ピエール・ド・ロンサール ルネサンスの抒情詩と天球の音楽 1/2 フランス語の擁護と顕揚

ピエール・ド・ロンサールは、16世紀フランスにルネサンス文化が開花した時代に活躍した詩人。
1550年頃に人文主義者や詩人たちで形成された「プレイアッド派」と呼ばれるグループを主導、フランス語の充実と新しいタイプの詩の確立に力を尽くし、「詩人たちの王」と呼ばれるほど絶大な人気を博した。

1524年に生まれたロンサールは、フランソワ1世の治世(1515-1547)に青春時代を送り、実際に活動を始めたのはアンリ2世の時代(1547-1559)。イタリアから移入されたルネサンス文化がフランスに根付き、一つの頂点を迎えようとしていた。
その象徴ともいえるのが、アンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエ。
王が彼女に与えたシュノンソー城、彼女を描いたフォンテーヌブロー派の絵画、それらの洗練された美が、国力の充実と上昇した文化水準をはっきりと示している。

今の日本では、ピエール・ド・ロンサールという名前は、バラの品種として知られている。
その名称は、彼の最も有名な詩「可愛い人よ、見に行こう、バラの花は(Mignonne, allons voir si la rose)」に由来する。

そのバラの花に見られるような優雅で上品な美しさを持つロンサールの詩は、とりわけ音楽的な要素によって、ルネサンス文化の大きな花の一つになった。

1524年、ロワール河流域に位置するラ・ポワソニエール城で、貴族の息子として生まれたピエール・ド・ロンサールは、少年時代に軍人や外交官の道を目指し、王族や外交官に従いイギリスやドイツで過ごした。

しかし、1540年に難聴に襲われ、それまでの道を諦め、学問や詩作の道に進むことになる。
人文主義者ジャン・ドラの指導の下、ロンサールはギリシア語や古典文学等を徹底的に学んだ。そして、共に学問に励んだ仲間たちと共にプレイアッド派を形成するようになる。
ジョアシャン・デユ・ベレーの名前で1549年に発行された『フランス語の擁護と顕揚(Défense et Illustration de la langue française)』は、彼らの文学的な宣言だといえる。

ロンサールは1550年に『オード集(Quatre Premiers Livres des odes et de Bocage)』を出版して以降、『恋愛詩集(Les Amours)』、『賛歌集(Hymnes)』等を矢継ぎ早に出版する。

1558年頃、王から公式に雇われるようになり、王や貴族たちを賞賛する詩、時事的な詩も執筆した。
1562年に宗教戦争が始まると、『今の時代の悲惨についての演説(Discours des misères de ce temps)』といった政治にかかわる詩も書いた。
さらに、フランスの歴史を歌った叙事詩『ラ・フランシアード(La franciade)』も手がけたが、結局は未完に終わる。

1574年にシャルル9世が亡くなると、ロンサールは王室から離れるが、詩作活動が衰えることはなかった。
1585年、ロワール河流域にある都市トゥールで生涯を終える。

フランス語の擁護と顕揚

『フランス語の擁護と顕揚』はジョアシャン・デュ・ベレーの名前で公にされたが、実質的にはロンサールを中心とする詩人グループが、過去の詩と訣別し、新しい詩の成立を宣言したマニフェストだといえる。

1550年世代の文学者たちにとって、まず第一に、フランス語を擁護する必要があった。というのも、フランス語は長い間ラテン語よりも劣った言語と考えられてきたからである。
1539年、フランソワ1世が「ヴィレル=コトレの勅令」を出し、公式文書をラテン語ではなくフランス語で記すことが定められてから、まだ10年しか経っていなかった。

ロンサールやデュ・ベレーの主張は、まず第一に、フランス語はラテン語やギリシア語のような優れた言語になる可能性があり、だからこそ「地方語(langue vernaculaire)」であるフランス語を豊かに発展させる必要があるということだった。
そのための手段が、古典を手本にし、「翻訳(traduction)」ではなく、「模倣(imitation)」すること。
そして、詩のジャンルとして、オード(ode)やソネ(sonnet)という新しい形式を試みること。
そのようにして、フランス語の充実と詩の刷新を行うことが、プレイアッド派の中心的な課題として提示された。

今の私たちから見て分かりにくいのは、「模倣」についての考え方だろう。
現代は独創性が重視されるため、模倣は一段低いものと考えられ、盗作と見なされることもある。
しかし、19世紀以前には、芸術創造の基本は「模倣」だった。

ルネサンス以来、芸術の理想は古代ギリシア・ローマの作品と定められ、模範はそこにあった。人文主義者たちも常に古典に手本を求めた。
デュ・ベレーたちが「模倣」を勧めるにあたっては、まず真似るべき作品の作者になりきり、作品を消化し、血肉化することが求められる。
その上で、古典作品をフランス語で書き直すこと。
そうすることによって、フランス語は古典思想や詩を表現することができる言語となり、フランス語で書かれた作品も古典作品に匹敵するものになる。

ロンサールはそうした「模倣」の実践者であり、カッサンドルに捧げられたオード「可愛い人よ、見に行こう、バラの花は」(1550)はその最も成功した例といえる。

可愛い人よ、見に行こう。バラは、
朝、陽に照らされ、
緋色のドレスをひらいていた。
でも、夕方、失わなかっただろうか、
緋色のドレスの襞も、
あなたの肌の色に似た花の色合いも。

