ランボー 「別れ」 Rimbaud « Adieu » もう秋だ!

『地獄の季節(Une Saison en enfer)』の最後に置かれた「別れ(Adieu)」は、ランボーの綴った散文詩の中で最も美しいものの一つ。
スタイリッシュな冒頭の一言だけで、ランボーらしい歯切れのよさと、思い切りがある。

L’automne déjà !

「もう秋だ!」
こんな一言だけで、読者を詩の世界に引き込む。
そして、こう続ける。

— Mais pourquoi regretter un éternel soleil, si nous sommes engagés à la découverte de la clarté divine, — loin des gens qui meurent sur les saisons.

— だが、なぜ永遠の太陽を惜しむというのか。俺たちは神聖な光の発見へと乗り出しているんだ、— 四季の流れに沿って死にゆく奴らから遠く離れて。

季節は移り変わっていく。人々は時間の流れに乗り、生から死へと否応なく向かう。
ランボーは、しかし、時間の流れる世界を離れ、永遠の世界を輝かす神聖な光の発見へと乗り出している。
としたら、秋になり、この世で永遠だと思われている太陽が失われるとしても、惜しむ必要はない。

ボードレールは「秋の歌(Chant d’automne)」の冒頭で、こう歌った。

Bientôt nous plongerons dans les froides ténèbres ;
Adieu, vive clarté de nos étés trop courts !

もうすぐ私たちは冷たい闇に沈むことになる。
さようなら、短すぎた夏の激しい光よ。
https://bohemegalante.com/2019/10/03/baudelaire-chant-dautomne/

ボードレールは、秋を予感して、夏の激しい光との別れを惜しむ。
しかし、ランボーは、秋が来ても、何も惜しみはしない。
そして、「もう秋だ!」と言い放ち、ボードレールとは違う道を歩む宣言をしているのかもしれない。

 L’automne. Notre barque élevée dans les brumes immobiles tourne vers le port de la misère, la cité énorme au ciel taché de feu et de boue. Ah ! les haillons pourris, le pain trempé de pluie, l’ivresse, les mille amours qui m’ont crucifié ! Elle ne finira donc point cette goule reine de millions d’âmes et de corps morts et qui seront jugés ! Je me revois la peau rongée par la boue et la peste, des vers plein les cheveux et les aisselles et encore de plus gros vers dans le cœur, étendu parmi les inconnus sans âge, sans sentiment… J’aurais pu y mourir… L’affreuse évocation ! J’exècre la misère.

 秋。俺たちの小船は、不動の霞の中に引き上げられ、旋回していく。悲惨の港、炎と泥で汚れた空に浮かぶ巨大な街に向かって。ああ! 腐った服のぼろ切れ、雨に濡れたパン、酩酊、俺を磔にした幾千もの愛欲ども! 死体を貪る魔女は、決して止めることはないだろう。そいつは、死後に裁き待つ魂と肉体を支配する女王だ! 俺の目にはまた自分の姿が見えてくる。皮膚は泥とペストに冒され、髪と腋はウジ虫だらけ。心の中にはもっと大きなウジ虫だ。心が横たわるのは、年齢も感情もない、見知らぬ奴らの間・・・。俺はあそこで死んでいたかもしれない・・・。ぞっとする思い出だ! 俺は悲惨が大嫌いなんだ。

ランボーの言葉は疾走する。
現実には、金も服も食べ物も住む処もなく、悲惨な生活をしている。
服はボロボロ、雨に打たれ、酒に溺れる日々。体中泥だらけで、ウジ虫に食われている。
そんな状況を、ランボーは、悲惨の港(le port de la misère)と名付け、そして最後には、悲惨は大嫌いだ(j’exécre la misère)と叫ぶ。

しかし、そこから逃れることはできない。
彼が同伴者(ヴェルレーヌ?)といる状況は、「私たちの小船(notre barque)」と呼ばれるが、その船は「不動の霧(brumes immobiles)」に包まれて自由がきかず、否応なく悲惨の港に向かうしかない。

そうした悲惨な状況を、墓の中で死体を貪り喰う「魔女(goule)」によって支配されているようだと感じる。
その魔女は、死後に最後の審判を受けるのを待つ死者たちのいる煉獄(purgatoire)の女王であり、ランボーも死者たちの一人になるところだった。

このように、彼の想像力は、悲惨な放浪生活を煉獄に変え、次々に悲惨なイメージを言葉にして紡ぎ出す。

Et je redoute l’hiver parce que c’est la saison du comfort !

