
第4セクションからは、とうとう、新しい詩とはどういうものであるべきか、詩人に伝えることになる。
その際、アルシッド・バヴァは、「言え(dis)」「クソをかぶせろ(incague)」「見つけろ(trouve)」「料理を出せ(sers)」と続けざまに命令を下す。
他方で、何を言えと言うのか、何を見つけろと言うのか、命令の内容は定かではない。言葉が意味をなさない!と思われることが多くある。

それこそが、アルシッド・バヴァの狙いだ。
彼は新しい詩の世界を目指し、現実の再現をベースにした言語世界の破壊を目指している。
詩の中で生成する世界は、現実の素材が使われてはいるが、しかし現実から自立した新しい世界。
読者に求められるのは、すでに知っている言葉の慣用的な意味を探し、それが見つからないと頭を抱えるのではなく、未知の世界を経験すること。
未知の世界の解釈は読者に委ねられている。理解不能と匙を投げる必要はない。
アルシッド・バヴァが息せき切って続ける命令のエネルギッシュな勢いを感じながら、音の流れについていくだけでいい。
例えば、最初の詩節では、4行の中で2度命令が下される。
IV
(23)
Dis, non les pampas printaniers
Noirs d’épouvantables révoltes,
Mais les tabacs, les cotonniers !
Dis les exotiques récoltes !
*pampasは女性形の名詞だが、ここで形容詞は男性形になっている。その理由として、Louis Figuierの本の中でpampasが男性形で使われているからだという推測がある。
言うんだ、恐ろしい反乱で黒くなった
春の大草原ではなく、
タバコ、綿の木と !
言うんだ、異国の収穫と!



言えと言われるのは、タバコ(tabacs)、綿の木(cotonniers)、異国の収穫(exotiques récoltes)。
言わなくていいと言われるのは、南アメリカの大草原(pampas)。
この4つの要素から、何か特別な意味を引き出すことはできない。
さらに、大草原に付属する「反乱(révoltes)」が現実のどの反乱を指すとか、収穫を形容する「異国の(exotiques)」がどのようなものか、意味を限定しようとしても手掛かりがない。
大切なことは、「言うこと(dire)」ことであって、言われた言葉の意味は、その後から勝手に生まれるだけ。それがアルシッド・バヴァの言うことなのだ。
私たち読者も、詩人と同じように、この詩句を声に出して「言う(dire)」だけでいい。
(24)
Dis, front blanc que Phébus tanna,
De combien de dollars se rente
Pedro Velasquez, Habana ;
Incague la mer de Sorrente
(25)
Où vont les Cygnes par milliers ;
Que tes strophes soient des réclames
Pour l’abattis des mangliers
Fouillés des hydres et des lames !
言うんだ、太陽の神フェビュスが皮をなめした白い額よ、
どれだけのドルが年金として払われるのか、
ハバナのペドロ・ヴェラスケスに。
クソをかぶせるんだ、ソレントの海に、
そこには無数の「白鳥」が向っていく。
君の詩句が広告になるようにするんだ、
多頭の海蛇と数々の波で掘り返された
マングローブの、切り倒された塊を宣伝するための!

第3セクションでは、詩人に向かって「白い狩人(blanc Chasseur)」と呼びかけたが、ここでは「白い額(front blanc)」と呼び、太陽の神フェビュスが額の「皮をなめした(tanner)」とする。
ただし、tannerには、皮を伸ばす過程を通して、褐色にするとか、疲れさせる、イライラさせるという意味も加味されるため、皮肉な意味が込められている可能性がある。
その白い額に向かい、二つの命令が下される。
一つは、16世紀にキューバの首都ハバナを建設したスペインの征服者ペドロ・ヴェラスケスに年金がいくらドルで支払われるのか「言う(dis)」ようにというもの。
大航海時代の征服者にドルで年金を払うと言うのは馬鹿げている。
そこで、この詩句から無理に意味を探し出し、歴史的、地理的な解釈をもっともらしく提示する読者を、アルシッド・バヴァが予めからかっているのだと考えても、間違ってはいないだろう。
彼のいたずらっ子ぽい、意地悪そうな笑い声が聞こえてくる・・・。