ああ、見ておくれ。どんな風にして、こんな短い間に、
可愛い人よ、バラが、すぐに、
ああ、ああ、美しい花々を散らせていったのか!
おお、本当に、意地悪な「自然」よ、
こんなきれいな花も、美しさが続くのは、
朝から夕べまで。

だから、もし信じてくれるなら、可愛い人よ、
あなたの若さが花開き、
一番新鮮な時にこそ、
摘むのです、摘み取って下さい、あなたの青春を。
この花のように、いつか老年が
あなたの美しさを、曇らせてしまうのですから。

詩の形式である「オード(頌歌)」とは、古代ギリシアの演劇の中で詩人や合唱隊が歌った「歌曲」であり、叙事詩の形式となった。
それまでフランス詩の中では使われていなかったオードを用いることで、ロンサールはフランスに新しい詩の形式を導入した。

オードという抒情詩の形式が、本来は歌であったことは重要である。
「抒情詩(poésie lyrique)」とは、歴史や神話の出来事を歌う叙事詩とは対照的に、感情を歌う詩だと考えられがちである。しかし、本来は「リラ(lyre)」と呼ばれる竪琴に由来し、楽器の伴奏で歌われるものだった。
「可愛い人よ、見に行こう、バラの花は」も、歌われることを意識して作られたと考えていい。

詩の内容に関しては、二つの古典を手本にしたと考えられる。
1)古代ローマの詩人ホラティウスの『歌集』(Carmina)に出てくる「カルペ・ディエム」の詩句。

この日を掴め、明日のことは信じず

Carpe diem, quam minimum credula postero

「この日を掴め(カルペ・ディエム)」という表現は、時の移り変わりの早さ、現世の虚しさを表し、今を楽しむことを勧める快楽主義のモットーとして理解されることもあれば、今を充実させて生きるようにという教訓として理解されることもある。

2)アウソニウスあるいはウェルギリウス作とされる「バラの蕾(De rosis nascentibus)」。

摘め、少女よ、バラを、若さがお前とバラとともにあるうちに。
思い出せ、バラのように、お前もいつか枯れることを。

collige, virgo, rosas dum flos novus et nova pubes,
et memor esto aevum sic properare tuum.

ロンサールは、こうした古代ローマの詩人たちの詩句を手本として「模倣」し、「摘んで下さい。摘み取って下さい、あなたの青春を(Ceuillez, cueillez votre jeunesse)」というフランス語の詩句を作り上げた。
まさに、プレイアッド派の推奨した詩法の実践である。

同様の例は、晩年においても行われた。
1578年に発表された『エレーヌへのソネット』にも、カルペ・ディエムに基づいた詩が見られる。
ソネットとは、イタリアの詩人ペトラルカの用いた14行詩(4/4/3/3)。1550年世代の詩人たちが中心になり、その詩の形式をフランス詩の中に定着させた。

あなたが年老い、夕べ、燭台の横で、
暖炉の近くに座り、糸をくくり、糸を紡ぐ時、
こう言うことでしょう、私の詩句を歌いながら、うっとりとして。
「ロンサールが私を讃えてくれたのでした。私が美しかった時に。」

その時にあなたにお仕えする召使いは、その言葉を耳にし、
すでに仕事で疲れ、半ばうとうとしながら、
ロンサールという名前が耳に入り、目を覚まし、
あなたのお名前を、不滅の賞賛で、祝福するでしょう。

私は地面の下、骨もない亡霊になっているでしょう。
地獄の闇の中で、休息しているでしょう。
あなたは家の中で、体の縮こまった老婆になっているでしょう、

私の愛と、あなた自身のプライドの高い振る舞いを、後悔しながら。
生きて下さい、私を信じるならば、明日を待たないで下さい。
今日すぐに、命のバラを摘んで下さい。

(ロンサールの詩に現代の曲が付けられ、歌われている例。)

この詩を書いた時、ロンサールは54歳。当時としてはすでに老年になっていた。
彼はすでに大詩人として認められ、ある意味では彼自身が「不滅の賞賛」を意識していたことだろう。
また、死を意識していたかもしれない。墓穴に埋められ、骨さえなくなってしまう姿は、時が経過し、全てを破壊してしまう時間を生々しく感じさせる。

そうした中で、カルペ・ディエムという古典的なテーマを取り上げ、ソネットの最後の2行に至り、明確にラテン語の詩句を参照していることを示し、フランス語で「模倣」する。
その際には、バラに命を授け、「命のバラ(roes de la vie)」を摘むよう、愛する人に懇願する。

注目すべきことは、詩人が女性の美しさを讃えたために、その美は永遠に留まるということである。
とすれば、女性の美を讃えるだけではなく、その賛美を綴るフランス語の詩句の価値も同時に讃えていることになる。
従って、ソネット「あなたが年老い、夕べ、燭台の横で」は、ロンサールの名声が確立した後、青年時代に『フランス語の擁護と顕揚』で示されたプログラムが実現されたことを、高らかに歌っていることにもなる。
古典を模倣することで、フランス語はギリシア語やラテン語に匹敵する言語になり、フランス詩もホラティウスやヴェルギリウスの詩と肩を並べるまでに至る。
ロンサールの抒情詩は、その実践例として自己主張しているのである。

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