ところで、俺は冬が怖い。なぜって、冬は安楽の季節なんだ!

ランボーは、秋の「悲惨(misère)」は嫌いだと言いながら、冬は「安楽(comfort)」な季節だから怖いのだと言う。
いかにもランボーらしい矛盾。

彼の詩の世界では、しかし、その矛盾が読者の興味を引き、魅力となる。
悲惨は嫌い。安楽は怖い。じゃ、どうするんだ!と、思わず突っ込んでしまう。
すると、いつの間にかランボーの魔術にかかっている自分がいる。

— Quelquefois je vois au ciel des plages sans fin couvertes de blanches nations en joie. Un grand vaisseau d’or, au-dessus de moi, agite ses pavillons multicolores sous les brises du matin. J’ai créé toutes les fêtes, tous les triomphes, tous les drames. J’ai essayé d’inventer de nouvelles fleurs, de nouveaux astres, de nouvelles chairs, de nouvelles langues. J’ai cru acquérir des pouvoirs surnaturels. Eh bien ! je dois enterrer mon imagination et mes souvenirs ! Une belle gloire d’artiste et de conteur emportée !

— 時として、天空に、無限に広がる浜辺が見える。喜びに沸く白い民族で埋め尽くされた浜辺。黄金の大きな船が、俺の頭の上で、朝のそよ風に吹かれ、多色の旗をはためかせている。俺が作ったんだ、全ての祭りを、全ての勝利を、全ての芝居を。俺が発明しようとしたんだ、新しい花を、新しい星々を、新しい肉体を、新しい言語を。俺は手に入れたと思った、超自然な力を。なんてこった! 俺は自分の想像力と思い出を埋葬しなければならない。芸術家としての、物語を語る者としての素晴らしい栄光は、どこかに持ち去られてしまった!

冬が怖いと言った後、読者はその理由や、次の展開を知りたいと思う。しかし、ランボーはそんなことは無視して、全く違う話を始める。

こうした論理性や脈絡のなさもランボー的であり、伝統的な詩や物語の手法と断絶したものといえる。
語りが一貫性を失い、断片化する。
そして、断片と断片のつながりの自由さが、作品の自由さとなり、豊かさを増す。

時としてランボーの目に見えるのは、空に広がる「無限の海岸(plages sans fin)」と「黄金の大きな船(un grand vaisseau d’or)」。
もう、「不動の霧の中に引き上げられた小舟(barque élevée dans les brumes immobiles)」ではない。

この光景が目に入る時、詩人は、全てが彼の創造物だと思い込む。彼が全てを作り、発明したのだと。
その際には、「全て(tout)」と「新しい(nouveau)」という言葉が鍵となり、「超自然な力(pouvoirs surnaturels)」によって、全てが新しい世界を創造したのだと言う。

しかし、「なんてこった!(Eh bien ! )」という言葉で、事態は一変する。
それまで複合過去形で語られてきたことは、すでに完了したこと。それ以降は現在となる。
こう言ってよければ、詩人は天空から地上に引き戻される。

全てを生み出してきた「想像力(imagination)」と「思い出(souvenirs)」は埋葬しなければならない。
ちなみに、この二つの機能は、ボードレールにおける創造の中心的な原理だった。

そして、それらを埋葬してしまえば、彼は「芸術家(artiste)」でも、「物語を語る者(conteur)」でもなくなる。つまり創造者ではないことになる。

 Moi ! moi qui me suis dit mage ou ange, dispensé de toute morale, je suis rendu au sol, avec un devoir à chercher, et la réalité rugueuse à étreindre ! Paysan !
 Suis-je trompé ? la charité serait-elle sœur de la mort, pour moi ?
 Enfin, je demanderai pardon pour m’être nourri de mensonge. Et allons.
 Mais pas une main amie ! et où puiser le secours ?