もう一つは、バヴァらしく、「クソをかぶせろ(incague)」というもの。
彼はとにかく、穢い言葉を使うのが大好きなガキなのだ!
ここでは、南イタリアの美しい海に面するソレントの町を思い起こさせ、しかも次の詩節でわざわざ、その美しさを「無数の白鳥(Cygnes par milliers)」によって強調する。
Cygnesの先頭が大文字になっているのは、それが詩人の象徴でもあり、ラマルティーヌやバンヴィルの詩も連想させるからだろう。
読者も自分の持つ知識に応じて、様々な美を思い描く。
そして、それらにクソを落とすように誘われる。
そのようにすることで、「詩節(strophes)」を「広告(réclames)」にしなければならないと、アルシッド・バヴァは命令する。(Que +接続法)
大切なことは、何用の広告かということではない。
バヴァは、「マグノリアの切り倒された塊(’abattis des mangliers)」のための広告とここでは言う。しかも、もったいをつけ、「多頭の海蛇(hydre)」や「波(lames)」を持ち出す。



しかし、それらの言葉からの連想は自由であり、どんな限定もない。
ここでも、征服者とドルの関係と同じで、もっともらしい説明をしようとしても、解釈は根拠を持たない。
重要なのは、詩句が広告であること、つまり読者に働きかけ、読者を動かすことにある。
新しい詩は、「写真(photographie)」のように現実を写し取るものではなく、読者に働きかけ、読者が自ら新しい世界を創造するように誘うものでなければならない。それが「広告(réclame)」という言葉が意味すること。
再現性に基づく芸術から、芸術それ自体が自立し、そこから新たな世界が生成する芸術へ。
そうした芸術観の転換が、第25詩節では明確に示されている。
(26)
Ton quatrain plonge aux bois sanglants
Et revient proposer aux Hommes
Divers sujets de sucres blancs,
De pectoraires et de gommes !
(27)
Sachons par Toi si les blondeurs
Des Pics neigeux, vers les Tropiques,
Sont ou des insectes pondeurs
Ou des lichens microscopiques !
君の4行詩は、血まみれの森に潜り、
そこから戻って、人々に提示するのは、
様々な主題、白砂糖や、
胸に塗るパテや、ゴムの!
「君」を通して、ぼくたちも知ろうじゃないか、
雪に覆われた「山頂」の金色のものが、「熱帯地方」に向かっていくと、
卵を産む虫なのか、
ミクロの苔なのか!
血まみれの森に潜り主題を持ち返るというのは、伝統的な地獄下りを思わせ、竪琴を持つ詩人オルフェウスを連想させるかもしない。
しかし、そのテーマは、「白砂糖(sucres blancs)」とか「ゴム(gommes)」にすぎないとされる。
pectoraireという単語は辞書には登録されていず、一応「胸に塗るパテ」という日本語にしてみたが、アルシッド・バヴァが作った新語(néologisme)。
pectoralが「胸の」という意味の形容詞であり、司祭の胸の上に飾る装飾から来た言葉。
そこで、pectoraireは、胸に関係するものを意味すると推測されるが、いずれにしろ、存在しない言葉。
要するに、これまでの詩の基本でもあったオルフェウス的なテーマは、今後、深刻な主題ではなくなる。
新語pectoraireは、そこに深刻な意味を見出そうとする読者を揶揄するために置かれたのだろう。
その後で、一人称複数の命令形で、「知ろう(sachons)」と言われる。
アルシッド・バヴァは誰に向かい、「ぼくたち」と言っているのだろう? 私たち読者だろか?
知る内容に関しては、「雪に覆われた山頂(Pics neigeux)」にある「金色のもの(blondeurs)」が、「虫(insectes)」であるのか、「苔(lichens)」であるのかということ。
ここでは、金色のもの、虫、苔などが何を具体的に指し示しているのかは問題ではない。
「熱帯地方(Tropiques)」の図鑑を開いたり、熱帯の動植物を扱った雑誌記事を探したりして、「卵を産む(pondeurs)」虫や、「ミクロの(microscopiques)」の苔の情報を探たりしたら、アルシッド・バヴァの罠にはまってしまう。
そのような読み方をしたら、現実をベースし、現実の事物を再現する伝統的な芸術観に従った読み方になってしまう。それでは、バヴァに揶揄されるだけだろう。
彼は、こう言っているのだ。
雪の上の金色のものがあるとして、熱帯に行くと、虫と捉えられることもあれば、苔と見なされることもある。
同じ物でも、雪の山頂と熱帯では、違うものに見なされ、違うものである可能性がある。
詩句に関しても、詩人が与えた意味と、読者の理解する意味では異なることがある。
詩は現実に依存するのではなく、それ自体が自立している。それが新しい詩なのだ。
そのように暗示した後、バヴァは詩人に向かい、「見つけろ!」という命令を5つの詩節に渡って連発する。
何を見つけろと言うのだろうか? 1詩節づつ見ていこう。
(28)
Trouve, ô Chasseur, nous le voulons,
Quelques garances parfumées
Que la Nature en pantalons
Fasse éclore ! − pour nos Armées !

