印象派の絵画に描かれた風景は、実際に画家が見た光景を写生したものなのだろうか?
https://bohemegalante.com/2019/02/11/impressionisme-ukiyoe/8/
クロード・モネが太鼓橋のある睡蓮の池を描いた時、彼は目に見える光景をそのまま描くことを目的にしたのだろうか?

モネとルノワールの描いたグルヌイエールの絵画は、同じ場面を描いている。実際、二枚の絵画はとても似ている。


左がルノワール、右がモネ。画風の違いはあっても、二人は現実の光景を再現しているように見える。
こうした例からもわかるように、印象派の絵画は三次元の現実を再現する絵画の伝統から逸脱してはいない。
そのことは、象徴主義や現代絵画と比較すれば一目で理解できる。


その一方で、印象派の絵画は、細部まで綿密に描かれた古典主義絵画と比べると、未完成の習作(Etude)のようでさえある。
古典主義絵画であれば、どんなに近くに近づいても、物の形は明確に描かれている。それに対して、印象派絵画では、近くで見ると何が描かれているのかわからない。


フランソワ・ブーシェの「ポンパドゥール夫人」であれば、絵画に目を近づけても、何が描かれているのかはっきりとわかる。
モネの「印象:日の出」では、船の形でさえ朧気で、赤や緑は絵具の塊でしかない。それらが、現実の何かを再現しているわけではない。
遠くから見れば、波と太陽の光だとわかるかもしれない。しかし、もし再現を目的としているのであれば、クロード・ロランのように、より現実的に見える表現で描いただろう。


このように見てくると、印象派の絵画は、再現を目指しているのか、再現を拒否しているのか、どちらなのかわからないということになる。
では、一体、印象派の画家たちは何を目指したのか?
伝統的な風景画は、アトリエの中で描かれた。
屋外でスケッチするのはあくまでもモチーフを取材するためであり、仕上げは室内で行った。
しかし、19世紀の半ばから、自然の明るい光の中で風景を描く画家たちが出現する。彼ら外光派の画家は、一瞬毎に変化する光によって姿を変える自然の光景を捉えようとした。
伝統的な絵画では、描かれた対象は不動であり、物は確かな実体として存在するものと考えられてきた。
それに対して、感覚によって捉えられる世界は一瞬毎に変化し、不動の実体とは感じられなくなる。同じ物質でも、光の当たり方によって色は変化し、陰の形も変わる。一瞬として同じ姿に留まるものはない。全ては動きの中にある。
その動きを絵画の中で捉えることが、印象派の画家たちの目指したところだった。
伝統的な絵画のように細部まで描き込み、実体を固定させてしまえば、動きは消失してしまう。しかし、感覚が捉えた光や空気をスピード感を持って表現すれば、絵画に動きが生まれる。
ポール・シニャックやモネの描く波には、太陽の日差しが輝き、波の動きが感じられる。


このように考えてみると、印象派の絵画は現実を再現しているのかどうかという問いは、あまり意味を持たないことになる。
確かに、三次元的な世界がキャンバスの上に再現されている。しかし、その世界は固定した実体としてあるのではなく、動きを伴っている。その動きを捉えることが、印象派の画家たちが伝統的な絵画から離れ、新しい一歩を踏み出した点だった。
動き、別の言葉で言えば、ものに時の流れを感じ取る感性は、儚さに美を感じ取る日本的な感性と対応する。
印象派絵画が日本でとりわけ人気がある理由の一つは、そうした点にある。