「新大陸」を前にしたラブレーとモンテーニュ

16世紀、「新大陸」が文学のテーマとして登場することがあった。
フランソワ・ラブレーは、『パンタグリュエル物語』(1532)において、巨人パンタグリュエルの口の内部を「新世界」に見立て、滑稽なエピソードを語った。
ミッシェル・ド・モンテーニュは『エセー』(1580)の「人食い人種について」の章で、ブラジルの原住民たちに関する風俗を取り上げ、文明論を展開した。

同じテーマに対する二人の作家のアプローチを比較することは、16世紀前半と後半の時代精神の違いを知ることにつながると同時に、ラブレーとモンテーニュをよりよく知るための方法にもなる。

そのための前提として、新世界を巡る当時の状況を手短に思い出しておこう。

中世末期、ルネサンス、近代初期にかけて、西洋の国々は大航海の時代を迎える。
最初はアフリカに向かい、アジアへ。さらには、アメリカ大陸へと進出した。1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカを「発見」したと言われるのは、そうした海外進出の象徴的な出来事といえる。

日本に関していえば、1543年、種子島に火縄銃が伝えられ、1549年になるとイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが山口や大分でキリスト教の布教活動を行うなど、西欧との接触が始まった時期でもある。

こうした時代以前、西欧の国々にとっての世界とは、ヨーロッパ自体と十字軍が向かった地中海の向こう側であり、それ以外の地域は存在していないも同然だった。
古代ギリシアの哲学者プラトンは、ジブラルタル海峡の外側に巨大なアトランティス島があったが、大地震と大洪水のために海底に沈んだと記している。
しかし、アリストレスはその実在を否定している。そのことは、自分たちの世界の外の世界は空想上の産物と見なされたことを暗に示している。

古代ギリシアでは、自分たちの世界の中でも、ペルシア人などの他民族を「バルバロス(聞きづらい言葉を話す者)」と呼んだ。そして、彼らを奴隷として使ううちに、バルバロスは野蛮な民族を指す言葉になった。

大航海の時代、ヨーロッパ人が「新大陸」を「発見」した時、古代ギリシア人がしたのと同じように、発見された地域に住む人々を野蛮な民族だと見なした。
その意識があったために、ヨーロッパは近代の重商主義の時代になってからも、発見した地域を植民地とし、現地人を奴隷として扱うことを正当化できたのだろう。

21世紀の視点から見れば、「新大陸」は全く新しいものではなく、そこにはすでに人々が住み、その地に相応しい生活をしていたと考えるのは普通である。ヨーロッパ人が侵略し、植民地化し、搾取した。彼らにとっての発見とは、他の地域にとっては侵入であり、決して「新大陸発見の時代」ではない。

Carte de la France antarctique

フランスに関して言えば、1555年から1560年の間、ブラジルのグアナバラ湾の島を「南極のフランス」という名称で植民地化した。
そこにはすでに宗教戦争を逃れたプロテスタントたちが移住しており、フランスはブラジルとの関係を深めていたのだった。ブラジルに関する旅行記等も出版され、現地人の「野蛮な」風俗が語られることもあった。
モンテーニュはそうした記述を利用し、「人食い人種について」の冒頭で、「南極のフランス」を作り上げた中心人物ニコラ・デュラン・ド・ヴィルガニョン(Nicolas Durand de Villegagnon)の名前を挙げている。

21世紀を生きる私たちが、当時のヨーロッパだけに留まらず、現在でも続く西洋中心の世界観を批判的に眺め、差別や偏見をできるかぎり遠ざけることは、この上もなく重要である。
しかし、当時の歴史や文学作品を検討する場合には、第一段階ではとりわけ、現代の視点を持ち込まないようにする必要がある。現在、コロンブスはアメリカ大陸の発見者ではなく、人種差別に基づく植民地主義者とする見方もある。しかし、その視点から当時の歴史を再評価することは、当時のヨーロッパが行った一元的な世界観を他の時代に押しつけるのと同じことになりかねない。
最初にするべきことは、一つの時代にはその時代の見方があるという認識。その見方を知り、時代の文脈の中でそれぞれの行為がどのような意味を持つかを探ること。
そうすることで、ラブレーやモンテーニュの取り組みの斬新さが明確になる。

パンタグリュエルの口の内部 南極のフランス

ラブレーの目指すことは、「笑いながら真実を語る」こと。滑稽なエピソードを通して、ラブレー的真実を伝えようとした。
モンテーニュは、常に変化する「私」を材料にして実験と考察を重ね、一人の人間の生の姿をできる限り誠実に描き出そうとした。その試みは、一人の個人が人間全体のひな形であるという考え方に立ち、人間という存在がどのようなものかを浮かび上がらせることでもある。
従って、二人の作家の作り出す世界は、まったく違っている。ラブレーは寓話の世界であり、モンテーニュは思考の世界である。

その二人が「新世界の発見」を前にして、どのような物語を作り、何を語ったのだろうか?

