
シャルル・ボードールは、詩人としての活動だけではなく、絵画、文学、音楽に関する評論も数多く公にしている。
それらは詩とは無関係なものではなく、それ自体で価値があると同時に、全てを通してボードレールの芸術世界を形作っている。

『1846年のサロン』は、ボードレール初期の美術批評であるが、後に韻文詩や散文詩によって表現される詩的世界の最も根源的な世界観を表現している、非常に重要な芸術論である。
その中でも特に、「色について(De la couleur)」と題された章は、ボードレール的人工楽園の成り立ちの概要を、くっきりと照らし出している。
しかも、冒頭の2つの段落は、詩を思わせる美しい散文によって綴られ、ボードレール的世界が、言葉によって絵画のように描かれ、音楽のように奏でられている。
まず最初に、ボードレールの色彩論を通して、どのような世界観が見えてくるのか、検討してみよう。
世界の成り立ち 色と形 コレスポンダンス
(1)自然にとって、形と色は一つ。
人間が自然(現象世界)を見る時、「形」で捕らえることもあれば、「色」を取り出すこともある。もちろん、それらは独立してあるのではなく、共存している。
絵画で描く場合、形は線で作り出す。その線は物の細部まで描き出し、繊細な形を浮き上がらせることができる。
しかし、線によって、光や空気を描くことはできない。
光や空気を担当するのは、色。
画家は、画筆の色のタッチによって、線では表現できない光の効果や空気感を伝える。
ボードレールは、色と形が絵画表現の柱であることを認めながら、色を重視する。
色彩派の絵画の典型は、1846年のボードレールにとっては、ベネチア派の画家パオロ・ヴェロネーゼ。
ヴェロネーゼの絵画では、色のタッチが線を「食べている」。実際、「愛の寓意 1」を見ても、最初に眼に飛び込んでくるのは色彩であり、光や空気感が強く感じられる。

(2)色には、ハーモニー、メロディー、対位法が含まれる。
ボードレールは、色彩と音楽を同列に考え、一つの色(=音)が独立して存在するものではなく、音は相対的であり、全体性を形作る要素だと見なす。
「ハーモニー」は、色彩理論の基礎となる。
それは、全ての音が調和し、全体を形成している状態を指す。
「メロディー」は、様々な色を統一するものあり、全体的な色調(トーン)を決定する。
別の言い方をすると、メロディーは一つの方向に向かい、結論(une conclusion)に向かう。
それが絵画の意味となり、見る者の記憶に強い「思い出(souvenir)」として保たれる。
絵画の「メロディー」は、どのように聞き分けることができるのだろうか?
メロディーを知るためには、ある程度の距離を取って、絵を見る必要がある。
ものの形を描く線が明確でなくなるまで距離を取ると、主要な色調だけが見える。それが色のメロディーである。
その色には、それぞれの画家のスタイルや感情が含まれる。そして、それを選択する決め手は、画家の「気質(tempérament)」である。
ボードレールは、3人の画家の色を、こんな風に定義する。
パウロ・ヴェロネーゼの色は、穏やかで、陽気(calme et gaie)。
ドラクロワの色は、嘆きや呻き(plaintive)。

