エミール・ゾラ クロードの告白 Émile Zola La Confession de Claude ロマン主義を乗り越え、ボードレールとは異なる芸術に向けて

Édouard manet, Émile Zola

『クロードの告白(La Confession de Claude)』は、エミール・ゾラが1865年に出版した書簡体形式の小説。
パリにやってきた20歳のクロードが、プロヴァンスに残った友人二人に宛てて書いた手紙という形式を取り、貧困を生きる若者が体験する出来事が、一人称で語られる。
芸術家小説という側面は、小説の冒頭に出てくる「詩人の聖なる貧困(la sainte pauvreté du poète)」という言葉からもうかがい知ることができる。

小説の基本的な枠組みとなるのは、パリで貧しい生活を送る芸術家たちを描くアンリ・ミュルジェールの『ボヘミアン生活の情景』のような若い芸術家の生活情景。
プッチーニのオペラ「ボエーム」を思い出すと、その雰囲気が理解できる。

Édouard Manet, Femme dans une baignoire

小説の中で語られるクロード(私)と娼婦ロランスの同棲生活などは、ゾラがエクス・アン・プロヴァンスからパリにやってきた1958年2月からアシェット社という出版社で働き始める1962年3月までの体験と、多くの部分で対応すると言われている。
そこで、クロードの手紙がゾラ自身の告白(confession)であるかのように見えるかもしれない。

しかし、『クロードの告白』は、作家自身をフィクションの登場人物に仕立てる形式(auto-fiction;自己フィクション)であり、その際に、「告白(confession)」という形式を用いたのも意図的である。
そのことは、クロードが出会う二人目の娼婦マリーが自分の過去を語る場面で、次のように説明がなされることからも推測することができる。

Peu à peu, elle m’a conté sa vie. J’ai pu, phrase à phrase, reconstruire cette histoire lamentable. Un récit m’aurait déplu, car j’aurais hésité à croire ; je préfère qu’elle se soit confessée, sans le savoir elle-même, par aveux partiels, au hasard de la conversation. (chapitre 14)

少しづつ、彼女(マリー)は自分が送ってきた生活についてぼくに話してくれました。ぼくは彼女の哀れな物語を、一言づつ再現することができました。それが物語になっていたら、好きになれなかったろうと思います。というのも、信じていいのかどうか迷ってしまうからです。ぼくが好ましく思うのは、彼女自身は告白なんで思わず、ポツポツと断片的に、話の流れの中でたまたまという風に、告白してくれたことなんです。

この中で「物語」と訳したrécitは、ここでは起承転結のある形式の整った話という意味。
そうした形で自分の人生を語ると、ある意味では「自伝(autobiographie)」のようになる。自分以外の人の人生を語るのであれば「伝記(biographie)」。

クロードはそうした物語はなかなか信じられないと言う。
人生は偶然の積み重なりであり、話も、「会話の流れに応じ(au hasard de la conversation)」、「思いついたことを断片的に告白する(se confesser par aveux partiels)」方が好ましいと考える。
その方が信じやすいとクロードは思っているし、ゾラもそう考えたのだろう。
一人称の書簡体形式で語られる理由が、こうしたクロードの言葉から明かされていることに注意しておきたい。

では、クロードは何を告白するのか?

1860年初頭、ゾラはまだロマン主義の影響を強く受けていて、その中で新しい世代の芸術を模索しようとしていた。
実際、『クロードの告白』の中で、ヴィクトル・ユゴーやアルフレッド・ミュッセといったロマン主義第一世代への言及が数多く見られる。

Édouard Manet, La Maîtresse de Baudelaire

さらに、1840年生まれのゾラよりも一世代前の作家たち、つまり1820年代に生まれたボードレール、アンリ・ミュルジェール等を意識した表現はさらに数が多い。
1857年に『ボヴァリー夫人』と『悪の華』の裁判があり、公共の秩序を乱すと見なされた作品がスキャンダルを引き起こし、その結果、まだそれほど有名ではなかったフロベールとボードレールがジャーナリスムで大きく取り上げられ、作品がベストセラーになった。
アシェット社で広告部門の担当をしていたゾラは、『クロードの告白』でも、社会の良識と考えられる倫理観から外れた自堕落な若者と娼婦たちの生活を描くことで、ジャーナリスムでの話題性を狙った部分があったかもしれない。

そうした中で、ミュッセたちロマン主義の世代と1820年代に生まれた作家たちに言及しながらも、とりわけゾラが意識していたのは、パリの場末を詩の対象としたボードレールだったのではないか。

小説の最初の部分、小さく貧しい部屋の中のクロードの孤独は、ボードレールの散文詩「朝の一時(À une heure du matin)」の雰囲気そのものである。
この詩が最初に発表されたのは1862年。ゾラが「クロードの告白」の執筆に取りかかっていた時期とちょうど重なる。

