
1831年に出版された『秋の葉(Les Feuilles d’automne)』に収められた「パン(Pan)」は、フランス・ロマン主義を主導するヴィクトル・ユゴーが、詩とは何か、詩人とはどのような存在か、高らかに歌い上げた詩。
1820年にラ・マルティーヌが「湖(Le Lac)」によって、ロマン主義の詩の一つの典型を示した。
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その約10年後、ユゴーが、古代ギリシアの神であるパンの口を通して、ロマン主義の詩を定義した。
パンは、元々は自然を表す神の一人であり、羊飼いと羊の群れの保護者。下半身はヤギ、上半身は人間、頭の上には角を突けた姿で描かれた。
パン(Pan)という言葉はギリシア後で「全て」を意味する。
そのためだと考えられるが、オルペウス教では、原初の卵から生まれた両性存在の神と同一視された。
さらに、ネオ・プラトニスムのメッカであるアレクサンドリアでは、宇宙全ての神と考えられるようになった。
韻文詩「パン」の最初に、ユゴーは、アレクサンドリアのクレメンスの『ストロマテイス』に記された詩句を、ギリシア語のまま、エピグラフとして付けている。

アレクサンドリアのクレメンスは、ギリシア哲学とキリスト教を融合し、古代ギリシアの哲学や文学がキリスト教の先駆けであるとした。
その中でも、とりわけプラトン哲学に精通し、ロゴスはキリストであると論じて、キリスト教神学の発展に大きな貢献をしたと言われている。
彼は、キリスト教の教義の中に、ヘレニズム的ユダヤ教や新プラトン主義を取り込み、信仰と理性の調和を目ざしたアレクサンドリア学派の代表者の一人だった。
ὅλος νοῦς, ὅλος φῶς, ὅλος ὀφθαλμός.
Clém. Alex.

エピグラフのギリシア語は、「(神は)全て精霊、全て光り、全て目。」という意味。
全て(ὅλος)という言葉が3度繰り返され、パン(Pan=全て)と響き合っていることになる。
ちなみに、『ストロマテイス』では、「神は、こう言ってよければ、全てが聴覚(ouïe)であり、全て目。」と書かれており、ユゴーが、νοῦς(思考、魂)とφῶς(光)という言葉を付け足したことがわかる。
このエピグラフの後、全自然を統括するパン(Pan)は、神聖な(sacré)と呼ぶことになる詩人たちに、こう呼びかける。
Si l’on vous dit que l’art et que la poésie
C’est un flux éternel de banale ambroisie ;
Que c’est le bruit, la foule, attachés à vos pas,
Ou d’un salon doré l’oisive fantaisie,
Ou la rime en fuyant par la rime saisie,
Oh ! ne le croyez pas !
もし人があなたに次のように言うなら、芸術は、詩は、
神々の平凡なご馳走の、永遠の流れ、
あなたの歩みに密着した、音であり、群衆、
黄金のサロンの、時間つぶしのファンタジー、
逃げ去りながら、別の韻に捕まってしまう韻、
おお! そんなことを信じてはいけない!
ここで列挙されているのは、一般的な詩の概念。
1)神の食物(ambroisie)で代表されるのは、詩は神の言葉という考え方。
あたかも神託のように、巫女(sybille)によって人間に伝えられる神の言葉。
2)群衆(la foule)の叫びや騒音(le bruit)を、言葉として届ける民衆の詩。
3)貴族のサロン(salon doré)で作成される、暇つぶし(oisive)でしかない、気まぐれな(fantaisie)詩。
4)韻(rime)の技巧だけを追求した詩。
韻文詩の規則の根本は、詩句の音節数と韻だった。
そこで、音節数が規則的で、韻を正しく踏んでいれば、それだけで詩として成立する可能性もあった。
パンの神は、一般に詩と考えられるそうした作品は、芸術(art)でも、詩(poésie)でもないと言う。
その上で、詩人たちに、何を詩の対象にすべきか忠告を与える。
その忠告は、5つの詩節に渡る。
Ô poètes sacrés, échevelés, sublimes,
Allez, et répandez vos âmes sur les cimes,
Sur les sommets de neige en butte aux aquilons,
Sur les déserts pieux où l’esprit se recueille,
Sur les bois que l’automne emporte feuille à feuille,
Sur les lacs endormis dans l’ombre des vallons !
聖なる詩人たちよ、髪を掻き乱した、崇高な詩人たちよ。
行くのだ、お前たちの魂を、頂きに撒き散らせ。
北風に晒され、雪に覆われた山頂の上に、
精霊が瞑想する、敬虔な砂漠の上に、
秋が枯葉を次から次へと運んでいく、森の上に、
谷の影に隠れて眠る、湖の上に。

