地創造のきっかけ、あるいはその合図だろう。

子供は、風見鶏(girouettes)を回転させる強い風(giboulée)の中で手を回す、と考えることもできる。
しかし、子供の手の動きによって強い風の嵐(giboulée)が起こり、雷の光が輝く(éclatante)と、より能動的に理解することも可能だろう。
その風のおかげで、至る所にある風見鶏(girouettes)や、鐘塔(clochers)の上の雄鶏(coqs)たちも、回転する。
その動きが生命の胎動を促すからこそ、子供は風見鶏や雄鶏たちから理解されている(compris)のだろう。

風見鶏と鐘塔の上の雄鶏は同じ形をしているが、一方は無生物の物体であり、他方は生物。その二つを並べることで、子供が生物と無生物の境を超えた世界を見据えていることがわかる。

続いて、ピアノとアルプスという意表を突く組み合わせが出てくる。
アルプス山中にピアノを置く女性の名前は明らかにされない。
この女性をブルジョワ趣味で、前の時代のセンチメンタルなロマン主義にかぶれたボヴァリー夫人だと考えることも可能かもしれない。しかし、無理に誰と特定する必要ないだろう。
むしろ、アルプスの険しい山脈にピアノを置くというイメージの意外性や唐突さに驚く方が、ランボーの詩に相応しい。

ミサ(messe)と聖体拝領(communions)は、ピアノからの連想だろうか。
それらの儀式が行われる大聖堂(cathédrale)という言葉でこの一節が締めくくられているとすると、最初に出てきた大きな家(grande maison)は大聖堂の原形なのかもしれない。

その中で一人の子供、つまりランボーが、空想を巡らし、様々なイメージを積み重ねる。鐘塔の雄鶏や風見鶏は現実に近く、アルプスは現実から遠い。時には建物の外に出て、腕を回し、想像力による創造の開始を告げる。
そうしたイメージ全てを、素晴らしい絵(merveilleuses images)として思い描いたのだろう。

    Les caravanes partirent. Et le Splendide-Hôtel fut bâti dans le chaos de glaces et de nuit du pôle.
 Depuis lors, la Lune entendit les chacals piaulant par les déserts de thym,  − et les églogues en sabots grognant dans le verger. Puis, dans la futaie violette, bourgeonnante, Eucharis me dit que c’était le printemps.

 幾つもの商隊が出発した。そして、ホテル「壮麗」が極地の氷と夜が混沌とする中に建造された。
 その時以来、「月」には、タイムの生い茂る荒野でジャッカルが鳴く声が聞こえた。— 木靴を履いた牧歌が果樹園でぶつぶついう声も。次に、スミレ色の森では、芽が生え始め、ユーカリスが私に春だと告げた。

最後のイメージは、旅立ち。
目的地は極地(pôle)。北極なのか南極なのか、とにかく氷(glaces)に覆われ、夜(nuit)のように暗い場所。

Une photo de la Katama (citadelle) Ras Darghé, en Ethiopie, qui aurait été prise le 14 mai 1887 par Arthur Rimbaud.

ランボーにとって旅のイメージは、アフリカの大地を進む商隊(caravanes)によって代表されるのだろう。そして空想のホテル、ホテル「壮麗」(Splendide-Hôtel)も建てられる。

夜の暗い空には、月(Lune)がかかる。
その単語の最初が大文字になっているのは、月が固有名詞として扱われているから。月の神に、ジャッカル(chacals)の声や牧歌(églogues)が聞こえる。

その声にも、ランボーはひねりを加える。
ジャッカルの鳴く声を、雌鶏が鳴く声を意味するpiaulerとする。(仏和辞典にはジャッカルが遠吠えするという訳が出てくるが、リトレ辞典にそのような意味は記されていない。)
その場所は、タイム(thym)の荒野。タイム(タチジャコウソウ)の原産地には北アフリカも入るため、ランボーがアフリカを思い描いた可能性は否定できない。

