
一人の人間の本質的な気質はどんなことがあっても変わらない。
牧師の息子だったフィンセント・ファン・ゴッホ(1853−1890)は、最初に画商グーピル商会の店員となり、次に牧師になった。
その後、絵に専念することになるが、彼の根本にある気質は不変のままだった。たとえ、農民や炭坑夫になっていたとしても、ゴッホはゴッホだっただろう。

彼の気質は、牧師を辞めさせられた顛末を通して見えてくる。
そして、その気質は、オランダ時代だけではなく、フランスで創作活動をする間も、ずっと彼の絵画の奥深くにどっしりと根を下ろしている。
二つの時期の違いは、線と色彩のどちらに重きを置くかによる。
オランダ時代は、描線によって物の形を捉える画法を探った。パリに移り住んでからは、色彩を絵画表現の中心に据えた。
ここでは、牧師になり損なったゴッホを出発点として、オランダ時代の線描を中心にした絵画について考察していく。
伝道師失格
牧師の息子が、牧師的な気質を持ち、伝道師になったとしても不思議なことではない。とりわけ、ゴッホの場合、祖父も高名な牧師だった。
彼は16歳(1869年)の時からグーピル商会という画商に勤めるようになり、アムステルダム、ロンドン、パリで働く機会を得る。しかし、金儲けだけを追求するような画商の仕事に嫌気がさし、1876年には会社から解雇されてしまう。そうした時、気持ちが聖職に向かったのは、自然なことだろう。

ゴッホは、労働者や貧しい人々の中で働きたいという気持ちを抱き、伝道師養成学校で学ぶ。
1878年12月になると、ベルギーの炭鉱地帯にあるボリナージュ地方の小さな村で、伝道師としての仕事をするようになる。そこでは、苛酷な労働条件に反発して労働争議が頻発していた。彼は、社会的な不正義の中で貧しい生活を送る人々に説教を行い、人々の役に立つことをしたいと望んだ。
「どのようにしたら、人々の役に立てるのか?」
ゴッホの考えは、「キリストの倣い」の教えのように、自らも貧しい労働者と同じように生き、献身的に尽くすことだった。

しかし、貧しい人々と何ら変わるところのないみすぼらしい姿は、教会の伝道委員会によって、常軌を逸した自罰的行動と見なされ、伝道師の威厳を損なうものとして断罪される。
ゴッホの伝道師になるという願いは、こうして断たれてしまったのだった。
貧困の原因が上下関係のある社会制度であるとすれば、教会はそれをなくす方向に進むはず。それに対して、伝道師の体面を重んじる立場は、貧しい人々の魂を救うよりも、上下関係を維持する体制に重きを置いていることを意味する。
社会の底辺に生きる人々と一体化することを望む伝道師の卵フィンセント・ファン・ゴッホは、そうした教会組織から排除されたのだった。
人生におけるこの決定的なエピソードを通して、私たちには、ゴッホとは誰であり、彼が何を望んでいたのかが見えてくる。
一言で言えば、「聖性」を通して、人々に「有用」であること。
ゴッホの考える「聖性」とは、説教壇の上に立ち、人々に教えを説くことではない。イエスに倣い、貧しい人々の中に入り、彼等の一員として共に働くこと。
制度を顧みず、ともに生きること。それが、ゴッホの望む、「聖性」を通した「有用性」だった。
伝道師失格の烙印を押されたゴッホには、社会は制度化され、柵、扉、壁に囲まれた人間は監禁された状態にいる、と感じられた。
青年男子は、職を得て、自分のパンを得なければならない。こうした既成概念が人間を締め付ける。そして、職を失ったゴッホに対して、回りの人々は、職につくように促す。自分でパンを稼げ、と。
しかし、ゴッホは、制度化されず、ありのままに生きる気質の持ち主。そのために、夢見た牧師の職を失ったとしても、彼は彼のままでいることしかできない。人々から怠惰と非難されることがあっても、どうすることもできない。
彼は思う。「貧しい田舎で、未開な環境で、骨を折り、その日その日を送っている方が、はるかにありがたいし、面白い。」
別のところでは、次のように書いている。
海は危険であり、嵐は恐ろしい、それは漁師がよく知っている。しかし、危険は、海に出ない理由にはならない。(中略)嵐でも夜でも来るがいい。危険と危険に対する恐怖の念と、一体どちらが始末に悪いか。僕としては、現実の方がいい。危険自体の方がいい。
ゴッホの気質は、制度や概念といった抽象化されたものを拒絶する。そして、その時その時の「生」そのものを生きるように、彼を導く。
常に流動する生の脈動は、ゴッホの絵画に通底する「非完了性」の源なのだ。
画家の目
ゴッホはいつ、どこにいても、何をしていても、ゴッホであることに変わりはない。ボリナージュ地方で、貧しい人々の中に溶け込み、伝道師の活動をしている時にも、画家の目をしていた。
彼は、世界を画家の目で捉える。炭鉱の街も、彼の目には絵として映る。