 この俺がだ! 自分のことを魔術師とか天使だとか言い、あらゆる道徳から解放されたはずのこの俺が、地上に戻される。義務を探し、ゴツゴツとした現実を抱きしめて! 百姓だ!
 騙されているのだろうか? 哀れみは死の姉妹なのだろうか、俺にとって? 
 最後になれば、俺は許しを請うだろう。それまで偽りで身を養ってきたんだから。さて、行くとしよう。
 でも、友愛の手はない。としたら、どこに救済を求めるのか?

空を見上げ、自らを全ての創造主だと空想した後、再び地上に目をやると、以前とは変わらない現実が以前と同じ様相で目に入る。
義務をこなし、厳しい現実を生きなければならない。

そして、地上に戻ると、哀れみ、死、許し、偽り、救済、等々、宗教的な思いが次々に浮かんでは消える。
その思いは、一貫性を持った論理に従って思考されるのではなく、断片的に、思いついたままに連ねられる。
そして、最後にこんな思いにとらわれる。「友愛の手(main amie)」はない。としたら、どこに「救済(secours)」を求めるのか? 

次の新しい展開に入る直前、横線が引かれ、思考の流れの断絶が示される。
その後、新しい時間が始まる。

   —————————————

 Oui l’heure nouvelle est au moins très sévère.
 Car je puis dire que la victoire m’est acquise : les grincements de dents, les sifflements de feu, les soupirs empestés se modèrent. Tous les souvenirs immondes s’effacent. Mes derniers regrets détalent, — des jalousies pour les mendiants, les brigands, les amis de la mort, les arriérés de toutes sortes. — Damnés, si je me vengeais !

  —————————————
 
 そうだとも。新しい時間は、少なくとも、非常に厳しいものだ。
 なぜって、勝利は俺のものだと言えるからだ。歯ぎしり、炎のうなる音、悪臭のするため息は、穏やかになりつつある。不純な思い出は全て消えつつある。俺の最後の未練が、逃げ去っていく。— その未練とは、乞食、強盗、死の愛好者、全ての種類の落伍者どもへの嫉妬だ。— みんな地獄落ちだ、俺が復讐すれば!

新しい時(l’heure nouvelle)は、勝利(victoire)が得られる時だ。
その時、古い現実を満たしていたあらゆるもの— 「歯ぎしり(grincements de dent)」から「嫉妬(jalousies)」まで ー は「穏やかになり(se modérer)」、「消え(s’effacer)」、「逃げ去る(détaler)」。
それらは地獄落ちを宣告される。ただし、詩人が復讐をすれば、という条件がつけられている。

詩人は、こうした新しい時を、ひどく厳しいものだと言う。

Il faut être absolument moderne.

絶対的に現代的でなければならない。

「現代的(moderne)」とは、前の節で言われた「新しい時(l’heure nouvelle)」だと考えることができる。

古い時、古い現実では、地上は過酷である一方、空には黄金の船が見えた。そこにあるのは、現実と空想とが峻別される二元論的な世界。

それに対して、新しい時では、現実が詩人の思いによって動かされる。あたかも、彼が全てを断罪できるようにさえ感じられる。
こう言ってよければ、そこにあるのは、現実と非現実が一つになった一元論的世界。
そして、それが「現代的」の意味するところだろう。

 Point de cantiques : tenir le pas gagné. Dure nuit ! le sang séché fume sur ma face, et je n’ai rien derrière moi, que cet horrible arbrisseau !… Le combat spirituel est aussi brutal que la bataille d’hommes ; mais la vision de la justice est le plaisir de Dieu seul.

 雅歌はない。獲得した歩みを保つこと。辛い夜だ! 乾いた血が俺の顔面で煙を立てている。俺の背後には何もない。恐ろしい小さな木以外は!・・・ 精神の戦いは肉弾戦と同じほど激しい。だが、審判を思い描くことは、神のみの喜びだ。

聖書の「雅歌(cantiques)」、「獲得した歩み(pas gagné)」、「辛い夜(dure nuit)」、それらに明確なつながりはない。
それ以降も、短い文が次々に吐き出され、論理ではなく、言葉の勢いが、読者を前に引きずっていく。