木靴を履いた(en sabots)田園詩(églogues)はイメージできない。
田園詩は本来牧歌的であり、平穏な生活を連想させ、果樹園(verger)はその場に相応しい。
しかし、ぶつぶつと不平を漏らす(grognant)というのは、田園詩に相応しくない。

「月」の耳に入った声も、どこか不自然なところがあり、スムーズに理解できるイメージではない。
その違和感が、ランボー的な世界のトレードマークだともいえる。

David, Les Adieux de Télémaque et d’Eucharis

その後、「私」が唐突に出てくる。

スミレ色の灌木は芽が生え始め、新しい生がうごめき始めている。
そこで、ユーカリス(Eucharis : たぶんニンフだろう)が、「私(me)」に、時は春(printemps)だと告げる(dit)。

ここでとりわけ注目したいことは、これまで動詞は全て単純過去だったこと。
そのことによって、全てが歴史的あるいは神話的な世界の出来事として語られてきた。
ユーカリスが春を告げる際にも(Eucharis me dit)、動詞は単純過去であり、「私」もその世界の存在として姿を現す。

ところが、「私」の出現の後、唐突に命令文が発せられ、単純過去の世界から現在の世界へと、一気に意識が移動する。

− Sourds, étang, − Écume, roule sur le pont, et par dessus les bois ; − draps noirs et orgues, − éclairs et tonnerres − montez et roulez ; − Eaux et tristesses, montez et relevez les Déluges.

 — 湧き出よ、池よ、— 泡よ、流れろ、橋の上を、そして森の上空を通って。— 黒い布とオルガンよ、— 稲妻と雷鳴よ、— 上昇し、流れろ、— 水と悲しみよ、上昇し、「大洪水」を何度も引き起こしてくれ。

いったい誰が命令しているのだろうか。
ユーカリスなのか? 春を告げられた「私」なのか? 詩人がいきなり詩の中に顔を出したのか?
あるいは、この詩の世界の創造主なのか?
命令の主体はわからない。

Jan Brueghel dit le jeune, Saint Irénée et la Création

しかし、その勢い、激しさ、新しい生命を生み出そうとする生き生きとした力強さは、はっきりと感じられる。

湧き出よ(sourds)! 流れろ(roule, roulez)! 上れ(montez)! 

その目的は、「大洪水(Déluges)」を何度も引き起こすこと。大洪水が複数形になっていることは、ある特定の一回限りの洪水ではなく、何度も洪水が起こることを望んでいることを示している。

大洪水では、水が湧き出、泡立ち(écume)、黒い瀑布(draps noirs)となって大音響(orgues)を立てる。稲妻(éclairs)が光り、雷鳴(tonnerres)がとどろく。
瀑水(eaux)は全てを破壊し、悲しみ(tristesses)をもたらす。
しかし、詩人は、自然に向けて、安定や停滞ではなく、絶え間ない再生を命じる。

この命令文の連続ほど、ランボーの詩のエネルギーを感じさせるものもなく、生き生きとした生命感に溢れている。

     Car depuis qu’ils se sont dissipés, − oh les pierres précieuses s’enfouissant, et les fleurs ouvertes ! − c’est un ennui ! et la Reine, la Sorcière qui allume sa braise dans le pot de terre, ne voudra jamais nous raconter ce qu’elle sait, et que nous ignorons.