パンが呼びかける詩人たちには、3つの形容が付けられている。
それらは、ユゴーの考える、詩人のあるべき姿を示している。
1)神聖な(sacré)
詩人は、民衆を聖なる世界へと導く者。(Vates)
2)髪を掻き乱した(échevelé)
詩においては、理性を働かせて詩句をきちっと整える技術(art)ではなく、インスピレーションに打たれ衝動に突き動かされるエネルギーが優先される。
3)崇高な(sublime)
詩は単なる美ではなく、より高い次元の美の表現であるべき。
このような定義から見えてくるのは、詩人とは聖なる存在であり、その使命は、神の言葉(verbe divin)を人間の言語に翻訳する、つまり人間に伝えることにあるとユゴーが考えていること。
ただし、詩人は古代の巫女とは違い、単なる通路ではない。一人一人が、固有の響きを持つ通路となる。
神の言葉のエコーだとしても、詩人は「響きのよいエコー(écho sonore)」。それぞれの響きは、一人一人の詩人によって違う。
そこに、「個」の価値を最大限に認めるロマン主義的な思考が反映している。
次にパンは、神の言葉(verbe)が顕現する場所を詩人達に教える。
その場所は、一言で言えば、自然(Nature)。
「行くのだ(Allez)」という命令の後、自然の様々な側面が29詩行に渡り、朗々と述べられる。
第2詩節では、その場所は、Surで示され続ける。
しかも、第3−6詩行では、行の最初に同じ言葉を置くアナフォールという詩法が使われ、Surが強調される。
また、その反復によって、詩句のリズムが生み出され、素晴らしい音楽性も生み出されている。
まさに、響きのいいエコー(écho sonore)!
続く3つの詩節でも、アナフォールがこれでもかというほど使われる。
それは、詩句の全体を見渡すだけで、目に飛び込んでくる。
Partout と Oùの祭りと言えるほどに。
Partout où la nature est gracieuse et belle,
Où l’herbe s’épaissit pour le troupeau qui bêle,
Où le chevreau lascif mord le cytise en fleurs,
Où chante un pâtre assis sous une antique arcade,
Où la brise du soir fouette avec la cascade
Le rocher tout en pleurs ;
Partout où va la plume et le flocon de laine ;
Que ce soit une mer, que ce soit une plaine,
Une vieille forêt aux branchages mouvants,
Iles au sol désert, lacs à l’eau solitaire,
Montagnes, océans, neige ou sable, onde ou terre,
Flots ou sillons, partout où vont les quatre vents ;
Partout où le couchant grandit l’ombre des chênes ;
Partout où les coteaux croisent leurs molles chaînes ;
Partout où sont des champs, des moissons, des cités ;
Partout où pend un fruit à la branche épuisée ;
Partout où l’oiseau boit des gouttes de rosée,
Allez, voyez, chantez !
行くのだ、至るところに。自然が優雅で美しいところ。
草が、鳴き声を立てる群のために、生い茂るところ。
浮かれた子ヤギが、花咲くエニシダを食むところ。
牧人が、古代のアーチの下に腰掛け、歌うところ。
夕方のそよ風が、滝で、鞭打つところ、
涙にくれる岩を。
行くのだ、至るところに。羽根が向かい、羊毛の塊が向かうところ。
海だろうと、草原だろうと、
揺れ動く枝の、古い森だろうと、
荒れ果てた土地の島だろうと、孤独な水をたたえる湖だろうと、
山だろうと、大海だろうと、雪や砂、浪や大地だろうと、
流れや波のうねりだろうと。至るところに、四方からの風が向かうところに。
至るところ、夕日が樫の木の陰を長く伸ばすところ。
至るところ、小さな丘が、ゆったりとした峰を交差するところ。
至るところ、野原が、刈り入れが、町々があるところ。
至るところ、疲れた枝に一つの果実が垂れ下がるところ。
至るところ、鳥が朝露の雫を飲むところに、
行って、見て、歌うのだ!
この3つの詩節を特色付けるのは、詩句の音楽性。
パン(ユゴー)は、異常なほどのエネルギーで、言葉を発し続ける
まさに、神からのインスピレーションに打たれ、神の言葉を詩人達に伝えているかのような印象を生み出している。
この詩句を読む読者も、そのエネルギーの波に呑み込まれ、ただただ自然の様々な顔を目にすることになる。
最後の言葉、「見て、歌うのだ!」は、詩における視覚と聴覚の役割を明らかにする。
別の言葉で言えば、詩の絵画性と音楽性。
ユゴーの詩句自身が、それを具現化している。
Allez dans les forêts, allez dans les vallées ;
Faites-vous un concert de notes isolées !
Cherchez dans la nature, étalée à vos yeux,
Soit que l’hiver l’attriste ou que l’été l’égaie,
Le mot mystérieux que chaque voix bégaie.
Écoutez ce que dit la foudre dans les cieux !
行くのだ、森の中に。行くのだ、谷の中に。
一つ一つは孤立した音色を合わせて、合奏をするのだ!
お前たちの目の前に広がる自然の中から、見つけ出すのだ、
冬が自然をもの悲しくするにしても、夏が自然を楽しいものにするにしても、
神秘の言葉を。一つ一つの声は口ごもってしか言えない神秘の言葉を。
聴くのだ、大空の中で雷が何と言うのかを。
この第6詩節では、自然(Nature)から聞き取った声を詩にするための注意が与えられる。
その時にキーワードとなるのが、Concert。
Conは「一緒に」の意味であり、Concertの本質は、合わせること、調和することにある。
そこで、パンは、自然の一つ一つの側面は孤立した音(notes isolées)を発するが、それらを調和させ、美しいハーモニーを奏でるように命ずる。

それこそが、魔法の言葉(mot mystérieux)なのだ。
それぞれの声だけではもぐもぐと口ごもり、はっきりと秘密を伝えることはできない。
それらを合わせることで、天体の音楽(Harmonie des sphères ou Musica universalis)が奏でられる。
天空で(cieux)鳴り響く雷(foudre)は、ジュピターの持ち物。
もちろん、ここでヴィクトル・ユゴーが、モーツアルトの交響曲41番「ジュピター」を思い描いていたことはないだろう。
しかし、ジュピターと呼ばれるsym-phonie(一緒の音)を思わせるほど、ユゴーの詩句も荘厳(sublime)であり、音楽性に富んでいる。
第七詩節以降になると、パンは詩人達に、自然とどのように接するべきか、より具体的な指示を出していく。(続く)