徒然草とベルクソンの時間論 あはれの美と持続 beauté japonaise et durée bergsonienne  

『徒然草』の中で、兼好法師は、無常観に基づいた日本的美について何度か筆を走らせている。

世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋はるあきを知らぬもあるぞかし。(第7段)

折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。(第19段)

花は盛りに、月はくまなきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛ゆくへ知らぬも、なほ、あはれに情け深し。(第137段)

移りゆくもの、儚く消え去るもの、春の桜、暮れゆく秋などに、日本的感性は美を見出す。
そうした感性は、永遠に続く理想の美を追究するヨーロッパ的な美意識とは対極を成している。
なぜ日本的美意識は、これほどまでに儚く淡いものに強く反応するのだろうか。別の視点から言えば、消え去ることに本当に価値を置いているのだろうか。

アンリ・ベルクソンが提示した「持続(durée)」という時間意識は、その問いに答えるためのヒントを与えてくれる。

「持続」に関するベルクソンの説明を理解する補助として、点と線について考えてみよう。

点を繋げると線になるだろうか?
非常に小さな点を密接に繋げると、一見線になるように見える。しかし、どんなに点を細かくし、繋がりを密にしても、どこかに切れ目がある。
人間の目には線のように見えても、決して線にはならない。
デジタルとアナログの違いと考えてもいい。

時間について考えると、時計によって測定される時間は数字で示され、時間の流れは「点」の連続として理解される。
その場合、どんなに単位を小さくしても、一瞬毎の間には切れ目があることになる。

そのような時間は、人間が生きる時間ではありえない。生命は途切れることなく連続しているのだから。従って、人間の生きる時間は「線」と考えることが必要になる。それは流れ、持続する。

「今」という時を考えてみよう。
時間を点の連続と考えた場合、私たちは「今」を決して捉えることができない。「今」と言った途端に、それはすでに過去になっている。
時間を線として考えた場合には、「今」をいつからいつまでと区切ることはできない。私たちはその時間をアバウトに「今」と捉えるだけで、かなり漠然としている。

伝統的な考え方では、時間は常に点の連続として考えられ、過去/現在/未来の区切りも明確であるとされてきた。
ベルクソンは、そうした時間概念に疑問を呈し、時間を線として捉える考え方を提示したのだと考えることができる。

『形而上学入門』には、「持続」について次の様な一節がある。

 Pourtant il n’y a pas d’état d’âme, si simple soit-il, qui ne change à tout instant, puisqu’il n’y a pas de conscience sans mémoire, pas de continuation d’un état sans l’addition, au sentiment présent, du souvenir des moments passés. En cela consiste la durée.

 魂の状態がどんなに単一なものであろうと、あらゆる瞬間に変化しないものはない。なぜなら、記憶のない意識はなく、現在の感情に過去の瞬間の思い出を付加しない状態の継続はないからである。そのことから成り立っているのが、持続である。

持続は、魂の状態であり、それは常に変化するとベルクソンは言う。

その変化を意識するためには、記憶が作用することになる。もし記憶がなければ、瞬間が連続するだけで、点が続くだけになる。記憶があることで、点と点が繋がり、流れになる。

そのように考えると、現在の中に必ず過去が流れ込んでいることになる。別の言い方をすれば、時間の「持続」を意識する場合、現在の中に必ず過去が意識されていることになる。

La durée intérieure est la vie continue d’une mémoire qui prolonge le passé dans le présent, soit que le présent renferme distinctement l’image sans cesse grandissante du passé, soit plutôt qu’il témoigne, par son continuel changement de qualité, de la charge toujours plus lourde qu’on traîne derrière soi à mesure qu’on vieillit davantage. Sans cette survivance du passé dans le présent, il n’y aurait pas de durée, mais seulement de l’instantanéité.

内的な持続とは、記憶が継続的に生命を保っている状態である。記憶は、現在の中に過去を引き伸ばしている。過去の増大し続けるイメージを、現在が個別的に含んでいるともいえる。あるいはむしろ、人が年老いていくにつれ、自己の後ろに引きずることで重くなり続ける負荷を、質の継続的な変化によって、現在が証明しているともいえる。現在の中に過去が生き続けることなしには、いかなる持続もない。あるとしたら、瞬間性だけだ。

記憶の役割は、現在の中に過去を引き伸ばし含み込ませること。
その際に、二つの考え方がある。
1)現在は、増え続ける過去のイメージを、個々に区別して保つ。
つまり、過去の思い出が増えていくことで、時間の流れが意識される。
2)現在が質的に変化することで、過去が増え続けることを証明する。
この場合には、過去のイメージの数が多くのなるのではなく、現在の質が変化することで、時間の流れを証明する。

過去の思い出の数が増えるにしろ、現在の質的な変化が意識されるにしろ、時間の運動=生命の流れという視点で見たとき、現在の中には過去が含まれる。
もし過去の意識がなければ、現在は単に瞬間として意識されるだけになってしまう。

こうしたベルクソンの「持続」についての考察は、時間の流れに美を感じる日本的な感性と対応していると考えられないだろうか。

儚く消え去るものに対する愛は、時間の流れを意識することにつながる。
不動だけではなく、瞬間にも動きはない。

「世は定めなきこそいみじけれ。」
この無常観は、時間が過ぎ去ることを強く意識させる。それは消滅以上に、動きを感じることにつながっている。

今が過ぎ去ることは、全てがなくなることではないことに注目する必要がある。
「持続」の意識は、「過ぎ去る今」の中に、常に過去が含まれることを教えてくれる。消え去ろうとすることで、そこにないものを出現させる。

「雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛ゆくへ知らぬ」
兼好法師は、雨の中で、目に見えない月を思い浮かべる。
簾(すだれ)をさげて引きこもり、春が過ぎてゆくのも知らない間に、心待ちにしていた桜の花も散ってしまったと言うことで、目にしなかった桜を心の中に出現させる。

また、第155段では次の様に言う。

春暮れて後のち、夏になり、夏果はてて、秋の来くるにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春こはるの天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて芽めぐむにはあらず、下したより萌きざしつはるに堪たへずして落つるなり。

現代語訳
春が終わった後に夏になり、夏が終わって秋が来るのではない。春は早くから夏の気配を生み出し、夏にはすでに秋が通っている。秋にはただちに寒くなり、十月(冬)には小春日和の天気があり、草が青くなり、梅の花も蕾をつける。木の葉が落ちるにしても、まず葉が落ちてから芽を出すのではなく、新しい芽を出す力に耐えられず葉が落ちるのである。

ここでも兼好法師は、時間を断絶した点ではなく、連続する流れと捉えている。

過ぎ去る時間は、決して全てを消滅させるのではなく、その動きの中に不在のものを現前させる働きをする。
不動であれば、流れがなく、過去も未来もない。
日本的な感性が時間の経過に美を感じるのは、動きの中で不在のものが生き続けていることを直感的に理解しているからだろう。
不在が存在を暗示する。
そうした意識があるからこそ、私たちは「あはれ」に心を動かし、「いとかなし」に美を感じるのではないだろうか。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中