
ドゥニ・ディドロは、物質主義的な視点から、絵画を論じた。
物質主義とは、簡潔に言えば、事物が視覚を通して人間に刺激を与え、それが感情、思考、道徳、哲学的な思考等の起源になると考える思想である。
『1767年のサロン』では、ユベール・ロベールの描く廃墟の絵画が取り上げられた。
ディドロによれば、ユベール・ロベールの廃墟には人が多く描かれすぎ、孤独や沈黙が不足していると批判する。
その上で、廃墟が視覚的な刺激によって人間にどのような効果をもたらしうるのかを説明した。


まず知っておきたいことは、1737年以来、サロンはルーブル美術館のサロン・カレで開催されてたこと。
ガブリエル・ジャック・ドゥ・サントーバンが描いた「1867年のサロン、愛好者のキャビネット」が、その様子をリアルに伝えている。

ユベール・ロベールの描く廃墟は、こうした活気のある環境の中で、とりわけ強く時間の破壊作用を感じさせたに違いない。
ディドロは、廃墟の印象として、まず生の虚しさについて語り始める。
Les idées que les ruines réveillent en moi sont grandes. Tout s’anéantit, tout périt, tout passe. Il n’y a que le monde qui reste. Il n’y a que le temps qui dure. Qu’il est vieux ce monde !
廃墟が私の中に引き起こす様々な思考は偉大なものだ。全ては無に帰し、全ては滅び、全ては過ぎ去る。残るのは世界だけ。持続するのは時間だけ。世界は何と古いことか!
ディドロは、ルーブル美術館のサロン・カレにいて、廃墟の絵画を見ている。
その絵画は空想上の映像。しかし現実の廃墟の生々しい物質性を伝えている。従って、虚構の廃墟でありながら、その絵を見る者の中に、様々な思いをかき立てることになる。
ディドロは、そうした思いの中でも、生の儚さに思いを馳せる。
「全ては無に帰し、全ては滅び、全ては過ぎ去る。(Tout s’anéantit, tout périt, tout passe)」
このように、「全て(tout)」を反復し、文体的な効果を強めながら、どんな物もいつかは破壊され、消え去ってしまうと強く印象づける。
ところが、全ては束の間の存在だとしながら、その後、世界(le monde)は残り、時間(le temps)は持続すると続ける。
一見矛盾しているように見えるこの記述は、物質主義哲学の考え方に基づいている。
ディドロは、『ダランベールの夢』の中で、こんな風に記している。
Tous les êtres circulent les uns dans les autres, par conséquent toutes les espèces… tout est un flux perpétuel.
全ての存在はお互いに循環している。その結果、全ての種。。。全ては永遠の流れの中にある。
世界や時間は流動し、常に運動し、流れていく。しかし、それは決して消滅を意味するのではなく、全ては循環している。
こうした巨大な運動の中にあって、人間を見た時には、その生には限りがあり、儚い。一方の端には生があり、他方の端には死がある。
ディドロが、「全ては無に帰し(tout s’anéantit)」と書く時、全てが意味するのは、人間の生に関する全てだと考える必要がある。
世界の循環運動と人間の有限性の対比が、人間の生の儚さをより強く感じさせるのだといえる。
Je marche entre deux extrémités. De quelque part que je jette les yeux, les objets qui m’entourent m’annoncent une fin et me résignent à celle qui m’attend. Qu’est-ce que mon existence éphémère, en comparaison de celle de ce rocher qui s’affaisse, de ce vallon qui se creuse, de cette forêt qui chancelle, de ces masses suspendues au-dessus de ma tête, et qui s’ébranlent ? Je vois le marbre des tombeaux tomber en poussière ; et je ne veux pas mourir ! et j’envie un faible tissu de fibres et de chair, à une loi générale qui s’exécute sur le bronze ! Un torrent entraîne les nations les unes sur les autres au fond d’un abîme commun ; moi, moi seul, je prétends m’arrêter sur le bord et fendre le flot qui coule à mes pieds !
私は二つの極の間を歩いている。どこに目をやろうと、私を取り囲む物たちが、私に終わりを予告し、私を待つものを私に甘受させる。この崩れ落ちる岩、この深く穿たれる谷、この揺らめく森、私の頭上に掛かり、ぐらぐらと揺れるこれらの塊と比べると、私の儚い存在とは一体何なのだろうか? 私には、墓の大理石が埃になるのが見える。死にたくない! ブロンズの上で遂行される一般的な法則に比して、神経と肉でできた弱々しい織物がうらめしい! 濁流が数々の民族を次々に、一つの共通の深淵の底へと連れ去っていく。私、私一人が、深淵の縁で立ち止まり、足元を流れる波をかき分けると言い張っている!
ディドロが目にしている岩、谷、森、建物の塊、ブロンズ像も、いつかは埃となって消え去ってしまうだろう。
しかし、人間は、それら以上に早い速度で、生を終える。
誕生と死という二つの極の間をあっという間に歩き抜ける。そうした生の儚さを甘受するしかない。
その人間の弱さや儚さを、ディドロは、「神経と肉でできた弱々しい織物(un faible tissu de fibres et de chair)」と表現する。
世界はゆっくりと変動し、人間の時間は疾走する。
そうした対比を確認しながら、ディドロは、「死にたくない!(je ne veux pas mourir !)」と叫び声を上げる。
そこでは、生の儚さという哲学的な思考が、抒情的な感情を引き起こす様子を、見てとることが出来る。
そして、その感情的な表現が、思考の新しい展開を生み出す。
Si le lieu d’une ruine est périlleux, je frémis. Si je m’y promets le secret et la sécurité, je suis plus libre, plus seul, plus à moi, plus près de moi. C’est là que j’appelle mon ami. C’est là que je regrette mon amie. C’est là que nous jouissons de nous, sans trouble, sans témoins, sans importuns, sans jaloux. C’est là que je sonde mon cœur. C’est là que j’interroge le sien, que je m’alarme et me rassure. De ce lieu, jusqu’aux habitants des villes, jusqu’aux demeures du tumulte, au séjour de l’intérêt, des passions, des vices, des crimes, des préjugés, des erreurs, il y a loin.
廃墟の場所が危険であれば、私は身を震わす。そこで秘密や安全を自分に約束できれば、私はもっと自由になり、もっと一人になり、もっと自分に属し、もっと自分自身に近くなる。そこでこそ、私は友に呼びかける。そこでこそ、愛する人を懐かしく思う。そこでこそ、私たちは自分たちを享受する。混乱もなく、証人も邪魔者もなく、嫉妬もなく。そこでこそ、自分の心の奥を探る。そこでこそ、彼女の心に問いかけ、用心し、安心する。その地から、都市の人々まで、喧噪の住まいまで、利益や情念や悪徳や罪や偏見や過ちの場所までは、遠い。
廃墟が最初に思わせるのは、時間による破壊作用。とりわけ、人間の生は儚い。だからこそ、時間の流れから抜け出したいと願う。
この一節では、「そこでこそ(C’est là que)」という表現の反復が生み出す抒情的な感情によって、思考が内面世界に集中していく。
そこ、つまり、廃墟の中でこそ、友や愛する人と語り合い、邪魔なければ嫉妬もない。
そこは現実から隔離され、悪は存在しない。
このようにして、ディドロの内面に描かれる廃墟が、幸福と美徳の場所となる。
ディドロは若い頃に、イギリスの哲学者シャフツベリー(1671-1713)の『長所と美徳に関する考察』を翻訳を通して、美徳とは宗教によって教えらるのではなく、人間にとって自然なものであるという思想を学んでいた。
そして、そうした美徳は、様々な熱狂や感動と密接に関係し、それらによって生み出されると考えた。
ユベール・ロベールの廃墟を論じるこの一文でも、廃墟という物質的なものが視覚を通してディドロの内面に働きかけ、そこで生まれた感動が美徳の感情をかき立てる過程が描かれている。

