日本語の特色と普段の話題

日本語には面白い特色があるが、その中のあるものは、人間関係に影響を及ぼし、会話の中身そのものに直接かかわっている。

様々な場所で、人の噂話をしたり、芸能人ネタや恋バナで盛り上がり、時間を忘れるほどになる。
仲の良い友だちの間なら、人の悪口もいいネタになったりする。

もちろん、こうした話題はどんな言語でも話されるに違いない。
しかし、日本語には、こうした話題をすることで、ある目的を達しやすくする特色があるらしい。
『私家版 日本語文法』の著者、井上ひさしは、そうした特色を「自分定めと縄張りづくり」「ナカマとヨソモノ」と表現している。

結論を言ってしまえば、私たちがよくする会話は、ナカマ意識の確認と、もう一つ付け加えれば、自己愛の保証、その二つを暗黙の目的としているのではないかと考えられる。


日本語では、自分のことを何と言うべきか、相手をどう呼ぶべきか、結構難しい。
英語であれば、I と youで済む。
フランス語でも、自分は常にje、相手を呼ぶ時にも、tuとvousを分けるだけでいい。
それが、日本語になると、結構ややこしい。
男性の場合であれば、自分を「私」と呼ぶか「僕」、「俺」と呼ぶか? それによって、言葉のレベルが違ってくる。
学校で、先生は自分のことを「先生」と言うだろうし、家に帰れば、「パパ、ママ」とか、「お父さん、お母さん」と言うだろう。子供に対してだけではなく、自分のパートナーや、自分の父母に対してさえ、同じ呼称を使う。
自分の子供に対して「私」という親はほぼいないだろう。

要するに、日本語では、相手との関係を見定めて、自分の呼び方や相手の呼び方を変える。
その関係が言葉のレベルを決定し、敬語や謙譲語を使うか、ため言葉を使うか、あえて悪い言葉遣いをするか等を、細かく調整していく。
相手との関係の見定め方が悪ければ、よい関係は成立しなくなる。

日本語では、人間関係の作り方にもう一つの要素がある。それがコソアド体系。
英語では、thisとthatがあるだけ。
フランス語だと、ceしかない。あえて区別するとしたら、名詞の後ろに-ci, -làをつけ、近い、遠いの印をつける。

日本語のココとソコは、会話している二人が場を共有している印。
そこにないものはすべでアソコとドコ?になる。
このようにして、「話し相手との共同体の縄張り」をこしらえる。コソアド体系は、その区切りを付けるための綱なのだ。

西洋人は、自己を中心に世界を築き、自己をあくまで主張する。
日本人は、相手と共同の縄張り作りから出発する。
相手との間を測り、相手との間(ま)を合わせる。
その間(ま)を微調整するため、無限に近い人称代名詞があり、そうしてできあがった間を固定させるためにコソアドという近遠の区分けマーカーがある。
人称代名詞とコソアド体系を使うことで、相手と断絶状態に陥るのを防ぎ、間を保とうとする。
以上が、井上ひさしの主張である。

正直に言えば、日本を母語としてずっと使い続けていても、相手との間を調整し、無難な人間関係を保っていくのは面倒だし、難しい。
フランス語で話す方が人間関係が楽だと思う時さえある。相手との関係を微調整せずに、言葉を発することが可能だから。


私たちが普段する会話の内容も、「共同体の縄張り」づくりと、その中での自分の位置の確保を暗黙の目的にしていることが多い。

芸能界の話題は、多くの人に共有されていて、好きな芸能人が一致すれば仲間意識ができるし、悪く言うネタがあれば、仲間意識が高まる。
お互いの利害関係が少ないため、対立することが少ないため、格好のネタになる。

学校や職場では、クラスメイトや同僚の噂話で、好き嫌いをお互いに確認することができる。
誰かの悪口を言うことでよそ者を作れば、同意した人間の仲間意識は強くなる。
同じ場所である程度の時間を一緒に過ごす人間関係の中で、外に排除する対象を見つけることは、「ココーソコ仲間」の結束のためには有効な手段だし、その場は気持ちのいい場所になる。
さらに、一旦その場ができると、今度はそこから排除されないことが大切になるので、ますます噂話と陰口は欠かせなくなる。

