
スペイン絵画の黄金時代と呼ばれる16世紀後半から17世紀、エル・グレコからヴェラスケスまで、素晴らしいバロック絵画が次々に制作された。
そうした傑作群から共通の要素を取り出すのは難しいが、あえて言えば、ルネサンス美術の理想主義的な均整の取れた美に流動性を与え、現実性と精神性を合わせ持つ絵画だと定義することができるかもしれない。
エル・グレコの「オルガス伯の埋葬」は、その二つの側面を明確に表している。
上部の天上世界は幻想的な雰囲気に満ち、精神性が強く表出される。

下部の地上世界は現実主義的な厳格さを持ち、貴族の埋葬を行う司祭の豪華な衣裳もリアルに描かれている。

こうした二重性は、当時のスペインの時代背景と密接に関係している。
スペインは8世紀から15世紀まで、イスラム勢力の支配下にあった。10世紀からはキリスト教勢力も失地回復を進めて南下していたが、最終的な決着は1492年のレコンキスタ(再征服運動)終結まで待たないといけなかった。
16世紀、ヨーロッパではルターやカルヴァンの宗教改革の嵐が吹き荒れ、カトリック側でも、それに対抗して、対抗宗教改革の動きが強まる。
トリエント公会議(1545−63)において、カトリック内部での改革の要項が定められ、カトリックの精神主義が色濃く打ち出された。
その一方で、民衆に対する再教育を図るため、明確で現実的な美術が求められた。
スペイン・バロック絵画は、その両者の間を揺れ動きながら、多様性のある美を生み出すことになった。
精神性
精神性の表現にも様々な形のあることは、エル・グレコとコターンを比較することで一目瞭然となる。
エル・グレコは、ルネサンス時代の理想主義的な美とは違い、あえてバランスを壊し、現実的な姿を引き伸ばし、ねじり、歪めることで、超現実の世界を表現する。

透視遠近法による三次元の空間はなく、背景となる風景が不自然に小さいために、マリアを中心にした前景が見る者に迫ってくる。
精霊を象徴する白い鳩に視線を投げかけるマリアを中心に、絵画全体が強い精神性を発散している。
他方、サンチェス・コターンの「マルメロの実、キャベツ、メロン、胡瓜」は、エル・グレコの絵画とは反対に、静謐そのものである。

この静物画でも遠近法による奥行きのある空間は退けられ、背景は黒一色で塗られ、テーブルと壁が野菜の置かれる空間全体を形作っている。
描かれた野菜は本物そのものを思わせるリアルさを持って描かれている。物そのもの。全く動きもなく、ただそこに置かれていて、物音一つしない。完全なる無音の世界。
その完璧な静謐さが、事物に厳粛さを与え、見る者を瞑想に誘う精神性を生み出す。
コターンのこの絵画は、静物画が宗教画に匹敵する精神性を持ちうる証拠だと言ってもいいだろう。
スルバランの2枚の絵画は、奥行きがなく、完全なる無音の空間。そこでは、人体も物体も、同様の精神性を表現しうることを示している。


完全な不動性が完全なる無音を作り出すこうした世界は、厳格な精神性を感じさせる。
それに対して、動きが感じられる場合には、人間的な感情が表現され、穏やかな精神性が感じられることになる。
リベーラの「聖アグネス」やムリーリョの「無原罪のお宿り」は、人間的な苦悩を通して神の慈悲を求める魂の願いが、穏やかな表現を生み出している。


こうした動きをさらに激しくすると、エク・グレコの精神世界になることがわかるだろう。

ちなみに、この「聖ヨハネの幻影(あるいは第五の封印)」は、ピカソの「アヴィニョンの娘達」にインスピレーションを与えたことでも知られている。

現実性
スペイン・バロック絵画の現実主義的な側面を代表する画家は、なんと言ってもヴェラスケス。
ヴェラスケスは彫塑的な造形、激しい明暗法、豊かな色彩などの絵画技法を駆使して、視覚的な真実性を追求した。
たとえ、神話をテーマにする時でも、現実の一場面のようである。
「バッカスの勝利」は、酒の神バッカスの祭りで、バッカスを中心に酒を酌み交わす人々を描いている。

頭にブドウの枝の冠を被ったバッカス神はただの少年のよう。他の人々も単なる酔っ払いにすぎず、現実の一場面のように見える。
その中で、人々は生命感に溢れ、力強い。このリアルな雰囲気は、ヴェラスケスならではのものといえる。
彼の描くヴィーナスも、生身の女性の官能性を強く伝えている。羽根の生えた天使もどこにでもいる子供のよう。

ヴェラスケスの最高傑作とされる「侍女たち」には様々な解釈が提出され、論じれば論じるほど謎は深まるほど。
しかし、視覚表現として見れば、スペインの王宮での集団肖像画として、王夫妻の肖像画を画家が描く一瞬を捉えた、リアルな雰囲気を感じさせる作品である。(王夫妻は、中央に置かれた鏡の中に写っている。)

現実主義的な表現で絵画史を彩るのはヴェラスケスだけではない。
リベーラの「聖アンドレア」は、聖人の像でありながら、この上もなくリアルである。

リベーラの代表作「エビの足の少年」は、この画家の独特な世界を見事に描き出している。

ムリーリョのリアルさには、穏やかな優しさがある。
貧しい子供たちを描きながら、画家の眼差しの優しさが、どこか聖なるものを感じさせる。

彼のリアルな温かさは、宗教画でも風俗画でも変わらない。


スペイン・バロック絵画は、このように、精神性と現実性という二つの側面を持ち、二つの極を揺れ動きながら、それぞれの画家が個性的な世界を作りあげている。