フランス語で詩を味わうことなどとてもできない、と思い込んでいる人が多くいるかもしれない。
しかし、実際に口の中に美しい詩句を含んでみると、自然に味覚を感じる。
例えば、ヴェルレーヌの詩句:
Les sanglots longs des violons de l’automne / blessent mon cœur / d’une langueur monotone.
最初に lo とlonの音が連続し、lが舌で上の歯茎の後ろを叩き、o とonが雨粒のように細かな響きを立てる。
次に、œの円やかな音が、cœur, langueurと心の物憂さを感じさせる。
最後に、monotoneの中に o の音が再び回帰し、3度反復する。
「秋のヴァイオリンの長いすすり泣き」「私の心を傷つける」「単調な物憂さで」といった意味がわかろうとわかるまいと、一連の詩句を口ずさんでみると、口の中で詩句の味覚を感じていることがわかる。
詩の美を味わうためには、意味にこだわりすぎないことが大切。そのことは、好きな歌を思い出してみると、納得できる。
歌詞は知っていて、意味は分かっている。しかし、私たちは、心の中で、あるいは声に出して、好きな歌を何度も歌う。
その理由は、歌詞と同じようにかそれ以上に、メロディーやリズムが気に入っているからだ。
例えば、長谷川きよしの「別れのサンバ」を取り上げてみよう。
それほどメジャーな歌手ではないだろうが、この曲を1度聴くと、何度も聞きたくなるほど魅力的な歌手だし、いい曲だと思う。実際、1969年に発表されて以来、今でも聞かれている。
歌には、歌詞と曲の両面があることがわかる。(後は、歌手の声や楽器の音色。)
歌と同じように、詩でも、「内容」と同時に、言葉の奏でる「音楽性」(メロディーとリズム)が大きな効果を発揮する。
Chanson d’automneを、言葉の練習のためにあえてゆっくり読むと音楽性が消え去ってしまう。そのことが次の朗読を聞くとよくわかる。
曲を付けて歌うと、それなりに楽しめるかもしれないが、しかし詩句自体の音楽性とは違うものになってしまう。
詩を味わうためには、耳で聞くよりも、やはり自分の口に入れてみる方がいい。上手下手は関係なく、ただles sanglots longsと声に出して言ってみる。
すると、この詩句の味わいが口の中に広がる。
そして、ヴェルレーヌの詩句を何度も口の中で味わっていると、彼独特の味わいがわかってくる。
べルベットのように手触りがよく、滑らかに流れるような感じ。尖ったところがなく、どこまでも柔らかで、物憂い心をそっと包む。
Il pleure dans mon cœur, comme il pleut sur la ville.
Quelle est cette langueur, qui pénètre mon cœur.
Voici des fruits, des fleurs, des feuilles et des branches
Et puis voici mon cœur qui ne bat que pour vous. (Green)
ランボーだと、詩句の味わいは全く違う。
スパッとしていて、とにかくスタイリッシュで、格好いい。
練り上げた詩句というのではなく、生意気な高校生が思いついた言葉をいきがって投げかけると、それが素晴らしい詩句になっている、という感じ。
普通であれば永遠にたどり着くのに一生を費やすのだが、ランボーは何の苦労もなしに、いきなり永遠を見つける。
Elle est retrouvé ! / Quoi ? l’éternité / C’est la mer mêlée au soleil.
我を忘れる恍惚の時に向かって、「来い」と簡単に命令する。
Qu’il vienne, qu’il vienne / le temps dont on s’éprenne.
彼の詩句はけれんみがなく、きっぷが良い。
何を言っているのかはっきりしなくても、メロディとリズムだけで気持ちのいい詩句になる。
どこかで声がする。天使の歌声?
Quelqu’une des voix / toujours angélique / – il s’agit de moi – / vertement s’explique. (Âge d’or)
vertementは厳しくとか激しくという意味だが、しかし、音にはvertが残っている。その緑のおかげで、詩句が新鮮な若葉のように感じられる。
口に含むと、実に気持ちがいい。
ステファン・マラルメの詩句は、意味を考えると何が何だかよくわからないことが多い。フランス語の構文を破壊し、単語と単語の論理的な意味の繋がりも破壊するような詩句が続く。
しかし、音楽性は素晴らしい。詩句の流れとともに、円やかな印象が口の中に広がっていく。
単純な名詞の列挙だけで、すでに流れるような音楽性を生み出す詩句もある。
Rien, cette écume, vierge vers
[…]
Solitude, récif, étoile, (Salut)
無、この泡、無垢な詩句。孤独、岩礁、 星。
こうした単語が連続するだけの詩句でありながら、独特なリズム感を生み出し、マラルメ的音楽を感じさせる。
天上の音楽を彷彿とさせる音楽を聞き取ると、たとえ意味がはっきりしなくても、映像と音楽が密接に関連し合う、次のような詩句の美が感じられるようになる。
La lune s’attristait. Des séraphins en pleurs
Rêvant, […] (Apparition)
月が悲しむ映像。La lune s’attristait.
空には天使たち(séraphins)が浮かび、涙を流し(en pleurs)、そして夢見ている(rêvant)。
こうした映像を思い浮かべながら、la lune s’attristaitと口にすると、悲しみの音が口の中で響き、独特の味わいをもたらす。
次に、sépaphins と言い、en pleursと続ける。イメージの美しさが、音楽の美しさを生み出す。
そして、rêvantが続くと、詩句が夢見る音楽になる。
こうした言葉たちが、文法的な構文によるのではなく、音によって繋がり、マラルメの詩句の円やかな音楽性が生み出される。
ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメの詩句を声に出して読んでみると、それぞれの詩人の音楽性の違いをはっきりと感じることができる。
好きな歌を頭の中で反復したり、声に出して歌うのと同じように、好きな詩句を反復することで、一人一人のメロディーが自然に感じられるようになる。
無理に一つの詩全部を食べようとしたり、詩を解剖して理解しようとすることは、食欲を減退させることにつながる。
きれいに透き通った風を食べ、桃色の美しい朝の日光を飲むように、好きな詩句を口に含むだけでいい。
そうすれば、詩句は愛唱歌のように、知らないうちに体の中に入り込んでいる。
そのようにしていると、フランス語の詩をフランス語で読み、詩句が奏でる音楽の美しさを実感できている自分に、驚くことになるだろう。