モーリス・セーブ 見ないでいるほど、憎くくなる Maurice Scève « Moins je la vois, certes plus je la hais » 愛は最も崇高な美徳

モーリス・セーブは、16世紀フランスを代表する詩人。
1544年に出版された、『デリー 最も崇高な美徳の対象(Délie, objet de la plus haute vertu)』は、Délie(デリー)と呼ばれる女性(実際の名前は、Pernette du Guillet)への愛を歌った詩集。

ただし、Délieは、L’Idée(イデア)のアナグラムでもあり、イタリアの思想家マルシリオ・フィチーノを経由したネオ・プラトニスムや神秘主義的な思想が、ペトラルカ的な恋愛詩を通して表現されているとも言われる。

Diane chasseresse
Gustave Moreau, Une effroyable Hécate

Délieは、ギリシア神話の女神ダイアナ(Diane)とヘカテー(Hécate)の別名でもある。
ダイアナは、狩りと月の女神で、男を寄せ付けない。
ヘカテ—は、夜と死の女神であり、冷酷で残忍な女性性を体現する。
従って、デリーを愛することは、苦悩や苦痛の源になる。

しかし、死に匹敵する苦しみを蒙りながら、それを超越することで、愛は甘美なもの(délice)となる。
そこに最も崇高な美徳(la plus haute vertu)がある。

「見ないでいるほど、憎くくなる(Moins je la vois, certes plus je la hais)」は、1行10音節の詩句が10行続く、10行詩(dizain)。

詩全体は、正反対の性質のものが対比的に示され、恋愛感情は、二つの感情の衝突を引き起こし、愛と憎しみの相剋であることが示される。

また、愛の感情を抱く主体は「私」であるように見えるが、実際の主体は「愛(Amour)」であることが、人称代名詞の使い分けによって示される。
詩句が進むにつれて、主語の私(je)は、目的語の私(me)へと変化する。
その変化を示すために、フランス語の理解を補助するために付ける日本語の中で、不自然になることを前提とした上で、あえて人称代名詞を明示する。

Moins je la vois, certes plus je la hais : 
Plus je la hais, et moins elle me fâche. 
Plus je l’estime, et moins compte j’en fais : 
Plus je la fuis, plus veux qu’elle me sache. 

私が彼女を見なければ見ないほど、確かに、私は彼女をさらに憎く思う。
私が彼女をさらに憎く思うほど、彼女は私の気持ちを害さなくなる。
私が彼女を尊重すればするほど、私は彼女を考慮しなくなる。
私が彼女から逃げれば逃げるほど、彼女が私のことを知って欲しいと思う。

この最初の4行の詩句は、非常に技巧的であり、徹底的な対比が行われている。

その際、最初に2行では、比較を示す言葉が、moins – plus – plus moinsと続けられ、キアスム(交錯配列法)で、対象に対する「私」の矛盾した行動が提示される

さらに、1行目の後半と2行目の前半は、je la haisと同じ文が反復され、憎むという行為が強調される。

Pernette du Guillet

彼女に会えず、彼女を目にすることができなくなるほど、彼女に会いたい気持ちは募る。しかし、会えない。だからこそ、彼女を憎んでしまう。
しかし、愛する人は決して、私の気持ちを害することはない。
こうした矛盾する気持ちを、キアスムの詩句で示している。

次の2行では、あえてキアスムを壊し、plus – moins – plus – plusとヴァリエーションが加えられる。
その上で、私の矛盾がより鮮明に描かれる。
尊重する(estimer)と考慮する(faire compte)は、ほとんど同じ意味にもかかわらず、plus-moinsを使い分けることで、尊重すればするとど、考慮しなくなると、愛する人に対する複雑な行動を描く。

4行目では、私は彼女から逃げ出すと言う。とすれば、一行目で、彼女を見ることができない理由は、私にあることになる。
視線が愛を表現するとしたら、愛を遠ざけるのは、私自身。
なぜそんなことをするのかと言えば、彼女の気を引きたいからだ。
もっと彼女に自分のことを知って欲しいと願う。

plus veux qu’elle me sache.
この詩句で、veuxの前に主語のjeが書かれていないのは、16世紀にはまだ、人称代名詞の使用が規則化されていなかったため。

François 1er

1539年、フランソワ1世が、「ヴィレール=コトレの勅令(Ordonnance de Villers-Cotterêts)」を出し、ラテン語で書かれていた公的文書をフランス語によって書くことが義務付けられた。
その時に始めてフランス語が公用語となった。
その後、現在のようなフランス語がほぼ確立したのは、17世紀になってからだった。
それ以前は、人称代名詞や冠詞等の使用もかなり恣意的な部分があり、16世紀のフランス語を読む時には注意が必要になる。

  En un moment deux divers traits me lâche 
Amour et haine, ennui avec plaisir. 