旅行やショッピングの話は、ほぼ同じくらいの経済力を持つことが基本的な条件になるので、仲間意識を持つ人間を限定する要素になりうる。
その上、役に立つ情報を得られることもあり、扱いやすい話題だといえる。

恋愛ネタは、男女によって意味が違う。
その違いは、「・・・される」と「・・・する」の違いにありそうである。

男性の場合、恋愛に関しては愛する側にあるという感覚が現在でも残り、恋愛の成立は「手柄」として語られることがある。
動物の世界で、戦いの末、メスを獲得する感覚。
しかし、恋愛の対象を狩りの獲物と考えると、成功、失敗は自分の力と同時に、獲物の動きにもかかっている。そこで、相手とのやり取りが面倒な場合には、生きた獲物を追いかけるのが面倒に感じられる。
そうした場合、会話の話題は恋愛ではなく、好きなスポーツやゲームになる。生きた人間を相手にするよりも楽なのだ。

女性の場合には、自分から相手にアプローチした場合でも、心のどこかで「愛される」ことを望んでいるふしがある。愛されることが、自分の価値の確認に繋がる側面があるからだろう。
多くの場合、恋バナは、同様の価値観を持つ仲間の縄張りづくりとして有効に機能する。その中で、「愛された」経験を語ることで、自分の価値を仲間に認めてもらい、それが自己確認にもつながる。(こうした恋愛意識の場合、質よりも数が重視される傾向にある。)
そして、それが無意識であればあるほど、自己愛も見えてこない。
学校でも、職場でも、女性の間で恋バナがこれほど頻繁に行われるのは、仲間の縄張りを作り、自己愛を密かに満足させる、気持ちのいい場を生み出す役割を果たす話題だからだろう。


言葉によるコミュニティ作りは、もちろん日本以外でも行われるし、自分にとって居心地のいい空間を確保することは、ごく当たり前の行為である。
ただし、日本語を使う場合には、I and youというだけでは済まず、お互いの関係を測り、微妙な言葉遣いによって関係を調整していくという特色があるために、伝えたい内容よりも、相手との関係作りに重きがおかれる傾向がある。

極端な言い方をすると、言葉という記号の表現は様々に変化するが、記号の意味は常に同一で、友だちであることの確認をしているとさえ言える。
「記号表現」=芸能ネタ、恋バナ、クラスメイトや同僚の噂話や悪口、等々。
「記号内容」=仲間であることの確認。(同一)

よそ者 vs 身内や友だちという区分して、居心地のいい空間を持つことは、気持ちよく生きている上で必要な条件である。そのために、言葉を仲間意識の確認として使うのは当然のことだといえる。
記号内容の詰まった言葉のやり取りをした場合、違いが明確になり、仲間の縄張りが破れてしまいかねない。
家族で何か明確な事態に対処する場合、言葉は意味を持ち、対立の原因になる。
普段は、意味のない言葉のやり取りをしていた方が楽であるし、誰もがそうしているだろう。

ただし、仲間の縄張りを作りながら、内部で競争が始まってしまうことがある。例えば、子供のいる母親同士が子供の話をする場合、子供の学力やその他の成果に関する競争意識が生まれると、どこかギクシャクする。
その他、様々な場面で、上下関係を感じさせる言葉が流通すると、縄張りの中で亀裂が生じる。
どこにでもマウントしようとするタイプの人はいるし、それを受け入れる人も、対抗するタイプの人もいる。
こうしたことも自然なので、多少の居心地に悪さを感じながら内部に留まるか、別の場所に移動するか、その場に応じながら選択するというのが普通の状態だろう。


時には、外部の人間とコミュニケーションをし、意味の詰まった言葉をやり取りすることで、新しい情報や価値観を得ることもある。
そして、そうした時でも、対話の相手との関係を測り、言葉のレベルを調整することで、円滑な対話が可能になる。
さらに、その会話によって、外部の人と仲間意識の共有も行われ、新しい縄張りが作られる可能性もある。

日本語の持つ他者との関係の微妙な調整能力は、一方では気遣いをしなければならないという大変さはあるが、他方では仲間の縄張りを確認させてくれる印にもなる。
だからこそ、社会生活を円滑に行っていく上でも、日本語の特色を知ることは意味があることだといえる。