1532年に出版された『第2の書 パンタグリュエル物語』の中で「新大陸」を思わせるのは、巨人パンタグリュエルの口の内部である。
彼の軍隊がアルミロード族を制圧するために進行している最中、大雨に襲われる。そこで巨人は舌を少し出し、雌鶏が雛たちをおおうように、軍隊全体をおおってやる。
ただし、語り手である「私」アルコフリバスは、別の場所にいたために場所を確保することができない。そこで、巨大な舌の上に登り、8キロも歩いてパンタグリュエルの口の中に入っていく。

そこは、イスタンブールのサント・ソフィア寺院のようだし、巨大な歯はデンマークの山のよう。大草原や森があり、リヨンやポワチエにも劣らない厳めしい街も見えてくる。
そのまま続けて歩いていくと、タマネギを植えている男や鳩を網で捕まえようとしている男と出会う。その後、町に到着すると、ペストのために死者が数多くでている。そのために、門番から健康証明書を出すように言われる。
その町を出て、パンタグリュエルの歯である岩の間を上って行くと、そこはイタリア風の素晴らしい建物の立つ娯楽地のようになっている。「私」はそこに4ヶ月滞在する。
その地を後にして、唇の裏側に行くことにするが、途中、耳の近くで森になっている場所があり、強盗に襲われる。
その災難の後、坂を下りて村に着き、今度はご馳走を食べて暮らすことができる。その村では、眠ることでお金を稼ぐことができたりするのだった。「私」はそこで『ゴルジアス(喉の住人たち)の歴史』という本を書く。
最後に、口の中から出て、髭をつたって肩に下り、パンタグリュエルの前に降り立つ。

このように、パンタグリュエルの舌、歯、耳、髭、肩など体の部位に言及され、口の中の世界が描かれていく。その意味で荒唐無稽な空想の産物であるが、しかし、ほどんど現実世界の写しのようでもある。
このどこが「新世界」なのだろう?

実は、その問いは、口の中の世界に入ったばかりの「私」の問いでもある。
最初に出会うタマネギを植えている男に向かい、何をしているのかと問いかけた後、次のように付け足す。

「イエス様」と私は言う。「ここは新世界なのですか?」
「全然」と彼は言う。「新しくはない。でも、ここから外に行くと新しい世界があるらしい。そこには太陽や月だけではなく、いい仕事もたくさんあるという。でも、こちらの世界の方がもっと古いんだ。」

この会話から、ラブレーが巨人の口の中の世界を描きながら、「新世界」と「旧世界」を意識していることが明らかになる。
タマネギを植える男がいるのは、パンタグリュエルがニンニクを食べた後でゲップをすると、それがペストになる国。その伝染病は、ラブレーがこの物語を出版した1532年頃に北ヨーロッパで大流行していたペストの反映であり、「旧世界」の現実である。

さらに、パンタグリュエルの口の内部の世界も二つに分かれている。そこでは、ペストの蔓延する世界と、森で強盗に襲われた後にたどり着く谷の中の村。
その村では、食べたことがないご馳走を食べることができ、お金を稼ぐ手段は寝ること。ペストが一週間で226万16人もの人間の命を奪う町とは正反対の、楽園のような世界である。

その「新世界」は、大航海の末にたどり着いた新大陸の現実を反映しているものではない。むしろ単なる空想上のユートピアであり、現実性を欠いている。
しかし、ラブレーは「新世界」という言葉を使い、「新」と「旧」を対比させている。

16世紀後半のモンテーニュの時代になると、すでに数多くの旅行記が出版され、しかもフランスにブラジル人が来ることもあった。
1550年には、アンリ2世がルーアン市に入場する際の祝典に、50人のブラジル人が招かれ、ブラジル祭という出し物が上演された。
1562年になると、シャルル9世がルーアンの町を新教徒の手から奪還した祝典が行われた際、モンテーニュも同席し、三人のブラジル人との会見に立ち会ったという。
さらに、『エセー』の記述を信じれば、彼の召使いの中には「南極のフランス」に10年以上住んでいた男がいたという。
こうした状況を考えると、ラブレーの時代とは情報の量がまったく違っていたことがわかる。そのために、「人食い人種について」の中の新大陸に関する記述は、ラブレーの寓話的な物語とは違い、非常に具体的で、旅行記の記述を借用したような部分がかなりある。

