
ゴッホは、1886年2月末にパリに突然姿を現し、1888年2月になると、南フランスのアルルへと去っていく。この約2年間のパリ滞在中、彼は何を習得したのだろうか。
アルルに到着後、彼はパリにいる弟のテオへの手紙で、こんな風にパリ滞在を振り返る。
パリで学んだことを忘れつつある。印象派を知る前に、田舎で考えていた色々な考えが、また返ってきた。だから、ぼくの描き方を見て、印象派の画家たちが非難するかもしれないけれど、ぼくは驚かない。
ゴッホの意識では、アルルでの仕事はオランダ時代に続くものであり、パリでの2年間は空白の時だったらしい。

しかし、ゴッホの絵は明らかに大きな変化を見せている。彼の絵画は、印象派の影響を受け、オランダ時代の暗いものから、色彩のオーケストレーションといえるほど、明るさを増している。
ここでは、パリ滞在の2年に限定し、ゴッホの絵画を辿ってみよう。
光と色の理論
ゴッホがパリに暮らし始めた1886年には、第8回印象派展が開催され、1860年代から始まった新しい絵画の流れが、やっと認められようとする時期だった。
印象派絵画の中心的な問題は、色彩にあった。
従って、新しい絵画の流れを理解するためには、色彩に関する基本的な知識が必要になる。
(1)物に固有の色はない。— 色とは、光と物と眼の連関によって生じる、物理学的、工学的、心理的現象。
(2)光のスペクトル。
(3)色の三原色。
(4)補色と色彩の同時対比の法則。
以上の4つの点から、光と色の関係について理解しておこう。
(1)物の色
一般的には、現在でも、物には固有の色があると思われている。赤いリンゴは赤く、緑の木の葉は緑。
しかし、実際には、物に固有の色はない。
赤く見えるリンゴに緑の光線を当てれば、赤い色は変化する。同じ木の葉の緑でも、光の当たっている部分と闇の部分では、緑は違って見える。
色は、実際には、「光」と「物」と「眼」という3つが連関して生み出される現象。
太陽光線が物にぶつかると、その物の特性に従い、ある波長は吸収され、別のある波長は反射される。
その反射された光が、今度は、眼にぶつかる。そして、その刺激が脳に伝えられ、脳が色を感知する。
このシステムで生成する現象が、色として認知される。

では、色の違いはどこから生まれるのか?
それを知るためには、光のスペクトルを知る必要がる。
(2)光のスペクトル
太陽の光をプリズムに通すと、虹のような色の帯ができる。その帯をスペクトルと呼び、光をスペクトル(波長成分)に分けることを「分光」と言う。
スペクトルは、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の順に並んでいる。
その違いは、波長の長さによる。
最も波長が長い部分は赤く見え、短い部分は紫に見える。中間は青。

物の色の違いは、スペクトルと関係する。
ある物は、短い波長(S(hort)波長)と中間的な波長(M(iddle)波長)を多く吸収し、長い波長(L(ong)波長)は吸収せずに、反射する。その反射光が人間の眼に届くと、長い波長であるために、赤く見える。
同様に、短いS波長と長いL波長を吸収し、中間のM波長を反射する場合には、中間の長さの反射光が眼に多く届くため、物は青く見える。
様々な色の変化は、光のスペクトルの組み合わせによる。その組み合わせは、光の三原色の規則に従っている。
(3)光の三原色
光の三原色は、赤、緑、青。
それらを混ぜ合わせることで、ほとんど全ての色を作ることができる。
赤と緑の光が混ざると黄色。緑と青が混ざると空色。青と赤が混ざると赤紫。赤緑青すべてが混ざると白。

人間の眼に光が届くと、網膜の視細胞の中で、色と明暗を見分ける。
色や形を見分けるのが、「錘状体(すいじょうたい)視細胞」。
明暗を見分けるのが、「杆状体(かんじょうたい)視細胞」。
人間は、こうようなシステムの中で、色と明度・彩度を感知している。
(4)補色と色彩の同時対比の法則。
一つの色は、もう一つの色と隣接すると、人間の視覚には、最初の色とは違って見える。
その見え方の基礎となるのが、補色と色彩の対比の法則。
A. 補色
補色とは、色相環で正反対に位置する関係の色の組合せのことをいう。
例えば、赤の補色は緑。