見つけるんだ、おお、狩人よ、僕たちはそれを望んでいる、
香り高い何本かのアカネを。
「自然」が、ズボンの形で、
花咲かせるアカネを! — ぼくたちの「軍隊」のために!
「アカネ(garance)」の花からは、赤い染料をとり、フランスの軍隊では一時期、アカネの赤色(rouge garance)=深紅色をしたズボンが使われていたという。
「ズボン(pantalons)」とか、「軍隊(Armées)」は、そうした連想によるのだろう。
ここでは、そのアカネに「香りを付ける(parfumées)」ことで、視覚と臭覚を連動させ、言葉の狩人である詩人に、共感覚=コレスポンダンスを見出せと命じているのではないだろうか。
(29)
Trouve, aux abords du Bois qui dort,
Les fleurs, pareilles à des mufles,
D’où bavent des pommades d’or
Sur les cheveux sombres des Buffles !

見つけるんだ、眠れる「森」の端で、
花々、鼻面に似た花々を。
そこからは、黄金のポマードがよだれのように垂れている、
「水牛」の暗い髪の上に。
牛の「muffle(鼻面)」に似た花から、黄金のポマードが「水牛(Buffles)」の髪に垂れかかる。
「花(fleurs)」は、詩の隠喩。
「よだれを垂らす(baver)」は、ランボーにおいては、詩を紡ぐこと。
アルシッド・バヴァの「バヴァ(bava)」はbaverの単純過去形であり、その名前の意味は、「アルシッドはよだれを垂らした」、つまり詩を綴った、ということになる。
そこで、「金色のポマード(pommades d’or)」は黄金の詩句と言ってもいい。
muffles(鼻面)とbuffles(水牛)は音だけでなく意味的にも隣接する言葉であり、換喩関係にあると考えことができる。すると、花(詩)がポマード(詩)を水牛(詩)の上に垂れるというこの詩句は、「詩とは現実世界から自立し、詩の世界だけで完結するもの」という意味だと理解することができる。
(30)
Trouve, aux prés fous, où sur le Bleu
Tremble l’argent des pubescences,
Des Calices pleins d’Œufs de feu,
Qui cuisent parmi les essences !
見つけるんだ、狂った牧草地で、「青」の上で
繊毛の銀が震えている牧草地で、
火の「卵」に満ちた「萼」を、
植物のエキスの真ん中で煮える「萼」を。

牧草地で植物の「萼(Calices)」を見つけろという命令は理解できるが、それ以外のことを理解することは難しい。
牧草地の「青(Bleu)」とは何か? なぜBleuの最初が大文字なのか?

「繊毛、あるいは細く短い毛の状態(pubescences)」が何を指しているのか? それがわからなければ、「銀あるいは銀色(argent)」である理由もわからない。
「火の卵(Œufs de feu)」とは何か?
植物のエキスが何かもはっきりしないし、その真ん中で煮えているのが、「萼(Calices)」なのか、「火の卵(Œufs de feu)」なのかも決められない。
その意味では、そこはまさに「狂った(fous)」牧草地。全ては読者の解釈に委ねられている。
(31)
Trouve des Chardons cotonneux
Dont dix ânes aux yeux de braises
Travaillent à filer les nœuds !
Trouve des Fleurs qui soient des chaises !
見つけるんだ、綿毛の「アザミ」、
十頭のロバが、熾火の目をして、
一生懸命、結び目を紡ぐ「アザミ」を!
見つけるんだ、椅子である「花」を!

