
「盲目の秋」の第一連で、中也は美しいリフレインを繰り返す。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
直接の影響関係を証明することはできないけれど、腕を振る身振りは、ランボーの「大洪水の後」でも見られる。

村の広場で、子供が腕をグルグルと回した。至る所にある風見鶏や鐘塔の雄鶏たちから理解され、キラキラと輝く突風の嵐に吹かれて。
[…] sur la place du hameau, l’enfant tourna ses bras, compris des girouettes et des coqs des clochers de partout, sous l’éclatante giboulée.
https://bohemegalante.com/2020/07/16/rimbaud-apres-le-deluge-2/
二人の詩句を続けて読むと、腕を振る身振りが通奏低音のように二人の詩人の中で響き合っていることが感じられる。
「大洪水の後」の子供は、嵐の風の中でグルグルと回転する風見鶏の動きに合わせ、腕を振るとも考えられる。
もう一歩踏み込んで読み取れば、腕を回すことで風が起こり、風見鶏が回る。腕を振ることは、生きることの証となる創造的な身振りと見なすこともできるだろう。
一方、中也は「無限」の前で腕を振る。
盲目の秋
Ⅰ
風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
それもやがては潰(つぶ)れてしまう。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまえに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思って
酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……
私の青春はもはや堅い血管となり、
その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
ああ、胸に残る……
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまえに腕を振る。
第二連から第四連になると、詩の内容はより具体的で、生々しくなる。
小林秀雄は中也から長谷川泰子を奪う。しかし、彼女との生活に耐えきれず、逃げるように去って行く。
残された泰子を取り戻すためであるかのように、中也は恋愛詩を書く。
しかし、泰子の方では、中也との交流を保ちながら、決して彼の愛を受け入れようとはしない。
私の聖母(サンタ・マリヤ)!
とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
とにかく私はまいってしまった……
第三連では、泰子を聖母と呼び、情けを受け入れてくれないために血を吐いた自分に哀れみを請う。
現実生活を見れば、悲しいほど惨めな中也。
しかし、その中也が詩人として言葉を紡ぐとき、素晴らしい詩句が生まれる。
第一連は、そんな例の一つだ。
詩人の前には「無限」が広がる。
そこには、小さな花が見える時もあるだろう。しかし、すぐに潰れてしまう。
どんなに愛しても、その対象はもう永遠に戻って来ない。ため息をつくしかない。
しかも、過去の思い出が心から消え去ることがなく、花や夕日を見れば、燃えたぎった愛の名残りが感じられる。
愛する人は去って行き、愛が戻ってこないことはわかっている。しかし、彼女が微笑むように見え、愛の名残りを自分の中から消し去ることはできない。未練だけが残る。
失われてしまいながら、完全に消えることもなく、虚しいとわかっていてもそこに引かれていく。
あたかもブラックホール! それがこの詩の中の「無限」なのだ。
虚しいとわかっていても、どうしても引かれてしまう「無限」(=泰子への愛)。
その「無限」に対する複雑な感情を、中也はこう言い表す。
厳かで、ゆたかで、それでいて佗しく
異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
この「無限」を前にして、自然のエネルギーである風や浪を感じながら、「腕を振る」。
その行為に意味があろうとなかろうと、それでも腕を振る。
生きることの最も原初的な姿が、その時、浮かび上がってくる。

風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
「大洪水の後」の少年が腕を回したように、「盲目の秋」の詩人も腕を振る。
その姿を歌う中也のリフレインは、この上もなく美しい。