一瞬のうちに、二つの異なる矢を、私に投げかける、
愛と憎しみが、苦悩と喜びが一緒になって。

第5−6詩行では、「私」は主体的な存在ではなくなる。
主体は恋愛感情であり、「私」はその感情を蒙る客体(me)となる。
そのことが、構文によって明示されている。

Éros bandant son arc

この詩句の動詞のlâche(放つ)が単数形になっているのは、16世紀のフランス語で、主語は動詞に近い単語と決まっていたから。ここではAmour。
従って、Amour me lâche deux traits、「アムールが私に矢を投げる」が、構文の骨子となる。

次いで、主語のアムール(愛、キューピット、エロース)に、憎しみ(haine)が加わる。
次に、苦悩(ennui = tourment, souffrance)と喜び(plaisir)が、愛と憎しみとの関係で、キアスム的に配置される。(Amour – haine – ennui – plaisir)。

矢(traits)を投げかける主体が矛盾し、対比的なものであるために、2本の矢(deux traits)の種類も多様な(divers)ものとなる。

Forte est l’amour, qui lors me vient saisir, 
Quand haine vient, et vengeance me crie ;
Ainsi me fait haïr mon vain désir 
Celle pour qui mon cœur toujours me prie. 

強いものは愛。愛が私を捉えにやってくる、
憎しみが到来し、復讐が私に叫ぶ時に。
こんな風に、私の虚しい欲望を憎ませるのだ、
あの人が。その人を求め、私の心は常に私に祈る。

7行目の詩句では、l’amourは先頭が小文字で、定冠詞が付けられている。従って、愛の神ではなく、「恋愛」を意味する単語として用いられていることがわかる。
ちなみに、16世紀には、amourは女性形の名詞だったため、形容詞 forteが女性形になっている。

William Blake, Hecate

「恋愛は強いものだ(forte est l’amour)」と断言した後で、憎しみ(haine)や復讐(vengeance)といった感情のある時こそ、愛が「私を(me)」捉えにやって来る時だと付け加えられる。
そのことは、苦痛、苦悩、憎しみ、復讐、感情を害する行い、そうした否定的な要素があればあるほど、愛は激しく強烈になり、人間を強く捉えることを意味している。

では、恋愛がそれほどの苦しみを与えるものだとしたら、人間は、キューピットの矢に射られないよう、逃げ去ろうとするのだろうか。

10行目の最後の詩句は、その反対であることを示している。
私の心は、私に向けて、愛する人に祈るように促す。
その人の名前は、口にすることさえもできないのだろう。単に Celle (彼女)と記されるだけ。

その人を愛しても、私の望み(désir)は虚しい(vain)ままに終わるかもしれない。だから、理性では、そんな望みを抱くことを嫌い(haïr)、彼女から遠ざかりたいと思う。
「彼女は私に虚しい望みを嫌悪させる(Celle me fait haïr mon vain désir.)」とは、そうしたことを意味する。
それは、この詩の冒頭で書かれた、「私が彼女を見なければ見ないほど」と対応する想い。

しかし、憎しみと苦しみで苛まれようと、私の心(mon cœur)は彼女を求めて、常に祈りを捧げてしまう(toujours prie)。
それほど、愛の力は強い。

Titien, Amour Sacré et Amour Profane

モーリス・セーブは、愛が持つ二面性を図式的と言えるほど組織化し、この詩の中で列挙した。
それは、ネオ・プラトニスム的な愛の概念に基づき、人間に向けられた愛が、イデア界に導くエロース(愛)へと転換することを前提にしているから。
従って、詩句は全て観念的な言葉で構成され、視線だけが相手に届く唯一の感覚。愛の対象となる女性の名前さえなく、容姿や服など、肉体を思わせる言葉は発せられない。

人間的な愛がイデア的な愛へと変質する過程は、錬金術で非金属が黄金に変化するのと同じ。そこで触媒となるのが、地獄に落ちたような恋の苦しみだと考えると、愛が苦しみと喜びの相剋を生み出すことに納得がいく。
苦しみの中に、至高の歓喜がある。

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