イスラム教の創始者ムハンマドの風刺画を授業の中で見せた教師が殺害されるという事件が起きた時、フランスでは「表現の自由(liberté d’expression)」と「世俗主義(laïcité)」が強く主張され、マクロン大統領もこの二点は譲ることができないという立場を明確に表明した。
それに対して、イスラムの国々では強い反発が起き、フランス製品の不買運動や反フランスのデモが続いている。
また、カナダのトルドー首相は、表現の自由は重要だがある程度の限度があると、ニュアンスを持たせた発言をした。
日本的な感性では、トルドー首相の発言が最も賛同しやすい。それに対して、テロ事件が起こるきっかけを作るような風刺画を擁護し、表現の自由を強く主張するマクロン大統領の主張は理解しにくいし、賛同を得られにくい。
なぜフランスは表現の自由をこれほど強く擁護し、なぜ日本的な感性は「ある程度の制限」はしかたがないと感じるのだろう。
忖度の文化 日本 vs 個人の文化 フランス
日本では、小さな頃から、自分の言葉や行動がどのような影響を人に及ぼすかを考えるように教えられる。
家庭でも学校でも、「相手の気持ちを思いやる(察する)こと」の大切さが重視され、「言葉を発する前に相手を傷つけないか考えるように」と教えられる。
親は子供に、「どんなことをしてもいいけれど、他人に迷惑をかけることだけはしないように」と諭す。
こうした教育が意味することは、一人一人の発言や行動は、自分の意志以上に、相手との関係の中で行われるということ。
個人の自由は社会(共同体)の中の調和を乱さないことが前提。個人の意志よりも共同体の規範の方が上に置かれている。
フランスでも、17—18世紀のブルボン王朝の時代では、宮廷社会の規範が個人よりも上にあった。相手やその場に相応しい行動をすることが、礼儀正しい振る舞いと見なされた。
しかし、その後、個人が社会よりも上に置かれる時代になる。その転換を引き起こしたのはフランス革命であり、「人権宣言」によってその精神が明文化された。
第1条
Les hommes naissent et demeurent libres et égaux en droits. Les distinctions sociales ne peuvent être fondées que sur l’utilité commune.
「人間は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、自由かつ平等であり続ける。社会的な違いが根拠を持ちうるのは、共同体の利益に基づいている限りにおいてある。」
ここで掲げられているは、一人一人の人間、つまり個人は、自由で平等であるという理想。
その後、社会的な階層や地位の上下は、公共の利益のために有益であるという前提で受け入れられるという項目が続く。
この第一条で明確にされているように、最初に来るのは個人であり、社会、共同体はその後に来る。
こうした原則に基づくと、何か自分が言いたいことがあるとき、それを個人の意見として発言することが最初に来る。
そしてその際には、発言がどのような影響を相手に及ぼすかは二義的な問題になる。
「これは私の発言であり、私は私の意見を言う。それを受け取るのはあなたであり、どのように理解するかはあなたの問題。」
このような行動パターンは、相手との関係を(あまり)考えないために、より直接的な表現を可能にし、激しいものになる。
それがどのように見られようとあまり気にしない。
風刺新聞シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)がムハンマドの風刺画を掲載したのは、表現の自由に基づき、新聞としての立場を鮮明にするため。
目的はイスラム教そのものを攻撃するためではなく、イスラム教国のいくつかで行われている風習、例えば、不倫した男女を投石で処刑する行為をイスラム教の名において行うことを批判するためかもしれない。
そうした行為を個々に批判するのではなく、ムハンマドを風刺することで、より大きな効果を狙ったとも考えられる。
シャルリー・エブドは、ムハンマドだけではなく、キリストに対しても、時の権力者に対しても、同様の風刺を行い、集団の規範を個人に押しつける強大な権力を批判したし、今も同じことを続けている。
その結果、編集部がテロリストたちに襲われ、さらには、シャルリー・エブドの風刺画を使い「表現の自由」を教えようとした教師が、学校の出口で殺害されるという事件が起こった。
日本的な感性で言えば、その原因は風刺画にあると考えるのが一般的だろう。
フランス的な感性では、表現は表現する側の主張であり、その自由は守らなければならない。そうでなければ、自己規制が始まり、自由が束縛される。
批判された側は、表現の自由を用いて批判する権利があり、反撃すればいい。
この問題に関しては、どちらが正しいというのではなく、自分とは異なる思考や感性があることを理解し、その上で、どのような反応をするかを考えることが必要になる。
現在、ヨーロッパで頻発するテロは、言語や映像による表現に対して、物質的な暴力、無差別殺人によって反撃しようとするところから引き起こされている。
表現の自由と暴力
表現の自由は確保されるべき。これは基本的には誰もが認める権利だろう。
他方、どこまで?という程度の問題に関しては、考えが分かれる。相手の気持ちを思いやるべきなのか? 自分の考えを包み隠さず率直に表現していいのか?
