ネルヴァルの美学 Esthétique de Gérard de Nerval 1/6 音楽性と超自然主義 

ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-1855)は、ユーモアに富んだ皮肉屋。しかも、恥ずかしがり屋で、自分について語る時でも、面白おかしい演出を施して、なかなか本心を掴ませない。

最後は、パリの場末にあった安宿屋の窓で首を吊るという劇的な場面を準備し、死後のネルヴァルのイメージに大きな影響を与えた。
実際、首吊り自殺がセンセーショナルなニュースになり、夢見がちで現実を顧みない作家だったとか、一人の女性への失恋のために狂気に陥り、そのことが彼の作品を決定付けたとか、色々なことが言われた。ザリガニに紐をつけ、犬のように公園を散歩していたとか・・・。
その余波は現在でも続き、ネルヴァルの詩や散文作品は、夢、理想の女性の喪失による狂気、神秘主義といったレッテルを貼られることが多くある。

マルセル・プルーストとの関係が取り上げられることもある。意図しない時にふと湧き上がる思い出が作品世界を形成するという創作方法が『失われた時を求めて』の原型であるとされ、プルーストの先達という位置づけをされる。そんな時、ネルヴァル作品の価値が真正面から取り上げられることはほぼない。

全てはネルヴァルが自死の演出を暗い場末でしたことが原因。そう言ってしまえばそうかもしれない。
2020年に代表作の一つである『火の娘たち(Les Filles du feu)』が、野崎歓さんの翻訳で岩波文庫から出版されたが、今までと変わらず、複雑でわからないとか、叶えられない夢を追う男の幻想的で夢幻的な話として読まれてしまう。

しかし、それでは、ネルヴァルはいつまでたっても同じ読み方しかされない。彼が生涯をかけて作り出した作品の意義も、美しさも、埋もれたままになってしまう。

少しでもネルヴァルが試みたことに接近するために、ここでは彼の美学について辿ってみることにする。

作家としての活動が折り返し点に達したと意識した1850年のこと、ネルヴァルは詩や民謡について語りながら、こんなことをふと口にした。

On dira que nous ne savons écrire qu’en prose. – Mais où est le vers ?… dans la mesure, dans la rime – ou dans l’idée ? (Les Faux-Saulniers)

私たちは散文でしか書くことができない、と言われることになるかもしれない。— しかし、韻文がどこにあるというのか?・・・ 拍子の中、韻の中 — あるいは思考の中?  (「塩密売人たち」)

19世紀半ばまで、詩と言えば韻文と決まっていた。音節数が決まり、韻を踏み、母音衝突がないことが、韻文の最も基礎的なルールだった。
逆に言うと、韻文でさえあれば、全て詩と見なされた。

ネルヴァルはそうした状況に疑問を呈し、「韻文はどこにあるのか?」と問いかける。
言い換えると、詩とは何か、散文ではポエジーを生み出すことはできないのか、という挑戦的な問いでもある。

彼は若い頃から韻文の詩を書いているし、散文も書いてきた。そうした中で、人生の折り返し点にさしかかったという自覚が出てきた時、彼が求めているものがはっきりと見えてきたのだろう。
それを一言で言えば、韻文だけではなく、散文でもポエジーを生み出す作品を創造すること。
主題は同時代の社会の場末の人々でも、思い出でも、狂気でもいい。狙うのは、詩情を作り出し、読者を忘我的恍惚へと導くこと。

では、ネルヴァル的ポエジーとは何で、どのようにそのポエジーを作り出すのか?

16世紀のフランス詩の音楽性とドイツ・ロマン派の超自然主義

ネルヴァルのデビューは、ゲーテの『ファウスト』第一部の翻訳(1827年)だった。
その出版以降もドイツの詩の翻訳を続け、1830年には一冊の本にまとめて出版した。
同じ1830年、16世紀フランスの詩人たちの選集を、序文を付けて出版。その中心はロンサール。
その間に、韻文詩等を書いてはいるが、本格的な文学的出発点にはこの二つの詩選集があるといってもいい。

ドイツ詩の翻訳からネルヴァルが得た滋養とは何か?
一つの用語を使えば、それは「超自然主義(surnaturalisme)」だといえる。

自然を超えたものの存在を認め、その存在こそが現実よりも真実だと見なすこと。そして、その存在に達したいと強い憧れを持つこと。
ゲーテの「魔王」や「トゥーレの王」を思い出すとわかるように、死への恐れと憧れが同時に感じられる世界が超自然的だといえる。
超自然世界の存在を信じることは、逆の視点に立つと、目の前にある自然は作り物であり、幻影ではないかと疑いを持つことにもつながる。