アメリカの画家ジョージ・カトリンの色は、怖ろしさ(terrible)。

(3)空気の働き
絵画における色の重視は、光と空気の働きを最大限に考慮することに基づいている。
ボードレールは、大気を「厚く透明なニス(vernis épais et transparent)」と考える。
全ての物にはそのニスが塗られているため、距離によって見え方が違う。
ある物を見た画家が、見えたままの色で絵画を描くとどうなるだろう。
物と画家の距離と、絵とそれを見る者の距離は違っている。従って、画家の眼に見えるままの色で描くと、観客には違ってみえる。
従って、同じ色で見えるためには、画家による「噓(mensonge)」が必要であると、ボードレールは言う。
画家は、見えるがままに描くのではなく、観客にどのような見え方をするかを考えて、色を配置する必要がある。
そこに、画家の「気質」の働く余地があり、その必要性もある。
(4)コレスポンダンス — アナロジー(類似)の理論
以上のような考察を通して、光の生み出す色は、単に物理的に存在するのではないことがわかってくる。
光と色は、人間の感情、さらに言えば、世界観と密接に結びついている。色は、音と響き合い、香りと対応する、コレスポンダンス。
ボードレールは、アナロジー(類似)の理論をフランスの読者に伝えるために、ドイツの作家ホフマンの「クライスレリアーナ」の一節を引用する。
Ce n’est pas seulement en rêve, et dans le léger délire qui précède le sommeil, c’est encore éveillé, lorsque j’entends de la musique, que je trouve une analogie et une réunion intime entre les couleurs, les sons et les parfums. Il me semble que toutes ces choses ont été engendrées par un même rayon de lumière, et qu’elles doivent se réunir dans un merveilleux concert. L’odeur des soucis bruns et rouges produit surtout un effet magique sur ma personne. Elle me fait tomber dans une profonde rêverie, et j’entends alors comme dans le lointain les sons graves et profonds du hautbois.
それが起こるのは、夢の中だとか、眠りに先立つ軽い錯乱の中だけではない。まだ眼が醒めていて、音楽を耳にしている時にも、そうしたことはある。私は、色と音と香りの間に、一つの類似や内的な合一といったものを見出す。それら全ての物が一筋の光線によって生み出され、一つの素晴らしいコンサートに集められているに違いないと思われる。褐色と赤い色をしたキンセンカの香りが、とりわけ強い魔法の効果を私に与え、私を深い夢想に陥らせる。その時、私には、どこか遠いところで鳴ってくるように、オーボエの低く深い音が聞こえる。