表現に関するもう一つの問題は、何によってかという、手段の問題。
言葉やイメージ(マンガ)による表現ならよくて、物理的、肉体的な暴力は許されないのか。
この問題は、SNSでの言葉の暴力が激しくなるにつれて、簡単には割り切れなくなっている。
文化によって、物理的な暴力が許容される度合いは違う。
しばらく前にフランス全土でGillets Jaunes(黄色いチョッキ)運動が吹き荒れた時、至るところで破壊活動が行われたが、ある程度まで許容されていた。
最近でも、5Gに反対する環境保護主義者が5Gアンテナを破壊したりする行為が話題になったが、それほど非難されることもなかった。スーパーマーケットで食品添加物が多く入る食品に危害を加える団体もある。
もし日本で同じことが起これば、彼らの主張は一気に支持を失い、非難の対象になることは間違いない。しかし、フランスでは、非合法な活動でも、主義主張そのものを否定する動きは起きていない。
一定の範囲までであれば、物理的な破壊も、表現の自由として容認されるという例である。
人命に危害を加える自由は、もちろん、認められない。テロが起これば一斉に批判の声が起こる。
それは、個人の生命が人権の最も基本的なものだからである。
そのことは、死刑制度の廃止からも理解できる。裁判でさえ一人の人間の命を奪う権利はない。
フランスで死刑制度の復活を願う一部の人はいるが、多くの国民は死刑制度廃止を支持している。
他方、日本では、死刑制度維持の声の方が大きい。
ここでも、文化的な違いによって、同じことに対しても、反応が違うことが確認できる。
マレーシアの元首相マハティール氏は、フランスの風刺画と表現の自由を擁護する主張に対して、「イスラム教徒はフランス人を殺害する権利がある」という趣旨をツイッターに投稿した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d31dad567b15affd29bf0575a4aae0f059bdd4de?page=1
この言葉だけを聞くと、信じられない思いがする。テロを正当化し、テロを煽る言葉でさえある。
しかし、彼の頭の中では、言葉やイメージによる暴力と肉体による暴力を同等に置き、風刺画による冒瀆に対して肉体的な攻撃を行うという考えが浮かんだのだろう。
もちろん、この考え方に賛同できないが、原理的には理解可能になる。
表現する側が自由に主張できるとすれば、批判された側には反撃する自由がある。
その道具を言葉にするのか、映像にするのか、それとも暴力にするのか?
答えは簡単なように見えるが、現代社会ではとりわけ難しくなっている。
これまで言葉による表現が実際的な暴力とは見なされてこなかった。しかし、現代社会においては、言葉も暴力を振るう。実際、SNSで攻撃された人々が自殺する例が多くある。
言葉も人の命を奪う道具になりうる。としたら、言葉も殺人の道具と見なされうるという視点も可能である。
言葉による暴力と表現の自由をどのように区別するのか?