小説で何度か言及される「une cloche fêlée」は、『悪の華』の74番目の詩の題名La Cloche fêléeとほぼ同じ。

それだけではなく、ボードレールの美学の中心となる言葉がクロードの手紙の中に数多くちりばめられている。
例えば、「官能性(volupté)」「香り(parfum)」「虚無(néant)」「酔い(ivresse)」「無限(infini)」「宿命(fatalité)」「深淵(gouffre)」「放蕩(débauche)」「瀕死の(moribond)」「おぞましい(horrible)」「恍惚(extase)」等。

さらに、『悪の華』は現代的な美を歌った詩集の題名だが、その「悪(mal)」について、クロードはこう記す。

Qu’est-ce donc que le mal ? […] Le mal est une de nos inventions, une des plaies dont nous nous sommes couverts.

悪とは何でしょう? (中略)悪とはぼくたちが発明したものの一つ、僕たちの体を覆ってきた傷の一つです。

こうした記述を通して、最初期のエミール・ゾラが同時代の詩人ボードレールを強く意識していた様子が見えてくる。

そのゾラは、ロマン主義を乗り越え、ボードレールとも分かれて、別の道を進むことをはっきりと意識していたのではないか。
小説の第11章には、クロードが乗り越えようとする美学と彼が目指そうとする美学が、はっきりと対比されている。

 J’ai cru manquer d’habileté et de prudence. Je me suis hâté, j’ai passé outre, sans demander à Laurence si elle me comprenait. Moi, qui ignore la vie, comment puis-je en enseigner la science ? Que saurais-je mettre en œuvre, si ce n’est des systèmes, des règles de conduite rêvées à seize ans, belles en théorie, absurdes en pratique ? Me suffit-il d’aimer le bien, de tendre vers un idéal de vertu, vagues aspirations dont le but lui-même est indéterminé ? Lorsque la réalité est là, je sais combien ces désirs se formulent peu, combien je suis impuissant dans la lutte qu’elle m’offre. Je ne saurai l’étreindre ni la vaincre, ignorant de quelle façon la saisir et ne pouvant même m’avouer quelle victoire je demande. Une voix crie en moi que je ne veux pas de la vérité ; je ne désire point la changer, la rendre bonne de mauvaise qu’elle me paraît. Que le monde qui existe, demeure ; j’ose vouloir créer une nouvelle terre sans me servir des débris de l’ancienne. Alors, n’ayant plus de base, l’échafaudage de mes songes croule au moindre heurt. Je ne suis plus qu’un inutile penseur, amant platonique du bien que bercent de vaines rêveries et dont la puissance s’évanouit dès qu’il touche la terre. (Ch. 11)

 ぼくは器用さとか慎重さに欠けていると思いました。急いでいたし、先に進んでしまっていて、ロランスがぼくのことを理解しているかどうか尋ねはしませんでした。ぼく自身が人生というものを知らないのに、どうやって人生の知識を教えることなんてできるのでしょうか? 実現できることがあるとすれば、16歳の時に夢見たような何らかのやり方や行動の規則で、理論としては美しいけれど、実際には馬鹿げたものだけだったことでしょう。善を愛し、理想的な美徳の方に向かうといった、目的のはっきりとしない漠然とした憧れだけで十分なのでしょうか? 現実がそこにあるとき、そんな欲望はほとんど言葉にならない。現実が提示する戦いの中で、ぼくが無力であることも知っています。現実を把握することも、現実に打ち勝つこともできないでしょう。どうやって現実を掴むかも知らないし、自分がどんな形の勝利を望んでいるかもわかりません。一つの声がぼくの内部で叫んでいます、ぼくは真実を望まない、と。現実を変えることも、悪く見えるものをよくしようとも望みません。そこにある世界は、そのままでいい。新しい大地を作りたいとは思うけれど、古い大地の残骸を使いたくはありません。もう土台がなく、ぼくの夢の足場は、ちょっとでも何かがぶつかると崩壊してしまいます。ぼくはもう役立たずの思想家でしかありません。プラトン的に善を愛する者であり、虚しい夢想に揺られていますが、地上に触れるとすぐに力が消え失せてしまうのです。

Édouard Manet, Olympia

「プラトン的に善を愛する者(amant platonique du bien)」という言葉は、クロードのロマン主義的な思想を明確に示している。
プラトン的愛は、肉体の美を通してイデアの美に向かうエロースの力。娼婦ロランスへの愛は、彼女をイデアに向かわせ、善へと導く。
クロードが頭の中で考えている愛が、そうしたプラトンの愛の神話に基づくものであることは、「善を愛すること(aimer le bien)」「理想的な美徳に向かう(tendre vers un idéal de vertu)」という言葉でも示されている。

