モリエール 人間嫌い Molière Le Misantrope 17世紀後半の二つの感受性 オロントのソネットと古いシャンソン

「人間嫌い(Le Misantrope)」の中で、オロントが自作のソネットを読み、アルセストとフィラントに率直な意見を求める場面がある。(第1幕、第2場)

この芝居が上演された17世紀後半は、人と合わせることが礼儀正しさと見なされ、相手に気に入られるように話すことが、宮廷社会に相応しい行動だった。

フィラントは、そうした「外見の文化」の規範に従い、ソネットを誉める。

その反対に、アルセストは、心にもないことを言うのは偽善だと考え、思ったことを率直に伝えるのが正しい行為だと考えている。
そこで、オロントに意見を求められた時、最初は遠回しな言い方をするが、最後には直接ソネットは駄作だと貶してしまう。
https://bohemegalante.com/2020/10/11/moliere-misantrope-sonnet-oronte/

その際に比較の対象として、古いシャンソン「王様が私にくれたとしても(Si le roi m’avait donné)」を取り上げ、その理由を説明する。
その時の詩とシャンソンに関するアルセストの批評から、私たちは、17世紀後半における2つの感受性を知ることができる。

オロントは何がなんでも誉められたくて、アルセストに意見を迫る。
最初は他の人の詩について批評した意見として、ソネットの批評をしていたアルセストも、最後にはとうとう実際にオロントの詩句を取り上げ、批判してしまう。

Alceste
Franchement, il est bon à mettre au cabinet.
Vous vous êtes réglé sur de méchants modèles,
Et vos expressions ne sont point naturelles.

  Qu’est-ce que Nous berce un temps notre ennui
  Et que, Rien ne marche après lui ? 
  Que, Ne vous pas mettre en dépense
  Pour ne me donner que l’espoir ? 
  Et que, Philis, on désespère,
  Alors qu’on espère toujours ? 

Ce style figuré, dont on fait vanité,
Sort du bon caractère et de la vérité ;
Ce n’est que jeu de mots, qu’affectation pure,
Et ce n’est point ainsi que parle la nature.
Le méchant goût du siècle en cela me fait peur ;

アルセスト
率直に言えば、それは机の中に入れた方がいいものです。
あなたは、つまらない手本に倣っていたのです。
表現が自然ではありません。

「私たちの倦怠を和らげる」って、何でしょう?
「何も希望の後に続かなければ」って?
「心を砕いてくださらなくてもよかったのです。
  私に下さるのが、希望だけならば」って?
「美しいフィリスよ、人は絶望します、
  常に希望する時にこそ」って?

この文彩を施された文体を、大変に自慢していらっしゃいましたが、
そんなものは、よき性質と真実の外に出てしまうものです。
ただの言葉遊び、気取りそのものです。
こんな風に、自然は話しません。
今の時代の悪い趣味を、私は恐ろしく感じます。

アルセストは、ソネットの14行の詩句の中から6行をそのまま反復し、批判を加える。

1)あまりにも「文彩が施されている(figuré)」ので、「質のいいもの(bon caractère)」ではなくなり、真実(vérité)の外に出てしてしまっている。
2)単なる「言葉遊び(jeu de mots)」にすぎず、「全くのわざとらしさ、気取り(affectation pure)」でしかない。
3)「自然(nature)」は、こんな話し方をしない。

Abraham Bosse, Conversation de dames en l’absence de leurs maris

これらの批評は、宮廷社会のあり方そのものを批判していると見なすことができる。
貴族達は着飾り、お互いに牽制し合い、外見を取り繕うことで、自分に有利な状況を作り出そうとする。
そうした中で、会話術、社交術を最大限に発揮しなれば、生き抜いていくことはできない。

アルセストにとって、そうした社会のあり方は、「自然」の対極にある。
その思想の根底にあるのは、自然と文明の対比。
17世紀フランスの宮廷社会は、高度に「文明化(civilisé)」された社会であり、それは「進歩」の結果だと見なされた。
人間が自然を支配することで文明は進歩し、人間の幸福に繋がるという思想に基づいている。

モリエールは、アルセストを通して、「文明化」に反対する視点を示し、文明化された社会は自然さを欠き、真実から遠ざかってしまっているという文明批判を行う。
その思想は、100年後のジャン・ジャック・ルソーの文明批判に繋がっていく。

文明vs自然の議論がとりわけ興味深いのは、中庸を無視して過激に走る奇妙な人物であるアルセストの口を通して、文明批判、自然賛美が行われていることである。
「私は噓つきだ」と言う嘘つきは、嘘つきなのか、噓つきではないのか、といった複雑な議論と同じことを、モリエールはここで行っている。
17世紀の観客にとって決して好ましくない人物の意見は、正当なものなのか、意味のないものなのか?
当時、「自然らしさ(naturel)」が価値を持つようになった時代だった。
としたら、アルセストの主張を、どのように捉えるべきなのか?
そして、モリエールは文明か自然か、どちらの立場に立っているのか?
複雑な問題。。。。

とにかく、アルセストは、「外見の文化」の風俗を悪趣味であり、恐ろしく感じると言う。その後になると、古いシャンソンの歌詞を取り上げ、賞賛する。

Nos pères, tout grossiers, l’avaient beaucoup meilleur, 
Et je prise bien moins tout ce que l’on admire,
Qu’une vieille chanson que je m’en vais vous dire.

  Si le roi m’avait donné
  Paris, sa grand’ville,
  Et qu’il me fallût quitter

  L’amour de ma mie,
  Je dirais au roi Henri :
  Reprenez votre Paris ;
  J’aime mieux ma mie, ô gué
  J’aime mieux ma mie.