ディドロにとって、絵画は単なる視覚的な表現というだけではなく、思考、感情、幸福感、道徳感をかき立てる芸術となる。
時間の流れが全てを押し流し、全てを崩壊させてしまう。廃墟はそうした物質的な現象を強く感じさせるが、視覚を通して人間により大きな働きかけをする。
唯物論的な視点に立つと、原理的な物質が様々に結合し、生成から消滅へ、そして再生へと、大きな循環を繰り返す。
それに対して、人間の生は束の間に過ぎ去り、短く儚い。
そのために、大きな循環の中にある廃墟を目にすることで、人間はますます生の無情を感じる。
廃墟を前にして、ディドロが最初に抱くのは、こうした時間に関する哲学的思想だった。
次に、その虚無感が一気に転換し、廃墟は自由の場所となり、幸福感をもたらっすことになる。
そこでは他者や社会が存在せず、自分が本来の自分のままでいることができる。愛する人たちと交歓し、全てを心のままに享受することができる。
情念や悪徳から遠く離れ、美徳と道徳が支配する場所と感じられる。
そこで感じる至福感を、ディドロは、感嘆を込めて抒情的に表現した。
こうした考察を通して、ユベール・ロベールの廃墟するディドロの美術評論が、物質から精神へと繋がる唯物論的思想を反映していることを、理解することができる。