その国は気候が温和であり、病人を見かけることがほとんどない。食物が豊富で、巨大な家に住んでいる。人々は太陽とともに起き、その日一日分の食事をする。
飲み物は木の根から作られていて、赤ワインの色をしている。それを温めて飲むと大変に美味しい。実際にモンテーニュは実際に飲んだことがあると言い、彼自身が新世界の風習の証人である印象を強く与えている。
彼らは霊魂の不滅を信じ、戦争における勇敢さと妻に対する愛情という徳を大切する。実際、大陸の奥に住む民族と戦う時には、不屈の勇気を発揮する。等々。

これらの記述はいかにも客観的に記されているようだが、あまりにも理想化されている印象を与える。ブラジルの素朴で粗野な生活様式が理想化され、古代の「黄金時代」に匹敵するかのような印象を与える。「神様の手から出てきたばかりの人間たち」が、「自然の与えた最初の法則」に従って生きている。

こうした理想化の理由は、モンテーニュが、宗教戦争の激しい争い、とりわけ旧教徒側が新教徒を大量に殺戮した、1572年のサン・バルテロミの大虐殺を経験したことにあるだろう。
文明化が進んだはずの「旧世界」が、現実には、血で血を洗う内戦のただ中にあり、中庸をモットーに掲げるモンテーニュも、カトリックと改革派(プロテスタント、ユグノー)の対立に引き込まれ、悲惨な状況を生きなければならない状況に追い込まれていた。
その時、文明の対極にある自然に価値を見出し、自然状態で生きているように見える未開人を理想化することで、自分たちの生きる世界を見つめ直す機会とすることは、意義のあることだったはずである。

新世界の役割

二人の作家は、「新世界」を取り上げることで、何を見、何を考えたのだろうか?

パンタグリュエルの口の中にある幸福の村で、「私」は村の長老たちに、森で強盗に襲われたと語る。

長老たちが私に言うには、実際、歯の向こう側の人間たちは悪党で、生まれつきの強盗だった。そう聞いてわかったことがある。私たちの世界にも山のあちらとこちらの地域があるように、ここにも歯のあちらとこちらがある。こちら側の方がずっと気持ちがいいし、空気もいい。そこで、よく言われているように、世界の半分はもう半分がどのように生活しているのか知らないのだと、私は考え始めた。

口の中の世界にも「あちらとこちら」があり、こちら側から見ると、あちら側は悪党の世界に見える。
では、あちら側から見ると、こちらはどのように見えるのだろうか?
ラブレーはその方向に話を進めるのではなく、善悪の判断を超えた視点を導入する。
「世界の半分はもう半分がどのように生活しているのか知らない。」

この言葉は、幸福な村の視点から見れば、歯の向こう側の住民は、こちら側の平和で幸福な暮らしを知らないという意味になる。
そして、あちら側はペストの町があり、フランスの現実を反映しているとしたら、睡眠にお金が払われる暢気な地域は「新世界」だということになる。「旧世界」の人々は、「新世界」の生活を何も知らず、今まで通りの古い世界の中で、イタリア風の美しい建物を建てながらも、町はペストに苦しみ、森では互いに奪い合いの生活をしている。
要するに、知識がないために、自分たちの悲惨な状態に気づかないことが、このエピソードの中心の置かれている。
巨人の口の中の世界で「私」は、無知が悲惨の原因だと確認したのだといえる。

ラブレーがそのような考えを寓話的な物語に包んで提示したのが1532年。それから約50年後、モンテーニュの時代には、ラブレーの言う「知らない」状態ではなく、「新世界」の情報はかなり豊富になった。
モンテーニュはその知識に基づき、「南極のフランス」に関する知見を踏まえた上で、ラブレーの試みを発展させる。
フランスの「文明社会」と「新世界」の「自然状態」を対比させ、「自然」に価値を置くことで、徹底した文明批判を行った。野生の方が自然状態に近く、フランスの生活よりも優れているという論を展開する。
モンテーニュは、その説に説得力を持たせるために、旅行記等に記された未開人の生活の描写をあえて理想化し、宗教戦争下にあるフランスの悲惨な現実と対比させた。