16世紀の詩人たち、とりわけロンサールから得たものは何か?
最も重要なのは、言葉の音楽性。
何を語るかではなく、どのように語るかが問題であり、その語り方で最も重要なのは音楽性。

ネルヴァルは、ロンサールの有名な詩「愛しい人よ、バラを見に行こう(Mignonne, allons voir si la rose)」等の短詩についてこう言う。
時間の流れの速さといったテーマは数えられないほど繰り返されてきて、誰でもすでに知っている。それでも、同じテーマの詩が魅力を持つのはなぜか。

Eh bien ! nous autres Français, qui attachons toujours moins de prix aux choses qu’à la manière dont elles sont dites, nous nous en laissions charmer, ainsi que d’un accord mille fois entendu, si l’instrument qui le répète est mélodieux. (Introduction aux choix des poésies de Ronsard)

そうだ! 私たちフランス人は、事物そのものよりも、どのように言われるかに価値を置くのが常なのだ。私たちがそうした詩(同じテーマの短詩)に魅了され続けるのは、すでに何千回となく耳にした和音でも、それを反復する楽器が美しい調べを奏でれば、魅了されるのと同じこと。

詩において主題は最重要課題ではない。より重要なのは、どのように語るかという語り方にある。こうした考え方は、17世紀から当たり前のこととして受け入れられていた。
理想は古代にあり、テーマは神話や聖書から取られることが基本。また、聖書の中に書かれた「太陽の下、何一つ新しいものはない」という考え方もよく知られていた。
従って、一つ一つの作品で異なるのは、語り方、描き方ということになる。
音楽を演奏する場合、同じ楽譜でも、指揮者によって曲想が違っていることを思うと、こうした芸術観がすんなりと理解できるに違いない。

語り方に関して、ネルヴァルは、音楽性の重要性を強調する。
同じ一つの和音が奏でられるとき、それが人の心を魅了するには、「楽器が美しい調べを奏でる(l’instrument (…) est mélodieux)」ことが必要なのだ。
どんなに言い古された言葉でも、音楽的であれば魅力的になり、人々の心を楽しませ続けることができる。

ところで、ドイツ詩と16世紀のフランス詩から学んだ「超自然主義」と「音楽性」は、決して別々に切り離されたものではなく、ネルヴァルの中では一つに結びついている。
それを示すのが、オドレットと呼ばれる短詩の形式に則ったいくつかの詩。

「セレナード」と「ファンテジー」

そうしたオドレットの一つが、1832年に発表された「病気の少女(La Malade)」。
病気で死にゆく少女の耳に穏やかな歌声が聞こえるという内容を持つこの詩は、後に「セレナード(La Sérénade)」という題名に変更され、音楽的な側面が強調される。
その時には、ドイツの詩人ルートヴィヒ・ウーラントの詩の模倣で、ユゼフ・ミハウ・ポニャトフスキの音楽で奏でられるという断り書きが付けられる。ドイツ的な超自然主義と音楽が融合の印であるといえる。

La Sérénade
      ( D’Uhland)

— Oh ! quel doux chant m’éveille ?
— Près de ton lit je veille,
Ma fille ! et n’entends rien…
Rendors-toi, c’est chimère !
— J’entends dehors, ma mère,
Un chœur aérien !…

— Ta fièvre va renaître.
— Ces chants de la fenêtre
Semblent s’être approchés.
— Dors, pauvre enfant malade,
Qui rêves sérénade…
Les galants sont couchés !

— Les hommes ! que m’importe ?
Un nuage m’emporte…
Adieu le monde, adieu !
Mère, ces sons étranges
C’est le concert des anges
Qui m’appellent à Dieu !

Musique du prince Poniatowski


セレナード
 (ウーラントを模倣して)

— ああ! なんて穏やかな歌が私を目覚めさせるの?
— お前のベッドの傍らで、母さんが見張っているのよ。
可愛い子! 母さんには何も聞こえないわ!・・・
お眠りなさい、幻聴なのよ!
— 外で聞こえているの、母さん、
空のコーラスが!・・・

— 熱がまた出てくるわ。
— あの歌が、窓辺に
近づいてきたみたい。
— 眠るのよ、かわいそうな病気の子・・・
セレナードの夢を見ているのね・・・
声を掛けてきた男の人たちはもう寝てるのよ!

— 男の人たち! 私にとって大切だっていうの?
雲が私を運んでいく・・・
さよなら、みんな、さようなら!
母さん、変な音がする。
天使たちのコンサート、
私を神様のところに呼んでいる!