ホフマンが描き出すのは、色と音と香りが互いに対応して一つの全体を形成する、コレスポンダンスの世界。キンセンカの色と香りが、オーボエの音を響かせる。
その世界を生み出したのは、一筋の光線。全体は一つから生まれ、一つが全体と対応する。
ボードレールは初期の段階から最後に至るまで、この世界観から離れることはなかった。
ちなみに、ロベルト・シューマンが1838年に「クライスレリアーナ」に基づいた曲を書き、ショパンに献呈している。
冒頭の二段落 散文の美
ボードレールの詩学において、詩人の中には批評家が必ず内在化している。それと同じように、批評家の中には詩人が同居する。
「1846年のサロン」の冒頭で、ボードレールの考える色とは何かが述べられるが、その散文は詩を思わせる。言い換えると、言葉そのものが色を歌う詩となっている。
ここまで紹介してきた色彩論を頭に入れた上で、ボードレールの言葉に耳を傾けてみよう。
第一段落は、自然の美しい空間を思い描くことから始まる。
その空間が何か想像しながら読んでみよう。
Supposons un bel espace de nature où tout verdoie, rougeoie, poudroie et chatoie en pleine liberté, où toutes choses, diversement colorées suivant leur constitution moléculaire, changées de seconde en seconde par le déplacement de l’ombre et de la lumière, et agitées par le travail intérieur du calorique, se trouvent en perpétuelle vibration, laquelle fait trembler les lignes et complète la loi du mouvement éternel et universel. — Une immensité, bleue quelquefois et verte souvent, s’étend jusqu’aux confins du ciel : c’est la mer.
自然の美しい空間を想像してみよう。全てが完全に自由な状態で、緑になり、赤くなり、粉のようにになり、キラキラ輝く。全てが、分子構造に基づいて様々に色づき、光と影の動きで一瞬毎に姿を変え、熱の内的な働きで動きまわり、絶えず振動し続ける。その振動は、線を震わせ、全てのものの永遠の動きを司る法則を完全なものにする。— 巨大で、時には青く、多くの時は緑で、空の果てまで広がっている。それは、海だ。
海を定義するボードレールのこの素晴らしい散文を、美しい日本語に置き換えることは、残念ながら、私にはできない。
例えば、最初に使われる4つの動詞は、verdoie, rougeoie, poudroie, chatoie。それらは、 [ oi ] の音によって共鳴し、海の沖でさざ波が次々に立ち、ざわめいている様子を連想させる。言葉の選択、音の響き、描かれたイメージの美しさ、それらを感じ取るには、ボードレールの言葉そのものを読むしかない。
ここでは、光と影の動きに従って一瞬毎に色が変化し、物と物と区切る輪郭線が揺らめき、全てが絶えず振動している様が描き出されている。
海は、こうした巨大な宇宙の姿をしている。
Les arbres sont verts, les gazons verts, les mousses vertes ; le vert serpente dans les troncs, les tiges non mûres sont vertes ; le vert est le fond de la nature, parce que le vert se marie facilement à tous les autres tons. Ce qui me frappe d’abord, c’est que partout, — coquelicots dans les gazons, pavots, perroquets, etc., — le rouge chante la gloire du vert ; le noir, — quand il y en a, — zéro solitaire et insignifiant, intercède le secours du bleu ou du rouge. Le bleu, c’est-à-dire le ciel, est coupé de légers flocons blancs ou de masses grises qui trempent heureusement sa morne crudité, — et, comme la vapeur de la saison, — hiver ou été, — baigne, adoucit, ou engloutit les contours, la nature ressemble à un toton qui, mû par une vitesse accélérée, nous apparaît gris, bien qu’il résume en lui toutes les couleurs.
木々は緑色。芝生も緑、苔も緑。緑色が、クネクネと幹の中をうごめく。まだ十分に熟していない枝も緑。緑は自然の土台だ。なぜなら、緑は、全ての他の色調と容易に結びつくから。まず私が驚かされるのは、至る所、— 芝生の中のヒナゲシや、ケシやオウム等々、—で、赤が緑の勝利を歌うこと。黒は、— 黒があればの話だが — 孤独で意味のないゼロの色なのだが、青か赤の救いの仲介をする。青、つまり空は、小さな白い小片とか、灰色の塊で切断され、そのお陰で、青のどんよりとした生硬さが巧みに和らげられる。— 季節 — 冬なのか、夏なのか— の蒸気が、輪郭線を浸し、和らげ、あるいは呑み込んでしまうように、自然は、一つの独楽に似ている。速度を上げて動かされると、その中に全ての色を一括して集め、灰色に見える。
海の次に定義されるのは、緑の自然。
緑が全ての土台となり、補色である赤と結びつく。
黒は、ヨーロッパの色彩論では、色と見なされないことがあった。そのために、ボードレールは、黒をゼロの色と言う。その黒が、青と赤の対立を和らげる。
空の色である青は、それだけでは生硬に感じられるが、白い雲が浮かぶことで、穏やかに感じられる。
ここでは、自然の中の一つ一つのものが他のものから明確に区別されるのではなく、輪郭線が朧気で、自然全体が一つの独楽のようなものとして描かれる。
色彩論では、全ての色を合わせると白くなるとされるが、ボードレールにはそれは灰色に見える。
とにかく、全ての色は一つに統合され、一から全ての色が生まれる。