ところで、「人食い人種について」の章でのモンテーニュは決して懐疑主義者ではなく、「自然」が「文明」よりも優れるという「判断」に揺らぎはない。
しばしば、「私は何を知っているのか?(クセージュ)」という表現が取り上げられ、モンテーニュは全てを疑い、判断を保留したと言われることがある。そうした態度が中庸と見なされたりもする。
しかし、彼は決して判断を下さなかったのではない。「子どもの教育について」を読めば、最も重要な学びは判断力を養うことだと明言されている。
文明 対 自然に関しても、彼の判断は断固としたものである。

疑うことは、モンテーニュにとっては、下した判断の「根拠」を常に見失わないことを意味している。
ある判断を下す場合、必ずある視点に立っている。別の視点から見れば、別の判断が下される可能性がある。根拠とは視点でもあり、自分がどの視点に立っているかを常に自覚していることが重要になる。
その原則を忘れないようにということが、「私は何を知っているのか?」という問いかけの本質だった。
こうした思考は、アインシュタインの特殊相対性理論(時間の速度は場によって変化する)に類似したものであり、モンテーニュを懐疑主義者と呼ぶよりも、相対性理論主義者と呼んだ方が、彼の思想をよく的確に表現している。

「自然」と「文明」の価値判断に関して、モンテーニュの議論の達する結論は絶対的なもので、判断が停止されることもなければ、相対的に捉えられることもない。
「動き」を愛するモンテーニュが相対化させるのは、「野蛮」という言葉の意味である。

古代ギリシア人たちは、他民族を「野蛮人(バルバロス)」と呼び、自分たちよりも劣った存在とした。同様に、「新大陸発見」の時代、ヨーロッパ人は新世界を「野生」で「野蛮」なものと見なした。
こうした感情は、実際には21世紀の現在も続いており、「先進国」は同胞と見なさない国を、少し前までは「後進国」、現在でも「低開発国」等と呼び、価値判断を行っている。
その価値判断を「動かす」ためにモンテーニュが取り上げたのが、ギリシア語を語源とする「野蛮(バルバール)」という形容詞だった。

 話を「南極のフランス」に戻そう。聞いたところによると、あの民族には野蛮なもの、野性のものは何もないと私は思う。一般的に人間は、自分の習慣にないものを野蛮と呼ぶ。現実においても、私たちが真実と理性を映す鏡として持つのは、私たちの住む国の意見と習慣が提示する実例やそれらのイメージだけである。あちらにも常に、完全な宗教、完全な政府、全てのことに関する完全で比類のない習慣がある。あちらの人々が野生だとしたら、それは、自然がひとりでに生み出し、当たり前の経過の中で作り出した果実を野生と呼ぶのと同じことだ。だが、実際には、私たちが人工的に変質させ、通常の秩序から逸らしてしまった果実を、野生と呼ぶべきだろう。あちらの果実の中では、真実で、有益かつ自然な美徳や特性が、生き生きとし、力強い。そうしたものを、こちらの果実の中で私たちは退化させ、私たちの堕落した趣味が喜ぶように調整してしまった。しかし、あの地域にある栽培しなくても実る様々な果実に関して、味わいや繊細さは、私たちの果実に比べ、最上のものに感じられる。偉大で力強い母なる「自然」に対して、技術が、名誉賞を獲得するのは正当とはいえない。私たちは自然が作り出す作品の美しさや豊かさの上に、あまりにも多くの発明品を乗せたため、自然を完全に窒息させてしまったのだ。しかし、その純粋さは至るところで輝いていて、私たちの空しく軽薄な企てにひどく恥をかかせている。

   きづたは自然に生える。
   灌木は孤独な洞窟の中で、より美しく成長する。
   鳥たちは、細工をしないほうが、穏やかに歌う。(プロペルティウス)

 私たちがどんなに努力しても、本当に小さな鳥の巣を、その構造も、美しさも、小鳥にために役に立つ点に関しても、再現できない。ちっぽけな蜘蛛の巣も再現できない。プラトンが言うように、全てのものは、自然か、「偶然」か、技術によって作られる。最も偉大で美しいものは、自然か偶然による。つまらなくて不完全なものは、技術による。

「旧世界」と「新世界」に対する価値判断を逆転させるために、二つの状況を単純に比較して、判断を変えようとしても、ほとんど成功することはない。なぜなら、一つの価値判断をする場合、無意識に抱いている判断基準があり、その基準を変えない限り、判断も変わらないからである。