しかし、彼は今、ロランスという現実そのものの女性と直面している。現実がそこにある。
その時、心の中で、「ぼくは真実を望まないと(je ne veux pas de la vérité)」と叫ぶ。

「理論としては美しいけれど、実際には馬鹿げたもの(belles en théorie, absurdes en pratique)」。
この表現は、夢、理想、ぼんやりとした欲望、夢想などといった言葉で表されるロマン主義、さらにはボードレール的な美に対して、ゾラがどのような意見を持っていたのか、読者にはっきりと伝えている。

その後で、クロードは、彼が模索する新しい大地の方向性を次の様な言葉で示すことになる。

 Ne serait-ce pas une assez grande récompense si je l’amenais à me donner tout l’amour dont elle est capable ? Frères, je crains bien que nos rêves ne soient pas seulement des mensonges ; je les sens petits et puérils en face d’une réalité dont j’ai vaguement conscience. Il est des jours où plus loin que les rayons et les parfums, plus loin que ces visions indécises que je ne puis posséder, j’entrevois les contours hardis de ce qui est. Et je comprends que là est la vie, l’action, la vérité, tandis que, dans le milieu que je me crée, s’agite un peuple étranger à l’homme, ombres vaines dont les yeux ne me voient pas, dont les lèvres ne sauraient me parler. L’enfant peut se plaire à ces amis froids et muets ; ayant peur de la vie, il se réfugie dans ce qui ne vit pas. Mais nous, hommes, nous ne devons point nous contenter de cet éternel néant. Nos bras sont faits pour étreindre. (Ch. 11)

 かなり大きな報いがあるとしたら、彼女にとって可能な限りの愛をぼくに与えてくれるように、彼女を導ける時ではないでしょうか? 兄弟ともいえる友たちよ、ぼくが恐れているのは、ぼくたちの夢が単なる偽りではないかということ。おぼろげにでも意識している現実を前にしたら、ぼくたちの夢は小さく、子供っぽいと、ぼくは感じています。次のように感じる日もあります。日差しや香りよりも遠くに、手に入れることができないぼんやりとした幻よりも遠くに、今ここにあるもののはっきりとした輪郭が垣間見えます。そして、ぼくにはわかるのです。そこには生が、行動が、真実があるのです。その一方で、ぼくが心の中に思い描く場所では、人間とは無関係な人々がうごめいています。彼らは虚しい影で、彼らの目からぼくは見えないし、彼らの口がぼくに話かけることもできません。子供というものは、何も話さない冷たい友と一緒に楽しむことができます。生命が怖いので、生きていないものの中に避難するのです。しかし、ぼくたち大人は、そんな永遠の虚無に満足することはできません。ぼくたちの腕は、抱きしめるためにできているのです。

ここには、ロマン主義的な幻の世界と対応する世界、今ここにある世界の本質がはっきりと示されている。
それは、「生(vie)」であり、「行動(action)」であり、「真実(vérité)」。
その反対にあるのは、子供が逃避する「生きていないもの(ce qui ne vit pas)」。

Édouard Manet, Portrait de Victorine Meurent

「自分が心の中に思い描く場所(le milieu qu je me crée)」には生命が欠けている。子供は「生が怖い(peur de la vie)」ので、その世界の中に逃避する。
それに対して、大人であることを望むクロードにとって、生の欠けた世界は「永遠の虚無(éternel néant)」であり、満足することはできない。
クロードは、ロマン主義的な夢想を真実とは考えず、生の世界に真実を見る。そして、彼は生の世界で、自分の腕を使い、生きた人間を「抱きしめる(étreindre)」ことを望む。

一方には夢想に浸るロマン主義的気質があり、他方には「今ここにあるもの(ce qui est)」に「生(vie)」を感じ、「真実(vérité)」を見出す現実主義的気質がある。
二つの気質の違いは、「思い出(souvenir)」を前にした時に、とりわけはっきりする。
ロマン主義では、思い出は過去に戻りたいというメランコリックな願望を通して、抒情性を生み出す。
現実主義的な気質の持ち主にとって、思い出は現在の悲惨を際立たせ、過去がすでに失われたことを確認するだけ。

クロードにとってプロヴァンスでの青年時代の思い出は幸福なものであり、「思い出す(se souvenir)」という言葉は数多く使われている。しかし思い出がロマン主義的な抒情のきっかけになることはない。