色の性質は、色相(色合いの違い)、明度(明るさの度合い)、彩度(鮮やかさの度合い)の三属性によって表す。
補色の関係にある二つの色を並べて置くと、より彩度が高くなったように感じ、色の鮮やかさが強調される。
例えば、緑の紙の上に赤い肉を置くと、補色対比によって肉の赤みが強調され、肉の鮮度が高く感じられる。
明度に関しては、近い明度の2つの色、例えば、黄色と青紫は明度の差が最も大きい組合せで、明瞭性も高くなる。他方、青緑と赤を隣り合わせにすると、明度が高くなり、ギラギラと眩しく感じられ、見えにくさが生じる。
B. 色彩の対比の法則
色彩の対比の法則は、19世紀のフランスの化学者ミシェル・ウジジェーヌ・シュヴルールが研究し、『色彩の同時対比の法則とこの法則に基づく配色について』という本の中で発表した法則。
シュヴルールは、パリにあるゴブラン織り工場の所長を勤めている時、青やモーヴ、灰色、茶色、黒等の糸を使ったタピストリーの仕上がりが悪いという苦情を受けた。その原因を調べると、糸の塗料や織りの技術ではなく、色の組み合わせに問題があることがわかった。
その結果、「隣接した色は互いに影響し変化して見える」という「同時対比の法則」を発見したのだった。
シュブルールの対比の法則は、大きく分けて、二つに分類される。
類似の調和
色相やトーン(明度と彩度)が似ているもの同士は調和するという法則。
対比の調和
色相やトーンが反対なもの同士は調和するという法則。

二つの隣接する色によって、それぞれの色が本来の色とは違って見える現象を、錯覚とか錯視と呼ぶこともある。
人間の視覚にとってそれはごく自然な現象であり、絵画で絵具を配置する時には、最重要課題の一つとなる。(次ページに続く)
絵画の技法と印象派の試み
1886年2月の終わりにパリに着いたゴッホは、当時パリの画壇で勢力を増しつつあった印象派の画家達の技法を吸収し、数多くの作品を描いている。
ここでは、印象派の技法について、色の側面から検討し、ゴッホの習得したものがどのようなものだったのか見ていこう。
ルネサンス以来の伝統
近代絵画の歴史において、ルネサンスは決定的な重要性を持つ時代である。
遠近法の発見により、二次元の画布の上に三次元の空間の虚像を生み出すことができるようになる。
それと同時に、明暗法が使用され、描かれたものに立体感を与えることが可能になった。
その結果、三次元の現実を2次元のキャンバスの上に再現する絵画が描かれることになる。
その際、色彩に関しても、現実を模したものが使われる。
つまり、パレットの上で絵具を混ぜ合わせ、描く対象の色にできる限り近い色を作り出し、現実の色と錯覚させる色合いで描くようになる。
そうした画法が極限にまで進めば、現実の質感まで伴った絵画が制作される。
例えば、18世紀フランスのロココ美術を代表するフランソワ・ブーシェの「ポンパドゥール夫人」。

室内装飾、ドレス、女性の肌、花等、全てが細部まで綿密に描かれ、現実の質感を伴って再現されている印象を受ける。
「本物そっくり」と感嘆の声があがりそうな作品である。
19世紀の前半になると、究極まで再現性を追求する絵画に対して、新しい絵画を求める動きが出てくる。
イギリスのターナーやコンスタブル、フランスではドラクロワ等が、再現よりも、絵画そのものの美を表現する試みを始める。
その際に、線によって物の形を細部まで描き、そこに配色するのではなく、色を線に先行させるようになった。輪郭線はなくなり、色が熱狂的にうごめく絵画。

