
アレゴリーの鍵
アレゴリーは、ある抽象的な概念を具体的な形象によって寓意的に表現する方法。
例えば、狡猾さを狐で、公正を天秤で表す。
そこで使われる概念と形象の関係は予め決まっているものであり、芸術家たちはその約束事に基づいて創作活動を行った。
例えば、宗教画に関して言えば、白色が清純を、聖母マリアのマントの青色が「天の女王」を表す。そうしたことは、画家が発明するのではなく、予め決まっている規則だった。
そして、鑑賞者もその知識に基づいて作品を読み説いた。
しかし、時代の移り変わりと共に、アレゴリーを理解する鍵が失われた。そのために、作品の持つ意味を理解することが困難になり、専門家によって様々な研究が積み重ねられ、多様な解釈が提出された作品も数多くある。

フォンテーヌブロー派の絵画の裸婦像の多くは、指の先で指輪をつまんでいる。
16世紀であれば、指輪が何の寓意であり、その行為が何を意味しているかは明白だったに違いない。
しかし、現在では、アレゴリーの鍵は失われている。
そこで、指は恋愛が成就した印だとか、妊娠の印、さらには信仰の証という説もある。
鏡の寓意も明確ではない。
一般的に西洋美術において、鏡は次のような寓意を表現するものとされていた。
1)ヴィーナスの持ち物、聖母マリアの純潔を表すアトリビュート(属性を示す持ち物)。
2)賢明、 真理、虚栄などの擬人像とともに描かれる。
3)ありのままの姿を映す「真実」の寓意。
しかし、ここに示した「化粧の貴婦人」で、彼女の顔を半分だけ映し出している鏡が何の寓意なのは、確信を持って答えることはできない。
ジャン・クーザンの「エヴァ プリマ パンドラ」でも、すぐにわかるアトリビュートだけでなく、意味のわからないものもある。

女性の左右の腕に巻き付いているリンゴの木の枝と蛇は、キリスト教の楽園から追放されたエヴァの持ち物。
左手で蓋を押さえている壺は、パンドラの持ち物。
右腕の下に置かれた骸骨は、人生の虚しさ、虚栄の寓意。
画面の中央に位置し、赤い色で描かれている壺は、何を意味しているのだらろうか?
残念ながら、私にはその答えを出すことはできない。
画面の奥、右手には自然の情景が描かれ、中央から左手には尖塔のある教会を含む街並みが見える。
一方が野生、もう一方が文明。

この関係は、イタリアの画家ティツィアーノの「聖なる愛と俗なる愛」でも見られる。
イデア界を表現するヴィーナスは、人間のそのままの姿、つまり裸体で描かれ、聖なるヴィーナスと考えられる。それは、左手の緋色の衣によっても確認される。そのヴィーナスの後ろには、表現し、聖なるヴィーナス
現実世界を示す衣服を着た女性は野生の自然が配置されている。
他方、着衣のヴィーナスは現実世界を表現し、俗なるヴィーナスと見なされる。彼女の背後に見えるのは、野生の自然。
そこで、「聖なる愛と俗なる愛」は、自然に対する文明の優位を意味するアレゴリーと考えることができる。
しかし、「エヴァ プリマ パンドラ」の場合にも、それと同じ解釈をすることが可能なのだろうか?
絵画自体の中に、それを解く鍵が描かれず、この作品のアレゴリーの意味は謎として残されている。

自然 vs 文明、現実 vs イデア等、二つの世界の対比という視点からすると、裸体の女性の肖像画の中にしばしば置かれている鏡は、現実とは逆転した映像の世界を作り出す。
その場合、鏡像は、現実の世界のコピーでしかなく、偽りの世界なのか? あるいは、イデア界の影でしかない現実の虚構性を暴く真実の姿を見せるものなのか?
鏡の中に、女性の顔が映る場合もあるし、何も映っていない場合もある。
「化粧のヴィーナス」では、鏡の中は全体的に黒く、白っぽい反映が僅かに描かれている。

他方、「ディアーヌ・ド・ポワチエ」では、彼女の顔が鏡の中でもはっきりと見える。

額の中が鏡ではなく、絵画の場合もある。
フランソワ・クルーエの「浴室の婦人」では、画面の後方に3枚の絵画が掛けられている。


プラトン哲学では、現実はイデア界の影、つまりコピーとされる。
芸術作品は、その現実を再度コピーするものであり、イデア界から見ると、2重にコピーしたものとなる。
コピーは現実と類似しながら、現実ではない。従って、人を迷わせる偽りの存在。そこで、プラトンは理想の国から芸術家を追放する。
そうした考え方に則りながら、現実の再現である鏡の像は、仮象の現実を逆転して映し出すことによって真実を告げる、という考え方もある。
その考え方に則れば、鏡の世界はイデア界と見なされることも可能である。
そのように考えた時、フォンテーヌブロー派の絵画で、裸体の女性が手にする鏡が何のアレゴリーだったのか、偽りの存在なのか、現実を超えた真実の存在なのか、アレゴリーの鍵を持たない状態で決定することは難しい。
実際、アレゴリーを理解する鍵は、時代を経るに従って失われてしまい、明確な答えが不明なことが多い。
そこで、一つの解釈が出されて問題が解決したと思っても、別の解釈が提出され、様々な解釈がぶつかり合うこともある。
絵画の美を鑑賞するのとは別に、そうした解釈を知ることで絵画鑑賞もより幅広いものとなる。
フォンテーヌブロー派の絵画において、アレゴリーに基づいた表現が中心となっていることは、アレゴリーをテーマにした作品が多く見られることからもわかる。
メートル・ド・フロール(花の巨匠)と呼ばれる画家の描いた「豊穣のアレゴリー」。子供たちの数の多さが豊穣の寓意。

アンブロワース・デュボワの「絵画と彫刻のアレゴリー」。
16世紀後半に、絵画と彫刻のどちらが優れた芸術かという論争があり、画家なりの答えを寓意的に表現した作品。

ほぼ画面の中央に座り、キャンバスを広げて絵を描いているのが絵画。
左側に置かれたヴィーナスとキューピットの小さな像が彫刻。
大きさからだけ見ても、絵画の勝利のアレゴリーであることがわかる。
名前を知られていない画家の「愛(アムール)のアレゴリー」。

右手の後方では3人の美の女神が輪を作って水浴し、画面の中央の前景では、赤い羽根をはやしたキューピットは矢を手から離して、眠り込んでいる。その後ろにいる3人のプット(翼の生えた裸の幼児)が悪さを企み、一人がキューピットの頭から、冠の宝石を一つ盗み取ろうとしている。
その後ろでは、バッカスかフォーヌを思わせる青年が、ヴィーナスの耳元で何かをささやき、ヴィーナスはその言葉を嬉しそうな様子で聞きながら、左手の指で黄色い花を指さしている。
この美しい絵画が愛のアレゴリーであることはわかるとして、それ以上のことは謎のまま残っている。
このように、フォンテーヌブロー派の絵画はアレゴリーに満ちあふれているが、現在では理解のための鍵が失われていることも多い。
その理由の一つは、絵画が描かれた状況や、それが置かれていた場所から切り離されて、独立した1枚の絵として鑑賞されることにある。
フォンテーヌブロー派の絵画は、フォンテーヌブロー城に集められた芸術家たちを中心に発展したものだった。とすれば、よりよい理解と鑑賞のためには、フォンテーヌブロー城に戻らなければならないだろう。(続く)