18章では、思い出がどのような意味を持つか、考察している。。

 Aujourd’hui les souvenirs sont durs et implacables pour moi. À certaines heures, dans mon oisiveté, brusquement, un souvenir de cet âge m’arrive, aigu et douloureux, avec la violence d’un coup de bâton. Je sens une brûlure me traverser la poitrine. C’est ma jeunesse qui s’éveille en moi, désolée et mourante. Je me prends la tête entre les mains, retenant mes sanglots ; je m’enfonce avec une volupté amère dans l’histoire des jours passés, et j’ai plaisir à agrandir la plaie en me répétant que tout cela n’est plus et ne sera jamais plus. Puis, le souvenir s’envole ; l’éclair a passé en moi ; je demeure brisé, ne me rappelant rien. (Ch. 18)

  今では、ぼくにとって、思い出というのは、辛く、冷酷なものです。ある時、何もすることがない中で、突然、その歳の頃のある思い出が甦ることがあります。鋭く、苦痛に満ち、棒で叩かれたような激しさです。火傷に胸をつらぬかれたような感じ。青春がぼくの中に目覚めるのです。その青春は、悲歎に暮れ、今にも死にそうな様子をしています。ぼくは頭を腕に抱え込み、嗚咽を抑えます。苦い味の官能性を感じながら、過ぎ去った日々の物語の中に沈み込んでいくのです。喜んで傷を広げ、自分に何度も言ってきかせます。すべてはもうないし、これからも決してないだろうと。すると、思い出が飛び去ります。ぼくの中に一瞬の煌めきが通り過ぎました。ぼくは疲れ果て、何も思い出しません。

ここに書かれている思い出は、苦痛や悲惨の中で甘美な恍惚感に浸るロマン主義的な思い出、ボードレール的な思い出とは正反対のもの。
二人の友人と過ごした青春時代が幸福な思い出として残り、それだからこそ、クロードはパリに出てから彼らに手紙を書き送る。しかし、その思い出は、「鋭く突き刺さり(aigu)」、「苦痛に満ち(douloureux)」、激しく「棒で打たれる(la violence d’un coup de bâton)」ようでもあり、「胸を火で焼かれる(une brûlure me traserser la poitrine)」ようでもある。
たとえ「官能性(volupté)」をもたらすとしても、恍惚ではなく、「永遠の虚無(éternel néant)」にしか繋がらない。

思い出に対するこうした感受性を持つクロードは、夢想に惹かれるのではなく、現実を生きることを選ぶ。それが彼の「気質(tempérament)」に適合した行動なのだ。
そして、それはまた、クロードを虚構の「私(je)」として作り出したエミール・ゾラが進む方向でもある。

ゾラは、『クロードの告白』の序文で、クロードの気質について、ロマン主義的な部分と現実主義的な部分を挙げ、その二つが彼の手紙の中に反映しているという。

Elles sont la manifestation maladive d’un tempérament qui a l’âpre besoin du réel et les espérances menteuses et douces du rêve.

 それらは一つの気質の病的な表現である。その気質は、現実を激しく必要とすると同時に、夢の偽りでありながら穏やかな希望を持っている。

クロード自身も、「ぼくはこんな風にして、並行した2重の性を送っている(J’ai ainsi deux existences parallèles)」(ch. 22)と書き、自分の中に二つの側面があることを自覚していることを明かしている。

こうした現実と夢の間で、ゾラはクロードの生の部分に焦点を当て、序文の最後に力強くこう記す。

Claude a vécu tout haut.

クロードは十全に生きた。

手紙の中でクロードも、生きることについてこう記す。

Je regardais Laurence ; je vivais largement, dans la plénitude de mes sensations, jouissant avec volupté de tout ce qui m’entourait. (ch. 21).

ぼくはロランスを見つめていました。ぼくはたっぷりと生きていたのです。自分の感覚を一杯にして、ぼくを取り巻くもの全てをゆったりと楽しみながら。

「生きること(vivre)」。その動詞に、hautとかlargementという副詞的な表現を加えることで、ゾラの目指す方向が夢ではなく現実であり、その現実の本質が「生(vie)」であることが明確になる。
そうした表現からは、クロードの告白とは、ロランスとマリーという二人の女性との葛藤を通して、プラトン的な善を恋い焦がれる者ではなく、現実の生を選択するという宣言を読み取ることができる。

Paul Cézanne, Paul Alexis lisant à Émile Zola

1840年生まれのエミール・ゾラも、1820年に生まれた世代であるボードレールやフロベールと同じように、出発点はロマン主義だった。
そこからどのような方向に向かうのかは、1860年代以降の時代性と一人一人の作家の気質との複雑な絡み合いから決まることになる。
ゾラの場合には、人間の生の現実を直視し、環境と遺伝子の関わりによって決定される人間の行動を観察し、現実的に描く自然主義文学の推進者となった。

『クロードの告白』は、そうしたエミール・ゾラの創作活動の原理を、出発点がロマン主義やボードレールにあったことを含め、告白した作品であるといってもいいだろう。

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