1860年代に入り、エドゥアール・マネを中心にした画家たちは、ドラクロワ的な色彩の実験をさらに押し進めるようになる。
その革新の中心となるのが、色。
現実の色に類似した色を絵具で作るためには、絵具を混ぜる必要がある。その時、絵具は必然的に暗くなる。
光の三原色とは逆に、色の三原則は混ぜると黒くなる。

マネに続く印象派の画家たちは、現実の色を再現するために、パレットの上で絵具を混ぜることをやめる。彼等は、画布の上に純色を配置し、その反射光が人間の眼で受容される時に生み出される色彩の効果を狙う方法を用いるようになる。
「筆触分割」と呼ばれる技法である。
筆触分割 — 初期の印象派絵画
筆触分割とは、太陽光のプリズムで分割される7つの色を基本とし、一つ一つの色をパレットの上で混ぜないで、純色として使用する技法のこと。
最初の頃は外光派と呼ばれ、太陽の光に照らされながら野外で絵を描き、光を捉えることを目指した画家たちの試みは、1874年に開催された第一回印象派展に出品された作品に結実されたと言っていいだろう。
その代表は、印象派という名称のきっかけになったモネの「印象:日の出」。

同時に展示された、モネのもう1枚の絵画「アルジェントゥーユの船留り」。

カミーユ・ピサロの「白い霜」。

ルノワールの「踊り子」。

筆触分割を用い、絵具を混ぜず、純色が用いられているために、明度が増し、画面が艶やかになっている様子がわかる。
パリに到着したゴッホは、印象派第一世代の画家たちの画法を取り入れた絵画も残している。




こうした絵画を見ると、オランダ時代のゴッホでは考えられない色彩に溢れ、明るい画面になっていることがわかる。
ところで、1886年の第8回印象派展にモネもルノワールも参加していない。10年の間に技法も変わり、色彩をより科学的、体系的に研究し、実作に活かす画家たちが現れて来ていたのだった。
点描画法 — 第8回印象画派展
第8回印象派展で最も話題となった作品は、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」。

「グランド・ジャット島の日曜日の午後」に代表される点描画法を使った絵画に関して、美術批評家フェリックス・フェネオンは、次のように論評した。
色彩分割による画面処理はすでに行われていた。しかし、その分割は恣意的で、ある絵具の細長い筆触が、風景を通して赤の印象を発することもあれば、ある赤い輝きが緑で短く刻まれることもあった。— それに対して、ジョルジュ・スーラ、カミーユとリュシアン・ピサロ、デュボワ=ピエ、ポール・シニャックといった画家たちは、意識的、科学的なやり方で色調を分割している。
実際、スーラたちは、前の世代の印象派の画家たちように、経験や直観に頼るのではなく、科学的で厳密な色彩の表現を追求し、シュブルールの著作『色彩の同時対照の法則』等を研究した。
1886年の印象派展に出品された他の作品も見ておこう。シニャックの「クリーシーのガスタンク」。

カミーユ・ピサロは、8回の印象派展全てに出品している唯一の画家であり、1874年と1886年の作品を比較するのは興味深い。
ここでは、「ピサロ 「エラニーの牛を追う娘」」を見てみよう。