ここの田舎が実に絵のようなのだ。実に独特なのだ。あらゆるものが、昔あったがままの事を語りかけ、特色に満ちている。クリスマス前の陰気な日の続くこの頃では、地面はもう雪で覆われてしまい、全てのものが中世の、ある絵を思い出させる。例えば、農民画家ブリューゲルやその他、緑と赤、黒と白との奇妙な効果を実に素晴らしく術を心得ていた多くの人たちの絵。僕は常に、マリスやデューラーの作品を思い出している。茨が生い茂り、コブだらけの異様な根を張った古木のある洞窟のような道が幾つもあるが、デューラーのエッチング「死と騎士」の道そのままだ。
ゴッホが目の前にしているのは、薄汚い炭鉱の街の薄汚れた情景にすぎない。しかし、彼の目は、そうした所に絵画の映像を見る。それは、画商の店で店員として働きながら自然に得た知識から来るものかもしれない。
雪で覆われた地面は、ブリューゲルの「雪の中の狩人たち」を連想させるのだろうか。

整備されていない古い道に関しては、アルブレヒト・デューラーの1枚のエッチングの名前をはっきりと出し、絵画を通して現実を見る画家気質を明かしている。

ゴッホは描写をさらに続け、真っ黒な抗夫と彼等の小さな家を描写する。

先日、白い雪の上を家路につく坑夫たちの姿を、夕方の薄明かりの中で見たが、物珍しい光景であった。彼等は本当に真っ黒だ。暗い穴から明るみに出て来る姿は、煙突掃除夫そっくりだ。彼等の家は、恐ろしく小さい。小屋といった方がいい。それが洞窟のような道の縁や、森の中や丘の斜面に散らばっている。あちらこちらに、苔の生えた屋根が見え、夕方になると、小さなガラスの窓越しに、人なつっこい灯りが点る。
ここで注目したいのは、炭鉱の街のごくありふれた情景を弟に伝えながら、「実に独特」であり、「物珍しい光景」だと感じていることである。
普段目にしている日常の光景などは、誰も気に留めないだろう。そうしたところに特別なものを見るとしたら、ゴッホは、生まれながらにして、19世紀後半の芸術観を身につけていたという他ない。
ゴッホは、モーパッサンの小説論(『ピエールとジャン』の序文)を読んで深く同意する。その理由は、モーパッサンが師と仰ぐフロベールの教えを読むとわかってくる。
才能とは長い忍耐だ。— 問題は、表現したいと思うものを長い間、十分な注意を払って見つめ、まだ誰からも見られず、言われもしなかった一面を、そこから見つけだすことだ。全ての中には、まだ開拓されていないものがある。(中略)どんなに僅かなものも、少しだけ未知なるものを含んでいる。
ボリナージュ地方にいる時から、ゴッホの目は、誰もが目にする光景に「未知なるもの」を見つけ、物珍しい、独特だと感じる。フロベール=モーパッサンによれば、それは「才能」の印。
芸術家の仕事は、彼の見出した僅かなものを自分なりの様式(manière)で表現し、他のものと異なっている様子を際立たせることにある。

1882年、ゴッホはオランダのデン・ハーグで暮らしている時、シーンと呼ばれる娼婦との葛藤から逃れ、自然と対話する様子をテオに知らせている。
最初に目に入るのは、自然の樹木と別荘の花壇や東屋。
別荘はゴッホにとっては制度や概念の側にあり、不快な緑色のおもちゃのようで、愚にもつかぬ格好をしているように見える。
樹木は堂々として、静かで素晴らしい。
この時、砂漠のように広がった草原の彼方から、次々に雲の塊が湧き上がり、こちらにやって来た。石炭殻を敷いた黒い小径に縁取られた運河の向こうの、木立に囲まれた田舎の家並みに、まず風がぶつかってきた。樹木は素晴らしいものだった。そのそれぞれの「人物」の中に、というのは、その一つ一つの樹木の中にという意味だが、劇があると言いたいところだった。そんな樹木も、風雨に打たれ出すと、それだけを眺めるより全体の風景の方が一層美しくなる。雨に濡れ、風にもまれて、あの小さな愚劣な別荘も、奇妙な性格を帯びて見えてくるからである。
風が立ち、雲が湧き上がる。そこには、自然の生命力が充満している。その命のエネルギーが目に入る全てのものを包む時には、自然だけではなく、最初に不快だと感じられた別荘さえも、美しく感じられる。風景全体が一つになるのだ。
そんな時、人間と自然の区別は消え去る。樹木も「人物」となり、それぞれの「劇」を担う。逆に、愚劣な別荘も、「奇妙な性格」を帯びる。つまり、「未知なるもの」に感じられる。
この光景を彩る色彩は、石炭殻を敷かれた小径の黒のみ。雲、雨、風が支配的で、太陽はない。この場面を写生すれば、憂鬱な絵になるだろう。
しかし、ゴッホは、そこに「新生の光」を見出す。雲が湧き上がり、風が吹きすさび、雨が降る注ぐ。そのエネルギーこそが、風景全体を美しくする源なのだ。
ゴッホの目は、自然の全体性を捉え、そこに美を見出す。
それは人間の体に関しても同じこと。1885年の手紙で、彼はこんな風に言う。
あらゆるものは円形をなしている。言ってみれば、人間の形には、どこに行っても、始まりも終わりもない。それは調和の取れた全体をなしている。