                        ポニャトフスキの音楽

非常に素朴な詩句だが、声に出して読んでみると、音楽性に富んでいることがはっきりと感じられる。
まさに「空のコーラス(chœur aérien)」のようであり、セレナードともいえる。

他方で、少女は死の床にあり、「幻覚(chimère)」の音楽が彼女にだけ聞こえている。
付き添っている母親にはそれが聞こえないために、超自然な雰囲気がより強いものとなり、ドイツ・ロマン派を思わせる。
「セレナード」は、まさに音楽と超自然主義が融合している詩なのだ。

こうした音楽性に乗りながら、神秘的な雰囲気をドイツからフランスに移行させると、「ファンテジー(Fantaisie)」になる。

    Fantaisie

Il est un air pour qui je donnerais
Tout Rossini, tout Mozart et tout Weber ; ( Webreと発音する。funèbreとの韻のため。)
Un air très-vieux, languissant et funèbre,
Qui pour moi seul a des charmes secrets.

Or, chaque fois que je viens à l’entendre,
De deux cents ans mon âme rajeunit :
C’est sous Louis treize… Et je crois voir s’étendre
Un coteau vert que le couchant jaunit,

Puis un château de brique à coins de pierre,
Aux vitraux teints de rougeâtres couleurs,
Ceint de grands parcs, avec une rivière
Baignant ses pieds, qui coule entre des fleurs.

Puis une dame, à sa haute fenêtre,
Blonde aux yeux noirs, en ses habits anciens…
Que, dans une autre existence peut-être,
J’ai déjà vue ! — et dont je me souviens !

https://bohemegalante.com/2019/07/03/nerval-fantaisie/

     ファンテジー

一つのメロディがある。そのためなら、あげてしまってもかまわない
ロッシーニの全て、モーツアルトの全て、ウエーバーの全てを。
とても古いメロディー。物憂く、暗い。
でも、私にだけは、密かな魅力がある。

そのメロディーを聞く度に
二百年、私の魂が若返る。
ルイ十三世の時代だった・・・ 目の前に広がるように思える、
緑色の小さな丘が。夕日が黄色く染めている。

次に見えるのは、レンガのお城。角は石造り。
窓のステンドグラスは赤っぽい色に染まっている。
その周りには大きな庭があり、小川が
城の足元を濡らし、花々の間を流れている。

次に、高窓のところに、一人の女性が見えてくる。
金髪で、黒い目。古い時代の服を身を身にまとう。
たぶん、別の時代に生きていた時、
すでに彼女を見たことがある!— そして今、思い出す!

音楽性は、ロッシーニ、モーツアルト、ウエーバーの曲全てと交換してもいいと言うくらい素晴らしい一つの鄙びた唄という詩句で、明確に示されている。「ファンテジー」自体がその「唄(air)」とでもいうかのように。

詩の内容は、200年前の前世の記憶が甦るというもの。
ルイ13世の時代、夕日に照らされた緑の丘、レンガと石で作られた古い城の窓辺に姿を現す美しい女性。その思い出は、超自然な世界の雰囲気を漂わせている。

参考に日本語を付けてあるが、フランス語の詩句の音楽性はフランス語でしか味わうことができない。
本当に美しく、ネルヴァルがドイツ詩と16世紀フランスの詩から摘み取った種が、このオドレットで見事に開花している。
「ファンテジー」は、ネルヴァルが目指す美の、一つの到達点といってもいいだろう。

フランスの古い民謡  韻文の改革

音楽性と超自然主義の融合を、ネルヴァルは古いフランスの民謡の中にも感じ取り、その美を韻文詩の革新のために役立てようとしたこともある。

彼は、ロマン主義時代に特に重要視された豊かな韻(rime riche)を束縛と感じ始め、韻文の形式主義のために、エリートたちの詩と一般の人々の楽しむ詩が分離してしまったと考えた。
そして、彼の興味は、昔から歌われてきた「民謡(chanson populaire)」へと向かう。

最初に民謡関係の記事を公にしたのは1842年。「フランスの古いバラード」という題名で、いくつかの民謡を紹介し、韻文詩とは違う歌詞の魅力を明らかにした。
その核心が音楽性と超自然主義であり、民謡の魅力をその二つの視点から推奨した。

音楽性は、韻を踏まずに、母音反復(assonance)を使うことで生み出すことができるとネルヴァルは言う。

[…] mais la rime, cette sévère rime française, comment s’arrangerait-elle du couplet suivant :

     La fleur de l’olivier
     Que vous avez aimé
     Charmante beauté !
     Et vos beaux yeux charmants,
     Que mon cœur aime tant,
     Les faudra-t-il quitter ?

 Observez que la musique se prête admirablement à ces hardiesses ingénues, et trouve dans les assonances, ménagées suffisamment d’ailleurs, toutes les ressources que la poésie doit lui offrir.