ゴッホはピサロから直接教えを請い、点描画法を試している。



こうして、ゴッホは、パリ滞在の2年の間、第一世代と第二世代の印象派の技法を身につけていった。
しかし、彼の意識では、満足のいく結果を得ることはなかった。
その理由は何か?
オランダ時代、彼が最も力を注いだことは、「形」を捉えることだった。
それに対して、印象派の画家たちは「色」を中心に据える。そのため、形は朧気になり、形は色の後に退く。
印象派のように純色を用い、しかも形を明確に捉える絵画はないのか?
その疑問に答えるものが、日本の浮世絵だった。(次ページに続く)
浮世絵 — ゴッホの日本
ゴッホが浮世絵を技術面から語る文を読むと、なぜ彼がそれほど日本の美術に魅了されたのかわかってくる。
純色に関しては印象派と同じだが、浮世絵は「色」によって「形」を捉えるように、彼の目には見えている。
日本人は、反射を考えず、平板な色を次々に並べ、動きと形を捕らえる独特の線を出している。(中略)
多くの場合、白と黒とは色と考えられるし、その対照は、例えば赤と緑の対照と同様に、心を突くものだ。日本人たちはそれを色として使っているではないか。彼等は、娘の艶のない青白い肌と黒い髪のコントラストを、驚くほど巧みに表現している。しかも、1枚の白い紙に筆を四度使っただけで。
ゴッホが浮世絵に発見した色の問題は、ヨーロッパの色彩論とは違う手法があり、それが見事な効果を上げるということである。
色相環を見ると、そこには白も黒もない。つまり、黒も白も色相の中に入っていないことになる。しかし、補色である赤と緑の対比と同様の強度で、人の心を捕らえるという。
白も黒も色。この認識は、ヨーロッパの色彩論にとって革新的なものなのである。
その上、浮世絵の、反射を考えない平坦な色、つまり陰影法を使わず、純色をそのまま用いる技法は、「動きと形」を捕らえることを可能にする。
まさに、ゴッホの理想が浮世絵にはある。
パリにいる2年の間、ゴッホは浮世絵を収拾し、自ら模写もしている。



模写を通して、ゴッホは彼なりの日本像を作り上げた。
それは、彼の思い込み、考えすぎ、妄想等と揶揄されるほど極端な日本論かもしれない。しかし、日本人でも気づかないほど、日本文化の本質を突いている。
今日、日本人はどういう生き方をしているのか。地球と月との距離を研究しているのか。ビスマルクの外交政策を研究しているのか。そんなことではない。日本人は、ただ草の葉の形を調べているのだ。しかし、その1枚の葉から、やがて全ての植物を描く道が開かれる。それから、季節を、田園の広い風景を、動物を、人間を。日本人の生活は、こうして過ぎていく。そして、全てをやるには、人生は短すぎる。自ら花となって、自然のうちに生きている単純な日本人たちが、僕たちに教えるものは、実際、宗教といってもいいのではないか。
単純なものに全てが宿る。1枚の草がそのまま全自然であり、自然全体が1枚の花として姿を現す。人間も、動物も、風景も、根源は等しく、人間は花でもあり、花が人間でもある。
俳句や山水画等を通して表現される、日本人の心の根底に宿る「無=全」の思考を、ゴッホは、浮世絵に代表される当時のジャポニズリー(日本趣味)を通して、直感的に感じ取り、理解したのだろう。
そして、彼の理解する「日本」の中に宗教を読み取るとしたら、画家ゴッホの後ろには牧師ゴッホがいると言ってもいいだろう。
だからこそ、彼にとって、日本の芸術家の姿は理想だった。
僕は思うのだが、君がもし日本の芸術を研究するなら、もっと陽気に、もっと幸福にならなければならない。僕等は、紋切り型の仕事や教育を捨て、自然に還らないといけない。・・・僕は、日本人が全ての制作のうちに持っている極度の清潔を羨望する。決して冗漫なところもないし、性急なところもない。彼等の制作は、呼吸のように単純だ。まるで着物のボタンをかけるとでもいうように、僅かばかりの筆使いで、苦もなく形を描き上げる。ああ、ぼくもいつかは、こんな具合に描けるようにならないといけない。
呼吸するように、服にボタンをかけるように、単純に、自然に腕を動かす。そして、色によって単純な形を描き出す。
別の所では、ナイチンゲールが歌うように描きたい、と書いている。
パリで行った浮世絵の模写は、日本芸術へのオマージュというよりも、彼の理想を実現するため、日本の芸術家に自らを一体化させるための試みだったのではないだろうか。
生のエネルギーの表現
パリで新たに獲得した豊かな色彩を使い、浮世絵のように「形」を描き出す。その試みを形にした1枚が、パリでとても親切にしてくれる画材屋、タンギーさんの肖像画だ。