第2段落では、自然の色について論じながら、最後に、それら全てが「色(couleur)」の定義であることが明かされる。
La séve monte et, mélange de principes, elle s’épanouit en tons mélangés ; les arbres, les rochers, les granits se mirent dans les eaux et y déposent leurs reflets ; tous les objets transparents accrochent au passage lumières et couleurs voisines et lointaines.
樹液が上昇する。樹液は様々な要素が混合したもので、混合したトーンで花開く。木々、岩山、花崗岩が自らを水に映し出し、反射した姿を見せる。あらゆる透明な物が、そこを通りかかると、光と色を手に入れる。類似した光や色も、遠ざかった光や色も。
樹液(séveはsèveの古い綴り)は、自然の生命力を意味する。
それもまた全ての要素(principes)の混ざり合ったものであり、その樹液(生)が全ての源泉となる。
全ては水の上にその姿を映し出す。映すという動詞 mirer は、ミラー(鏡)の語源となる言葉。
人間が物を見る時には、空気という透明なニスを通して見られ、それは鏡に映る像と同じ見え方をする。
つまり、人と物の間の距離によって、見え方は違ってくる。
「色について」の章で、論理的に説明する内容を、冒頭の一節では、絵画的に描いている。
À mesure que l’astre du jour se dérange, les tons changent de valeur, mais, respectant toujours leurs sympathies et leurs haines naturelles, continuent à vivre en harmonie par des concessions réciproques. Les ombres se déplacent lentement, et font fuir devant elles ou éteignent les tons à mesure que la lumière, déplacée elle-même, en veut faire résonner de nouveau. Ceux-ci se renvoient leurs reflets, et, modifiant leurs qualités en les glaçant de qualités transparentes et empruntées, multiplient à l’infini leurs mariages mélodieux et les rendent plus faciles.
太陽が不規則に動く度合いに応じて、色のトーンの色価が変わる。しかし、常に、色のトーン同士の自然な共感や憎しみを尊重し、お互いに譲り合いながら、調和して生き続ける。影がゆっくりと動き、眼の前にある色のトーンを逃亡させるか、消してしまう。その動きは、光が、それ自身で動きながら、再びトーンを共鳴させる度合いと対応している。光の当たる部分のトーンは、反射する姿をお互いに映し合う。そして、トーンの質を、透明で借り物の質で覆いながら変化させ、調和の取れた結合を無限に増やし、その結合をさらに容易にする。
次に、光の源泉である太陽について言及される。
太陽光線は全ての色を含み、それが物に当たると、ある波長の光は吸収され、別の波長の光は反射する。その反射する光が人間の眼に当たり、色として認識される。

そのようにして認識される様々な色には、互いに反発するものもあれば、親和性の高いものもある。
1830年代以降、ミシェル・ウジジェーヌ・シュヴルールが、「隣接した色は互いに影響し変化して見える」という「同時対比の法則」を展開した。
ボードレールもそうした色彩論に従い、色と色の関係を描くのだが、補色など科学的な用語を用いるのではなく、共感(sympathie)とか憎しみ(haine)といった、人間の感情を表す言葉を使う
ボードレールの色彩論において、常に基礎となるのはハーモニー、調和である。
その中で、光と闇の相互的な動きに応じて、色のトーンは変化する。
それらのトーンは空気の透明なニスを通してお互いに影響し合い、調和の取れた結婚(mariages mélodieux)を作り出していく。
Quand le grand foyer descend dans les eaux, de rouges fanfares s’élancent de tous côtés ; une sanglante harmonie éclate à l’horizon, et le vert s’empourpre richement. Mais bientôt de vastes ombres bleues chassent en cadence devant elles la foule des tons orangés et rose tendre qui sont comme l’écho lointain et affaibli de la lumière.
巨大な火の塊である太陽が水の中に沈むと、赤いファンファーレが至るところから飛び出してくる。血色のハーモニーが水平線に輝き、緑がたっぷりと赤く染まる。しかし、すぐに、巨大な青い影が、遠ざかり弱い光のエコーのような橙色と柔らかな薔薇色の塊を、リズミカルに追い払う。
夕方、大きな火の塊(le grand foyer)である太陽が海に沈むとき、空全体が真っ赤に染まる。さらに日が沈むと、青い闇が眼に見える風景全体を覆い始め、まだ残る橙色や薔薇色も徐々に消えていく。
こうした描写からは、ボードレールの眼に映るのが「物の形」ではなく、「色の動き」であることがわかってくる。
Cette grande symphonie du jour, qui est l’éternelle variation de la symphonie d’hier, cette succession de mélodies, où la variété sort toujours de l’infini, cet hymne compliqué s’appelle la couleur.
その日の巨大シンフォニーは、昨日のシンフォニーの永遠のヴァリエーション。この連続するメロディーの中で、ヴァリエーションが常に無限から湧き出ししてくる。この重層的な賛歌が、色と呼ばれる。
ボードレールにとって、「色」とは巨大なシンフォニー。
そして、その中心をなすのが、メロディー。
メロディーが絶えず変奏され、シンフォニーが奏でられる。
ボードレールの色彩論は、同時に音楽論でもあり、色と音の対応。コレスポンダンスの世界が、ここでも描き出されている。

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