しかし、韻、フランスの厳密な韻が、どのようにして次の歌詞と折り合いを付けることができるだろう。

     オリビエの花
     あなたがあんなに愛した花
     魅力的な美しさ!
     あなたの魅力的な美しい目、
     私の心がこんなに愛している目を、
     いつか見れなくなるのだろうか?

 注視して欲しいのは、これらの無邪気で大胆な歌詞に、音楽が見事に適合していて、十分に配置された母音反復の中に、詩が提供しうる全ての手段を見出すこと。

文学的な観点からすれば、決して誉められるものではない歌の歌詞に対して、ネルヴァルは音楽性を強調し、それが母音反復から来ていると説明する。
韻を規則通りに踏まなくても、音楽性の豊かな詩句は可能。そうした彼の主張を証明するのが、民謡の素朴な歌詞ということになる。

例えば、詩の規則では、同じ言葉できるだけ避けないといけない。
その一点だけ取っても、上の詩句では反復が多い。
Aimer, charmant, beau-beauté.
こうした反復は稚拙と見なされる。
しかし、この歌の中では、それらの単語に含まれる母音が至る所に現れ、素晴らしい音楽を生み出している。

超自然主義に関しては、フランスの民謡はドイツやイギリスの歌と比べ、決して劣ってはいないと論じる。

Le (le simple berger) voilà qui chante et qui rêve :

     Au jardin de mon père,
     Vole, mon cœur vole !
     Il y a z’un pommier doux,
     Tout doux !

     Trois belles princesses,
     Vole, mon cœur vole,
     Trois belles princesses
     Sont couchées dessous, etc.

 Est-ce donc la vraie poésie, est-ce la soif mélancolique de l’idéal qui manque à ce peuple pour comprendre des chants dignes d’être comparés à ceux de l’Allemagne et de l’Angleterre ? Non, certes […].

どこにでもいる羊飼いが、ほら、こんな風に歌い、夢見る。

     父の庭に、
     飛んでいく、私の心が飛んでいく!
     一本の甘いリンゴの木がある。
     とっても甘い!

     三人のお姫様、
     飛んでいく、私の心が飛んでいく!
     三人のお姫様が
     その下に横たわっている。等々。

 本当のポエジー、理想を求めるメランコリックな渇きが、こうした民衆に欠けていて、ドイツやイギリスの歌に匹敵する歌を理解できないというのだろうか? 決してそんなことはない。

この羊飼いの歌も、詩法の点から見れば、決して誉められたものではない。
とりわけ避けなければならない母音衝突がil y aとun pommierの間で起こっているために、z’unとzの音を付け足しているところは、規則違反も甚だしい。

しかし、ネルヴァルは、こうした歌詞には「本当のポエジー(vraie poésie)」があり、それを別の言葉で言えば、「理想に対するメランコリックな渇き(soif mélancolique de l’idéal)」だとする。

ポエジーのこの定義は、ネルヴァルがロマン主義的感受性の持ち主であることをはっきりと示している。
「理想」とは、時間の流れる現実と対立する永遠の世界であり、人間は決して到達することができない。
到達できないからこそ、憧れるのであり、不可能性を感じているからこそメランコリックになる。
そのメランコリックな渇きが、抒情的なポエジーを生み出す。

「ロマン主義的で騎士道風の真正な詩(la vraie poésie romantique et chevaleresque)」に属するとネルヴァルが言う「ルイ王の娘(La Fille au roi Louis)」を、幸いyoutubeで聞くことができる。

メランコリックな雰囲気に満ちた民謡。ドイツ・ロマン派の超自然主義を栄養として養った感受性は、こうしたフランスの古い民謡に耳を傾け、ロマン主義的な抒情性を感じたことだろう。

1842年のネルヴァルは、超自然主義と音楽性をそなえ持つフランスの古い民謡の美しさを明らかにし、そのことを通して、エリートにしか通用しない型にはまったフランス詩に刷新をもたらそうとした。

ちなみに、1850年になると、ここで紹介したような民謡をパリの北方に広がるヴァロワ地方と結び付け、地方色やネルヴァル個人の思い出として紹介するようになる。


以上で見てきたように、1830年から1840年を超えた頃にかけて、ネルヴァルは、音楽性と超自然主義を柱に据えた美を追い求めていた。
そうした詩的気質は、ドイツのバラード、16世紀のフランス詩、フランスの素朴な民謡によって養われ、彼の美意識を形成していったと考えることができる。

ネルヴァルは、その後、1843年を中心にした約一年間、エジプト、シリア、トルコといったオリエントの国々を旅し、本来の気質に新たな要素を付け加えていくことになる。(2に続く)




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