第31詩節では、二つのものを見つけるように指示する。
一つは「アザミ(Chardons)」。もう一つは「花(Fleurs)」。
アザミに関して、「綿毛状(cotonneux)」というのは自然なこと。
しかし、「ロバ(ânes)」がその花の「結び目を紡ぐ(filer les nœuds)」のは、どういうことなのかわからない。
ここでは、一方は自然、他方は不可解というコントラストの大きさが、この詩句の謎を深めていると考えたい。
わからないからこそ、読者は自分なりの解釈へと誘われてしまう。
「花(Fleurs)」に関しては、アザミよりも単純な謎かけが行われているために、ますますアルシッド・バヴァの仕掛けた罠にはまりやすい。
「椅子(chaises)」でありうる花とは何か?
(32)
Oui, trouve au cœur des noirs filons
Des fleurs presque pierres, − fameuses ! −
Qui vers leurs durs ovaires blonds
Aient des amygdales gemmeuses !
そうだ、見つけるんだ、黒い鉱脈の中心で、
ほとんど石である花を、— あの有名な!—
黄金の堅い子房に向かい、
粒々の扁桃を持つ花を!
これまでずっと「見つけるんだ」と言い続け、最後にもう一度同じように言う前に、「そうだ(Oui)」と口にする。それは、ここで一息つくというサインだろう。
その後、「花を見つけるんだ(trouve […] des fleurs)」と繰り返す。
その花に対して「有名な!(fameuses !)」という言うとしたら、アルシッド・バヴァの意識の中では、誰もが知っている花ということになる。
しかし、その花は不思議な花。
まず、「ほとんど石(presque pierres)」の花。
前の節では、椅子であるような花だったが、今度は石そのものになってしまう。

次に、さらに不思議な説明が続く。
南アメリカで栽培されるヴァニラの記述と関係があるらしい説明によると、「粒々の扁桃(amygdales gemmeuses)」とは、「花粉のザラザラした塊(une masse pollinique granuleuse)」で、花粉を入れる袋状のもの(葯)の中にあるという。
そして、花粉は、「黒い脈の中心(au coeur des noirs filons)」に広がっている。
アルシッド・バヴァは、恐らく、filonという単語を、植物から鉱物(鉱脈)へと移行させ、花と石を連結させ、「ほとんど石である花」という不思議なイメージを作りあげたのだろう。
それは現実に存在する花や石を参照するのではなく、言葉が作り出すイメージとして自立し、読者に解読を迫ってくる。
読者としては、解読の試みにトライすることもできれば、音として、あるいは音楽として、単に楽しむだけですませることもできる。
詩人が自由であるとすれば、読者にも自由がある。
(33)
Sers-nous, ô Farceur, tu le peux,
Sur un plat de vermeil splendide
Des ragoûts de Lys sirupeux
Mordant nos cuillers Alfénide !
ぼくたちに提供してくれ、おお、「道化師」よ、君にはできるはずだ、
光り輝く朱色の皿の上に乗せて、
シロップ状の百合の煮込み、
アルフェニード合金のナイフを腐食させる煮込み料理を!

「道化師(Farceur)」というのは、これまでにも「白い狩人(blanc Chasseur)」とか「Cher(愛しい友)」と呼ばれてきた詩人のこと。さらに言えば、手紙の受取人であり、『綱渡りのオード(Odes funambulesques)』の詩人でもあるテオドール・ド・バンヴィルへの呼びかけと考えてもいいだろう。
「ぼくたち(nous)」もすでに出てきたが、バヴァは私たち読者のことも考えているのだろう。
「道化師」に対して、お盆に乗せて出してくれというのは、「百合の煮込み料理(ragoûts de Lys)」。
その煮込みは、合金でできたナイフさえ「腐敗させる(mordant)」。

アルフェニード合金は1850年に発明された新しい素材であり、アルシッド・バヴァが望むのは、それさえもダメにする料理。
彼が「花について詩人に伝えること(Ce qu’on dit au poète à propos de fleurs)」として語ってきた花々は、全て詩の隠喩であり、百合の煮込み料理も詩を意味している。
とすれば、新しい合金のナイフとは同時代に制作された詩であり、そうした詩さえも腐食させてしまうほどの力を持つ新しい詩を作り出すように、「道化師」に伝えていることになる。
第4セクションでは、11詩節に渡り、アルシッド・バヴァは命令口調で勢いよく、新しい花=詩がどのようなものであるかという彼の考えを吐き出してきた。
その内容は、一般的な言葉のレベルでは理解を超えることが多くある。現実を写し取るのではなく、新しい世界を創造する志を詩人に求めているのだから、どんなに理解不能に見えようと、当然なことかもしれない。
私たち読者は、彼の謎かけのような言葉を読解しようとしてもいいし、無理に解釈しなくてもいい。
とにかく彼が吐き出す詩句を追いかけていると、エネルギッシュな勢いに飲み込まれ、息せき切った語り口に抒情性を感じるようになる。
すでに私たちは、33詩節、132行の詩句を追いかけてきた。
残るは、第5セクション、7詩節、28行の詩句。
最後にバヴァは何を言うのだろうか?