ゴッホの目が捉える世界は、始めも終わりもなく、「調和のとれた全体」をなしている。
その全体とは、静止しているものではない。生のエネルギーが流動している。人間であれば、働く人の動きとして表れ、自然であれば、雲や風の動きとして表れる。
どちらにしても、「円形」が表出したそれぞれの「形」にすぎない。
調和の取れた全体を、ゴッホは交響曲のように感じ、その音響に包まれて我を忘れることもある。その時、世界は美そのものになっている。
このように、ゴッホの目は、形を通して生のエネルギーを捉え、美を見出す。
描線による形の表現
オランダ時代のゴッホは、全てを「形」によって捉えた。人間の動き、畑の畝、雲の塊、小さな家。
画家としての「労働」は、それらの形を描線によって描き出すことだった。
先に引用した、シーンと暮らした時代の手紙の最後に、彼はこんな風に書いている。
ああ、この世には影絵の形と輪郭とを示すに足りるだけの僅かばかりの光が、僅かばかりの幸福がなければいけない。その他は暗いままでいい。
この言葉は、画家のものであると同時に、伝道師のものだ。
オランダ時代のゴッホの絵画に色彩は乏しく、形と輪郭によって構成されている。例えば、同居する女性シーンを描いた「悲しみ」。

黒いチョークで描かれたこの素描は、メランコリックであり、題名の通り、絶望的な悲しみの感情を表出している。
この姿は、シーンという一人の悲しい女だけではなく、ゴッホがボリナージュ地方で共に生きた炭鉱労働者やその家族たちの姿、貧富の差を放置する堕落した社会の犠牲者たちの姿でもあるだろう。
彼等の魂に救いの光をもたらそうとした伝道師がその道を断たれた後、画家が伝道師の志を継ぎ、絶望し慟哭する人間の「形と輪郭」を描き出す。
その生命のエネルギーを伝えることで、僅かばかりの光、僅かばかりの幸福をもたらすことができる。
画家の中に生き続ける伝道師は、そのように直感したのではないだろうか。
こうした気質を持ったゴッホにとって、ジャン・フランソワ・ミレーは、最良の導き手と思われたことだろう。
ミレーの絵画では、大地の上で働く人々は大地の一部となり、人々は大地と同じ色をしている。
そこからは、観念的な農民の姿ではなく、土地を掘り起こし、種を巻き、夕べの鐘と共に祈る、農民の実感が発散している。
大地の上の人間は、ヒースや麦と変わることがない。冬の寒さは、農民にも麦にも同じように厳しく、麦の実感と、農民の実感に変わるところはない。ミレーの農民達は、その実在性を有している。
観念的な農民とは、どのようなものなのか? 17世紀フランスのル・ナン兄弟の農民画を見ると、すぐにわかる。

この「幸福な家族」に描かれた農民たちは、貴族が農民の服を着て、モデルになっているのではないかと言われるほど、労働の実感がない。
それに対して、ミレーの描く農民はリアルである。


働く者たちは大地の色をしている。
彼等は土地に縛り付けられ、労働し、疲れ果て、死んでゆく。休息は一瞬だけ。その休息の姿からも、疲れのためにハーハーと息をする、その息づかいが聞こえてくる。
彼等の労働は、自分を頼る家族のためであり、働くことで人々の命を繋いでいる。「接ぎ木をする農夫」や「種まく人」は、そんな働く者たちの姿である。


鉱山や農地で働く人々の生活は苦しく、救いがないようにさえ思われる。これらの絵画は、その悲惨な状況を実感を込めて描き出す。そのために、非常にメランコリックな印象を生み出している。
ミレーは、画家として彼自身がそのメランコリーを引き受け、そこにこそ敬虔さを見出す。夕べの教会の鐘の音は、一時の平安を人々に与えてくれる。