  というのも、大洪水が消え去った後から、— おお、地中に埋まっていく宝石よ、開花した花たちよ!— この世界は退屈だ! そして、「女王様」、陶器の壺の中で燃えさしに火を灯す「魔法使い」は、彼女が知り、我々が知らないことを、決して我々に語ろうとは望まないだろう。

自然に対する命令の前まで、動詞は全て単純過去形で、神話的な出来事が語られてきた。
ところが、命令の後のこの最後の一節では、語り手の今に属する時制 — 複合過去、現在、単純未来 — が使われる。

何度か繰り返された大洪水が消え去り、今は「倦怠(ennui)」の時となる。
 その際、消え去ったを意味する動詞(se sont dissipé)は複合過去に置かれ、その出来事が今は完了していることを示す。
その結果が、「c’est un ennui ! (倦怠だ!)」 
動詞は現在であり、詩人の今のことだとわかる。

今と神話的な時という断絶した二つの時を結ぶのは、宝石(pierres précieuses)と花々(fleurs)。
この詩の冒頭で、詩人はすでに宝石と花に呼びかけたことを思いだそう。

Oh ! les pierres précieuses qui se cachaient, − les fleurs qui regardaient déjà.
おお! 身を隠している宝石たちよ、— すでに見つめている花たちよ。

今、詩人は次のように呼びかける。

oh les pierres précieuses s’enfouissant, et les fleurs ouvertes ! 
おお、地中に埋まっていく宝石よ、開花した花たちよ!

このようにして、断絶した二つの時間帯が、二つの同じ物質によって繋がれることになる。
地中に埋まる宝石は目に見えない神話世界を、開花した花は地上世界を暗示する。
ランボーにとって、世界は可視の部分だけではなく、不可視の部分もある。両者で世界全体なのだ。

William Blake, The Ancient of Days

最後になり、女王(Reine)とも魔女(Sorcière)とも見える女性が姿を現す。
彼女は、陶器(pot de terre)の中にある残りさし(braise)に火を付けている(allume)。

彼女が誰なのか、なぜ突然現れたのか、わからない。
とにかく、私たちが知り得ないことを知る、私たちを超えた存在。
そして、彼女が知ること(ce qu’elle sait)を私たちに語ることはないだろうと、詩人は予測する。

これは決して否定的な意味を持つ予言ではなく、クリエーションには常に人間に理解できない神秘が含まれることを暗示する言葉だといえる。

とすれば、女王であり魔女である女性は、残り火(braise)という言葉で暗示される古い創造の名残りを保ちながら、新しい創造の原理を知り、創造の魂(âme)となる存在だと考えることもできる。
彼女の存在があるからこそ、大洪水によって全てが押し流された後、再び創造が可能になる。

『イリュミナシオン』の編集にランボーがどの程度かかわっているのかわからない。従って、「大洪水の後」をその散文詩集の冒頭に置いたのが彼の意図かどうかも不明だと言われる。
しかし、「大洪水の後」が世界の創造原理を歌った詩だとすれば、その後に続く散文詩群の先頭に置かれるのが相応しいといえるだろう。

Après le Déluge, premier folio du manuscrit livré par Verlaine à Léo d’Orfer de La Vogue

ここで2回に渡って示した解釈は、ランボーを専門的に研究する人々の読み方とはかなり違っている。

一般的には、「大洪水の後」は、3つのラインで読まれる。
1)聖書
2)1870−71年のパリ・コミューン
3)ランボーの個人的な生活
そして、どちらかと言えば、破壊的、否定的なエネルギーをテーマにした詩だと捉えられてきた。
http://abardel.free.fr/petite_anthologie/deluge_panorama.htm#lagrande
例えば、パリ・コミューンを歌った詩と見なす場合には、野ウサギは社会の動乱を恐れるブルジョワを、蜘蛛の巣は社会的な規範の網の目を象徴するといった読み方。大洪水は、全てを白紙に戻す無政府状態への渇望・・・。

しかし、そんな読み方をしたら、「大洪水の後、野ウサギが蜘蛛の巣を通して虹に祈りを捧げる」という素晴らしいイメージが台無しになってしまう。
詩を読む時には、何よりも言葉そのものを読み取り、言葉そのものを味わいたい。

ランボーの言葉は生(なま)もの。現実の代替物あるいは隠喩ではない。
その言葉が、現実とは異なる、もう一つのリアルな存在(présence)を作り出す。
ランボーは「言葉の錬金術」の使い手なのだ。

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