タンギーの背後は、浮世絵で埋め尽くされている。
頭の上には、雪景色、富士山、桜が、左下には朝顔が置かれ、日本人の感性にとって何よりも大切な四季がはめ込まれている。
時は移り変わるけれど、季節は再び巡ってくる。そこに儚さを惜しみながら、美を見出す日本的感性の秘密が隠されている。
さらに、タンギーの左右には、渓斎英泉の花魁と、三代目歌川豊国の三浦屋高尾という二人の美人画が配されている。
背後を埋め尽くす浮世絵の模写は、ゴッホの考える日本とはどのようなものか伝える役割を果たしている。

技法としては、筆触分割が用いられ、第一世代の印象派的なタッチを感じさせる。その一方で、タンギーさんの体は、浮世絵に見られるような太い輪郭線で縁取られている。
こうした太い輪郭線は、マネの「笛を吹く少年」とも共通し、浮世絵の影響をはっきりと示す特色になっている。
さらに、英泉の「雲龍打掛の花魁」の着物や「東京名所 いり屋」の朝顔は、均質で大きな色の塊で描かれ、ヨーロッパ絵画の伝統である明暗法とは全く違う技法を使った色使いが強調される。
ゴッホ自身の言葉を借りれば、「平板な色を次々に並べ、動きと形を捕らえる独特の線」。
「タンギー爺さん」は、明度の高い色彩で描かれているが、オランダ時代の「ジャガイモを食べる人々」に匹敵する、高い精神性を持つ1枚になっていると言っても過言ではない。

「カフェ・タンブランの女」も、印象派的色彩の影響下で描かれた肖像画。

モデルの内面を強く感じさせるこの肖像画は、二つの世代の印象派の画家たちの画法を取り入れながらも、ゴッホの中に常に伝道師がいることを示している。彼は、人間の生の動きを「形」によって捕らえることを目指していた。
その意味では、パリで出会った同時代の画家、ロートレックやドガと同じ方向を向いていたとも考えられる。ロートレックの「化粧」やドガの「浴盤」は、顔の表情ではなく、背中を中心とした体の色と形によって、描かれた人間の心の動きを捉えている。


ドガは、第8回印象派展にも参加していた。その際に出品された「アイロンをかける2人の女性」。この絵にも、はっきりとした動きがある。

ゴッホは、オランダ時代、人間を描こうと自然の風景を描こうと、動きの形を捕らえることには変わりがないと、テオへの手紙で書いたことがある。
また、浮世絵を介して理解したこととして、日本人には、1枚の草から全ての植物を描く道が開かれ、さらには、季節、風景、動物、人間へとつながっていくと考えた。
ゴッホにとっては、人物や風景といった題材の違いはほとんど意味を持たない。
「モンマルトルの菜園」。この中では、印象派的な筆触分割が用いられているが、風景は静止せず、生のエネルギーに溢れ、全てが疾走している。丘も風車も空も、一つの力の表現となる。

パリ時代の最後に描かれた自画像。モンマルトルの菜園と同じように、全てが動いている。

この二枚の絵が伝えるのは、モンマルトルの風景でも、ゴッホの顔でもなく、「生命力の充満」とでも呼べるエネルギー。
オランダ時代には暗いメランコリーが先に立っていたが、パリの2年間はゴッホに明るい色彩を与えてくれた。
二つの時期で、風景と人間の区別を消滅させるほどの勢いを持つエネルギーの横溢は変わらない。
パリ時代に彼が習得したのは、動きの「形」を「色」で捕らえることだった。
1888年2月、ゴッホはパリを突然離れ、アルルに到着する。
その時の彼は、パリでの2年間は空白であり、南フランスで印象派を知る前のオランダ時代に戻る、という意識を持っていた。
しかし、パリで得た色彩を捨てることはしない。むしろ、その経験をより発展させていくのが、アルルの時代だといえる。
黄色が、色と形が見事に調和する象徴となる。