ゴッホは、大地の宗教性とでも呼べるものを、ミレーの絵画から感じ取ったのだろう。
例えば、「種まく人」を前にして、地面に種をまく人の動きから世界全体に流れるエネルギーを感じ取り、全体を表す「円形」=「調和の取れた全体」に触れる。それが夕べの教会の鐘のシンフォニーとして彼の体を満たす。
絵画が聖なるものを伝え、牧師としてできなかったことを、可能にしてくれる。ゴッホは、ミレーの絵画を通して、「接ぎ木をする者」=伝道師の思いを満たす希望を持ったに違いない。
ミレーを最良の画家とみなすオランダ時代のゴッホの絵は、メランコリックな雰囲気の中、描線で動きの形を捉えようとするものになっている。



こうした習作を続けながら、彼は、自分でも満足できる作品「ジャガイモを食べる人々」に至ることになる。

この絵に関して、ゴッホは弟にこう手紙で記す。
ぼくは次のことをはっきりさせようと思った。ランプの灯の下でジャガイモを食べる人々は、皿を取るのと同じ手で、土を掘ったのだ。つまり、この絵は、「手仕事」というものを語っている。彼等が正直に食を稼いだことを語っている。我々文明化した人間とは、全く違った生活の道があるという印象を与えたかったのだ。だから、みんながすぐにこの絵を好きになるとか、褒めるというわけにはいかない。そんなことは思ってもみない。長い冬の間中、ぼくはこの織物の糸を掴んでいた。はっきりした縞柄を得るにはどうしたらいいのか考えていた。荒っぽい粗野な柄が織れてしまったが、注意深く一定の方向に織ったのだ。こそこそ本当の農民画だと、やがて人々にもわかるだろう。
農夫は農夫でなければならないと主張するゴッホは、ルナン兄弟のような農民画ではなく、実際の農家の一家の姿を描き出す。
彼自身の言葉を借りれば、彼等は大地を掘り、種をまいたのと同じ手で、ジャガイモをフォークで突き刺し、コップに飲み物を注ぐ。
顔の色も、手の色も、彼等が働いてきた土地の色をしている。農民は農民でなければならないとすれば、彼等はまさに農民だ。
彼等の生活は過酷な労働のうちに過ぎ、今、やっと夕食の時を迎える。
ゴッホはその場面に、二つの円を描く。
一つは、天井から吊されるランプが作る光の輪。光は、天井の上に伸びると同時に、下に座る人々の顔を照らし、陰影を作り出している。
もう一つの円は、木を貼っただけの粗末なテーブルを囲む5人の農民家族が作り出す輪。
光の輪は上下に伸び、人の輪は水平に広がる。
画面の左側にいるやや若い男女は、皿の上のジャガイモにフォークを刺し、女性の目は男性に何か問いかけているように見える。
右側に座るやや老けた男は手に持ったコップを差し出し、女は別のコップに飲み物を注いでいる。
ここでは、年代の違う二組の男女の動作の「形」が、描線によって明確に描かれている。ゴッホは、「ただ動作だけを狙って、動作を描いている。」
彼にとっては、動作の形を描き出すことが、現代的な人物画であり、現代芸術の本質だった。
5人目の人物は、こちらに背を向け、画面の最前列中央に座っている。後ろ姿のその少女は、じっと動かず、他の4人の動きを際立たせている。それと同時に、左右に位置する2組の男女をつなぎ合わせ、円形を作り出す要の役割も果たしている。
「ジャガイモを食べる人々」に、ミレーの「晩鐘」のような静謐さはない。
その反対に、強烈な陰影と光のコントラスト、太く明確な筆触により、独特のエネルギーを発散している。暗いけれど、その暗さが力強い。
こう言ってよければ、この織物は「調和の取れた全体」の一つの表現であり、暗い室内の唯一の光源であるランプに、「新生の光」を感じ取ることも可能である。
ゴッホ自身は、この絵に一つの到達点を見出したと思われる。しかし、1880年代の美術界において、革新的な絵画の傾向とは正反対の方向を示していた。
パリで画商をしている弟のテオも、明るい色彩を革新の旗印にする印象派絵画の推奨し、「ジャガイモを食べる人々」は暗すぎて、買い手はつかないと判断した。
1886年2月にパリに出発する前、しばらくアントワープに滞在するが、その頃からゴッホは浮世絵を集め始め、新しい傾向の画法に惹かれていった。
そして、パリでは、印象派の画家達と交流。ゴッホの絵は明るい色を獲得することになる。