この区別も現代社会の課題である。
宗教の問題
表現の自由がテロを誘発する問題は、現代では、宗教と絡んでしまっている。
基本的な考え方として、宗教においては、個人の意志の上に宗教的な規範が置かれる。
稚拙な言い方をすれば、神が人間よりも上にいる。
従って、宗教的な集団の内部にいる限り、個人の表現は宗教によって定められた範囲の中で行われなければならない。
そのために、近代的な倫理観(例えば、人を殺してはいけない。)の上にもし宗教的な教えが置かれた場合には、人間的な倫理に対して宗教の倫理が優先される。
具体的に言えば、宗教の教えに違反する者に対しては、暴力を用いて罰してもかまわないことになりうる。
おぼろげな宗教観を持つ現代の日本人には、宗教が人間の行動を支配する世界観は理解しにくいかもしれない。しかし、宗教が社会の基盤となる社会では、宗教的な規範が社会生活を支配していることは当たり前のことである。
その対極にあるのがフランス。
基本的にはキリスト教国であるが、しかし「共和国(république)」の理念として、政治を宗教から独立させている。「世俗主義(laïcité)」が「個人の自由と平等」と並んで最も重要な原則になっている。
「世俗主義」というのは、社会生活、学校生活など、公共の場に宗教を介入させないという原則。政治でも、宗教を掲げる政党は認められない。
その一方で、個人的な次元では、キリスト教もイスラム教も仏教も、どのような宗教を信仰することも自由であり、信仰の自由は保障される。
ところで、個人の信仰は認めるが、公共の場では宗教を介入させないという考え方は、それほど当たり前のことではない。
イスラム教では、社会生活も個人の意識においも、最上位に位置するのは宗教的な規範であり、個人生活と社会生活は連続している。宗教の規範が個人と社会の規範を作っている。
アメリカ合衆国でも、大統領の就任式で、大統領が聖書の上に手を置いて宣誓をする。そのことは、政治の基盤に宗教があることを示している。
政治、つまり公共の生活に宗教が直接かかわることは、イスラム圏の国々だけの特色でないことがよくわかる。
「世俗主義」を掲げるフランスが「表現の自由」を主張する時、何が問題となるのか、こうしたことから理解できるのではないだろうか。
「人権」と「世俗主義」という考え方の中では、共同体よりも個人が尊重され、発言が共同体の規範から外れても、問題にはならない。
その反対に、宗教が共同体の規範である場合には、個人の表現が神の言葉の上に置かれることはない。そんなことをすれば、冒瀆だと見なされ、処罰の対象になる。
さらに注意しないといけないのは、宗教的な規範を犯し、宗教を揶揄するのが共同体の外部の人間だとしても、そうした行為は許されないということである。
現在の状況の中で、フランスの主張する「表現の自由」が、イスラム圏の諸国で冒瀆な行為と見なされる理由は、こうした文化対立にある。
そして、イスラムの名を借りて過激な行動に走る人間たちは、彼らなりの表現の自由を行使し、言葉やイメージではなく、テロという無差別殺人によって反撃をする。
言葉と暴力では暴力が悪いと思われるが、しかし言葉による暴力も許されない方向に向かっている。
では、その中で、表現の自由をどのように考えるのか?
大変に難しい問題が、現代社会に突きつけられている。
残念ながら、現在の状況の中で、まったく異なる文化の対立を解消する方法を見つけることは難しい。
「個人の人権」や「表現の自由」が一つの文化の基礎であり、もう一つの文化では、宗教が社会的・個人的生活の行動規範。その二つの文化が対立した時、妥協点を見出すことは可能なのだろうか?
こうした問題に回答を出すことはできないが、私たちにできることは、自分たちにとってわからないと感じられることに関して、なぜ?という問いを発し、その答えを探すことしかないのではないだろか。
そうすることによって、異なる文化がどのようなものか知ることが可能になるし、それと同時に、私たちの中にある感性や思考法を再確認する機会にもなる。
その結果として、自分が理解できないものを一方的に批判し、非難する姿勢を控えることにはなるだろう。