16世紀後半のフランス宮廷の豪華な装飾を美しいとする感性にとって、ブラジルの現地人たちのほぼ裸体に近い姿を美しく感じろと命じられても、せいぜい見世物程度にしか思わなかったことだろう。

一般の人々は、その違いを絶対的なものだと思い込む傾向にある。しかし、モンテーニュは、全ては習慣によると考える。こちらにはこちらの基準があり、あちらにはあちらの基準が存在する。その基準は習慣的なものであり、習慣が違えば、違う基準がある。

何を「野蛮」と呼ぶかについても同じこと。ある物が常に野蛮と呼ばれるのではない。
「人間は自分の習慣にないものを野蛮と呼ぶ。」
ギリシア人が異国人を野蛮人と呼び、フランス人がブラジル人を野蛮人と呼ぶのは、そのように呼ばれた人間が野蛮だからではなく、呼ぶ側の習慣にすぎない。

そのように「野蛮」という言葉の内容は習慣的に決められているにすぎないことを確認した後、「南極のフランス」で野蛮と見なされる中身について、果実を例に取り検討していく。
その際の中心的な概念は「自然」。
あちらでは果実は自然に成長し、人間の手が加えられることはない。だからこそ、美味しく、栄養が詰まっている。
鳥の巣や蜘蛛の巣が美しいのと同じこと。

それに対して、人の手が加わると、自然から遠ざかる。すると、果実は変質し、本来の秩序から逸脱する。技術が生み出すのは退化や堕落であり、人間の発明は自然を窒息させてしまう。

とすれば、フランスで「野蛮」と呼ばれるものは「母なる自然」に近く、文明は自然からの堕落だということになる。
この論理を展開した後、モンテーニュは自説を補強するため、プロペルティウスの詩句とプラトンの一節を付け加える。
そのようにして、「野蛮」と見なされる「新世界」を、「旧世界」のユートピアとして提示したのである。

しかし、そのユートピアに住む人々は、人食い人種。人間にとって最もおぞまし行為をする。
そんな人間たちを、文明人よりも優れているなどと言えるだろうか?

もちろん、人肉を食べる行為に関する価値転換をすることはできない。しかし、モンテーニュは、あえてその行為に言及する。

 人食い人種たちは、山の彼方の、大陸のずっと奥の方に住む民族と戦さをする。彼らは素っ裸で、武器として持つのは弓矢と木の剣だけ。その剣の先は、槍の穂先のように尖っている。(中略) 彼らは捕虜を長い間丁重にもてなし、思いつくかぎりの楽しみを与える。その後、主となる男が知り合いを数多く集める。そして、捕虜の一方の腕をロープで縛り、襲われないように、数歩向こうに立たせる。最も大切な友人に、捕虜のもう一本の腕を同じやり方で持たせる。次に、二人はみんなが見ている前で、捕虜を剣で突き刺す。それが終わると、捕虜を焼き、みんなで食べる。そこにいない友人たちには肉片を送る。昔スキュティア人がしたように、栄養のために食べるのだと思われるかもしれない。しかし、非常に強い復讐心を表現するために行われるのである。

こうした残忍な行為は、当時のブラジル旅行記の中に記載されている。この習慣の野蛮さは、フランスの読者をぞっとさせたことだろう。

そのことはわかった上で、モンテーニュは、そのおぞましさをブラジルからヨーロッパへ移動させる。
1500年にブラジルを「発見」したのはポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラルであり、ポルトガルがブラジルを植民地化していった。
そのポルトガル人たちがブラジル人を処刑する時には、土の中に腰まで埋め、体の上半身を弓で射、その後で絞め殺すという方法をとった。それを見たブラジル人たちは、自分たちよりも優れているポルトガル人がそうするのだから、その方法が優れているのだろうと考え、自分たちの習慣を捨て、ポルトガル式の処刑を採用したという。

そう語った後で、モンテーニュは付け加える。

私にとって腹立たしいのは、こうした行為の中にある野蛮なおぞましさを私たちが強調することではない。それよりも、彼らの過ちを断罪しながら、私たち自身の過ちについては目をつぶることである。死んだ人間を食べるよりも、生きたままで食べる方が野蛮だ。まだしっかりと感覚の残る肉体を、拷問や責め苦を使って引き裂いたり、ゆっくりと火で焼いたり、犬や豚に噛みつかせて殺す方が、ずっと野蛮だ。(そうしたことを私たちは読むだけではなく、ごく最近も目にした。しかも、昔からの敵同士の間ではなく、隣人や同じ町の住む人々の間でだ。もっと悪いことに、敬虔とか宗教の口実の下でそうした行為が行われている。)死んだ後から焼き、食べるより、ずっと残酷だ。