La rime n’est pas riche, et le style en est vieux :
Mais ne voyez-vous pas que cela vaut bien mieux
Que ces colifichets dont le bon sens murmure,
Et que la passion parle là toute pure ?

  Si le roi m’avait donné
  Paris, sa grand’ville,
  Et qu’il me fallût quitter…
  L’amour de ma mie,
  Je dirais au roi Henri :
  Reprenez votre Paris,
  J’aime mieux ma mie, o gué !
  J’aime mieux ma mie. 


Voilà ce que peut dire un cœur vraiment épris.
(À Philinte, qui rit.)
Oui, monsieur le rieur, malgré vos beaux esprits,
J’estime plus cela que la pompe fleurie
De tous ces faux brillants où chacun se récrie.

私たちの祖先は、とても粗野でしたが、もっとずっといい趣味をしていました。
私は、私が価値を置くのは、今みんなが賞賛しているものよりも、
一つの古いシャンソンです。それはこんなです。

  王様がぼくにくれたとしても、
  パリを、王様の偉大な町を、
  もしぼくが捨てないといけなかったなら、
  愛しい子の愛を、
  アンリ王にこう言うだろう、
  あなた様のパリはご自分でお取りください。
  ぼくは愛しい子の方が好き、ああ、嬉し、
  ぼくは愛しい子の方が好き。

韻をたっぷりとは踏んでいないし、文体も古い。
でも、わかりますか、こっちの方がいいんです、
ガラクタよりも。良識が口ずさみ、
全く生のままで、情念が口にするガラクタよりも。

  王様がぼくにくれたとしても、
  パリを、王様の偉大な町を、
  もしぼくが捨てないといけなかったなら、
  愛しい子の愛を、
  アンリ王にこう言うだろう、
  あなた様のパリはご自分でお取りください。
  ぼくは愛しい子の方が好き、ああ、嬉し、
  ぼくは愛しい子の方が好き。

こういうのが、本当に夢中になった心の言うことなんです。
(ニヤニヤしているフィラントに向かって。)
おい、そこでニヤニヤしている君、君の美しい精神に反して、
ぼくはこっちの方が好きなんだ、それぞれの光り物が大きな声を上げる、
全てが偽物の光り物の咲き誇る豪華さよりも。

アルセストは、二度、「王様がぼくにくれたとしても(Si le roi m’avait donné)」の歌詞全体を口にする。
16世紀に作曲されたと言われているこのシャンソンを、ジョルジュ・ブラサンスの歌で聞いてみよう。

アルセストは、このシャンソンはしっかりと韻を踏んでいず、古くさい言い回しだけれど、気取った詩よりも好きだという。
こうしたシャンソンを作った昔の人たちは「粗野(grossier)」だったかもしれないが、気取った人たちよりも「ずっといい趣味をしていた(l'(le goût) avaient beaucoup meilleur)」というのが、その理由。

オロントのソネットに代表される詩を作り出すのは、アルセストによれば、「良識(bon sens)」と「情念(passion)」。
「良識」は、17世紀前半に、デカルトによって、全ての人間が持つ普遍的なものされ、「理性(raison)」と言い換えることができる。
恋愛は人間を迷わせる「情念」であり、理性によってコントロールする必要がある。
そこで、良識が「つぶやき(murmurer)」、「完全に生の(toute pure)」情念が「語る(parler)」詩句は、真実の感情を表現せず、技巧に富んだものとなり、「ガラクタ(colifichets)」にすぎない。

そうして作られた詩句は、「偽物の光り物(faux brillants)」(言葉)が、それぞれ「大きな声を上げ(se récrier)」、「豪華(pompe)」に見えるだけのものにすぎない。
こうした豪華さは、宮廷社会を暗示していると考えていいかもしれない。

以上のように、アルセストは、オロントの詩句と古いシャンソンの歌詞を具体的に引用し、それぞれに論評を加えることで、二つの価値観、二つの感受性、二つの美学を対照的に示している。

当時、時代精神は、「自然さ」へと傾いていた。
1690年代には、シャルル・ペローが、「赤ずきんちゃん」「眠れる森の美女」「親指小僧」等の話を、「過ぎし時代の物語あるいは小話(Histoires ou Contes du temps passé)」という題名の下で出版し、人気を博した。
その語り口の素朴さは、1660年代から出版されてきたラ・フォンテーヌの「寓話(Les Fables)」の韻文と比べると、際だっている。

そうした時代に、「人間嫌い」の作者モリエールが、どちらの視点を擁護したのかは、繰り返しになるが、判断するのが難しい。なぜなら、アルセストは決して当時の社会で受け入れられる人物像ではなかったからだ。

実際の舞台で上演されていた芝居で、この場面を見てみよう。(6分50秒から)

「人間嫌い」の初演は、1666年。
この芝居の副題に「恋する憂鬱症の男(l’Atrabilaire amoureux)」とあり、アルセストの主張は、過激であるために笑いの対象とされた。
しかし、18世紀の後半になると、ルソーのように、アルセストの誠実さを評価し、それを笑いものにした作者のモリエールを非難する思想家も出現する。

過去の時代の文学作品に接する時には、ただ単に自分たちの感受性に従って判断するのではなく、時代背景や、感受性や思想の変化を理解することで、より幅広い視野から判断できるようになる。
現代でも「人間嫌い」がしばしば上演されるのは、そうした多様な視点を反映し、それを演出に活かすことが可能な芝居だからだろう。

私たちも、アルセストの姿を通して、モリエールの芝居が多様な視点を持っていることを知ることができ、その上で、自分なりの「人間嫌い」観を持つことが出来る。文学作品を読む楽しさの一つがそこにある。

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