そうした中、雅歌から始まり「神のみ(Dieu seul)」で終わることで、キリスト教の精神性が全体を覆っていることが見えてくる。
「恐ろしい小さな木(horrible arbrisseau)」は、エデンの園の知恵と生命の木を連想させる。
戦いは「精神的(spirituel)」なもので、「審判(justice)」は、最後の審判を思わせる。

では、戦うのは、誰なのか?
登場人物は二人しかいない。「俺(je)」と神。
神の世界は人間の世界と峻別される。従って、キリスト教は二元論的な世界。
俺はその支配に対抗し、「精神的な戦い(combat spirituel)」を挑む。俺の世界は、精神と肉体が一体化している一元論的世界。
そこで繰り広げられるのは、古い時と新しい時との戦いだと考えられる。

 Cependant c’est la veille. Recevons tous les influx de vigueur et de tendresse réelle. Et à l’aurore, armés d’une ardente patience, nous entrerons aux splendides villes.

 しかし、まだ前夜。今は、精気と現実の優しさが流れ込んでくるのを全て受け入れておこう。そして、曙になった時、俺たちは、燃えるような忍耐という武器を持ち、輝く町へと入っていくのだ。

詩人は、戦いの前夜、精気と優しさを吸い込む。
そして、戦さに際しては、一人ではなく、小舟に乗船する同伴者のことも頭に入れ、「俺たち(nous)」で、戦いに向かうのだと考える。
その時の武器は、「忍耐(patience)」。

 Que parlais-je de main amie ! Un bel avantage, c’est que je puis rire des vieilles amours mensongères, et frapper de honte ces couples menteurs, — j’ai vu l’enfer des femmes là-bas ; — et il me sera loisible de posséder la vérité dans une âme et un corps.

avril – août 1873

俺は、友愛の手という言葉で、前に何と言ったのだったろう! 勝ち目が多くあるとしたら、俺が、古びた偽りを愛を笑いものにできることだ。ここにいる嘘つき夫婦たちを恥ずかしさで打ちのめしてやれることだ。— 俺は、あちらで、女たちの地獄を見たことがあった。— 俺にはいつか許されるだろう、「一つの魂と一つの肉体の中で真実を手にすることが」。

                   1873年 4月—8月

「友愛の手(main)」という言葉を使った時、詩人は、救済をどこに求めればいいのかと自問したのだった。
ここでランボーは、彼の戦いが救済のためであることを、読者に思い出すように促している。

その戦さで優位に立てるとしたら、相手が嘘つきであること。
「愛も偽り(amours mensongères)」だし、「夫婦も嘘つき(couples menteurs)」。
しかも、愛は、「古い(vieilles)」と特定される。

「絶対的に現代的でなければならない。」と断定した「俺(je)」が戦うのは、古い時代のもの。
しかも、「あちら(là-bas)」、つまり古い時代の置かれた場所は、「女達の地獄(enfer des femmes)」だった。
そう書くとき、ランボーの頭には、地上と切り離された場所として、地獄の他に、天国が浮かんでいたのではないか。そこにいるのは神。
そのように考えると、死後に煉獄で最後の審判を待つ「幾千もの魂と肉体(millions d’âmes et de corps)」を「支配する魔女(goule reine)」とは、実は神を暗示していたのだとも考えられる。

こうしたことを総合して考えると、神あるいは魔女との戦いは、人間の世界の他にもう一つの世界があるとする、古い考え方との戦いではないだろうか。

ランボーは、その戦いの結果に楽観的であるように見える。
彼は、「真実(la vérité)」を、「一つの魂と一つの肉体(une âme et un corps)」の中に獲得できることが「許されるだろう(il me sera loisible)」という見通しを立て、『地獄の季節』の最後に置かれた「別れ」を終える。

ランボーの世界観の中では、魂と肉体は別々のように見えながらも一体であり、そこに真実がある。
別の言葉で言えば、「永遠の太陽(un éternel soleil)」も、「神聖な光(la clarté divine)」も、彼方ではなく、今ここにある。
だからこそ、秋になり、灼熱の夏が遠ざかっても、永遠の太陽を懐かしむことはない。
L’automne déjà ! – Mais pourquoi regretter un éternel soleil […].

最後に、レオ・フェレの歌で、« Adieu »を聞いてみよう。