ここでモンテーニュははっきりと、フランスの現状に言及している。
宗教戦争の最中、あるいは異端審問の魔女裁判でも、生きた人間を引き裂いたり、火刑にしたり、現在では想像もできない残忍な行為が行われていた。
しかも、人々はそれを当たり前のこととして捉え、処刑は見世物でさえあった。(この状況はフランス革命時まで続いた。ギロチンでの処刑は、子ども達にとってさえ、興奮を誘う見世物だった。)
自分たちの習慣にない人肉を食べる行為は野蛮でありながら、習慣の中に入り込んでいる残忍な行為は野蛮ではないのか?

「私にとって腹立たしいのは、(中略)彼らの過ちを断罪しながら、私たち自身の過ちについては目をつぶることである。」
この言葉こそ、モンテーニュが人食い人種について語る理由に他ならない。
新大陸の住民が人肉を食べる習慣の実体を知ったとしても、それだけに留まっては意味がない。その残忍な行為を続ける理由を知ることをきっかけにして、自分たちの世界で行われている非人間的な行為に対しては無感覚であることに気づかなければならない。
「新世界」に意識を移動させることで、「旧世界」の習慣から抜け出し、あまりにも当たり前になっているために気づかない自分たちの姿を見直すこと。視点を移動させ、自分を他者の目で観察する。それこそが、モンテーニュにとっての知識の役割だった。

モンテーニュは、「南極のフランス」の果実に関して言及する中で、「野蛮」という言葉の内容を変更し、「自然」と「文明」、「新世界」と「旧世界」の価値の転換を主張した。それは、人食い人種の非人間的な習慣を肯定するためではなく、視点の移動をスムーズにし、「新世界」という鏡に「旧世界」を映し出すための前提だといえる。

「私が語る対象は私自身だ」というモンテーニュにとって、どのようなことを語ろうと、最終的には、「自分自身について盲目でないこと」が最も重要な課題なのだ。そして、その課題をこなすためのポイントは、慣れ親しんだ習慣から移動し、視点を移動させることにある。人食い人種について語る理由もそこにあった。


ラブレーは「新世界」をテーマにすることで、自分とは違う世界の実情を知らないことを問題にした。それに対してモンテーニュは、相手を知ったとしても、それをきっかけにして自分自身について振り返らないことを問題にした。
その違いは、16世紀の前半と後半で、新大陸に関する知識が増大したことにもよるだろう。しかし、それ以上に、二人の作家の気質と彼らの生きた時代精神によっている。

16世紀前半は、フランスにイタリア・ルネサンスの文化が移入され、調和に基づいた理想が求められた。
フランソワ・ラブレーもそうした時代精神を背景に、「笑いながら、真実を語ろう」とした。つまり、一つの真実を目指した。
彼にとって、その理想に至るための主要な手段が、知識の獲得だった。無知を自覚し、他者に関する知識を得ることが、大きなテーマだった。
「ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語」の中に、当時の知識が百科全書のように積み上げられているのは、そのためである。

16の世紀の後半になると、カトリックとプロテスタントの対立が激化し、フランスは宗教戦争によって大混乱する。
その中で、人間の精神は、理想を求めて上昇するのではなく、現実に留まり、横に移動し、どこまでも運動が続く。
モンテーニュの精神も、理想を求めるのではなく、現実に留まり、水平方向に視点を動かした。その運動の中で「他者」の視点を取り入れて物事を考察し、視点の違いによって物の見え方が違うことを体感する。
彼の相対主義的な思想は、知識の獲得が単にそれだけに終わらず、他者の視点から自らを眺めることに由来する。

ルネサンスは、「人間」という存在に価値が認められた時代。その時代、二人の作家は、時代精神に即しながら、自分たちの気質に応じ、「人間」の様々な側面を描き出した。
21世紀に生き、日本語を母語とする読者にとって、二人の言葉は理解しやすいものではないし、何かの問題に対して簡易的な答えを与えてくれるものでもない。
しかし、面白そうな部分だけを時間をかけて読んでいくと、いつの間にか彼らの世界に引き込まれ、頭が彼らのペースで思考し始める時がある。彼らとコミュニケーションすることで、今までとは違う思考が働き始める。答えを教えられるのではなく、考える行為を実践的に指導される。それこそが16世紀の教育の要だった。
二人の書物を通して、私たちは21世紀に留まりながら、人文主義的な教育を受けることができるのである。