江戸時代の絵画を考えるとき、狩野派など幕府や大名お抱えの流派、尾形光琳を代表とする琳派、浮世絵などを別々に論じることが多い。また、京都、大阪を中心とした上方文化と江戸の文化を切り離して考える傾向もある。
士農工商という身分制度が確立したために、各身分間の交渉が断絶し、文化的にも交流がほとんどなかったと言われることもある。
しかし、江戸幕府が成立して以来、経済活動が活発化すると、高級商人階級が台頭し、大名や旗本とともに、経済力を持った町人たちが文化を支えるようになっていた。
地理的に言えば、天皇家の所在は京都であり続け、文化的には上方が支配的な状態にあったが、それでも徐々に将軍家の居住地である江戸も大きな位置を占めるようになる。江戸の町人を中心に発展した浮世絵は、まさにそうした現象の象徴といえる。

この時代の社会階級と地理的な移動を体現している芸術家がいる。俳諧を芸術にまで高めた松尾芭蕉(1644-1694)である。
彼は伊賀の下級藩士の家に生まれ、若い頃は俳諧好きの侍大将に仕えていた。その後29歳で江戸に居を移し、俳諧の宗匠として身を立てるようになる。裕福な町人たちを弟子に取り、経済的にやっていけるようになったのだった。その後、深川に引きこもり、さらには主に関西との間を往復する旅を重ねた。
こうした芭蕉の動きは、武士と町人の間、上方と江戸の間を繋ぐものだといえる。
絵画においては、多くの画家が狩野派で修行を始め、そこから新しい境地を開拓した。そのことからも、完全な断絶がないことが見えてくる。
京都の高級呉服商で生まれ、富裕な町衆を主な顧客とした尾形光琳(1658-1716)も、千葉で生まれ、江戸で活動し、自ら「浮世絵師」と名乗った菱川師宣(?-1694)も、狩野派での絵画修行が出発点になっている。
そこから、光琳であれば着物のデザイン性を取り入れた絵画へと進み、師宣は美人画の洗練に取り組んだ。




1765年頃、浮世絵が多色摺の版画として洗練され、鈴木春信(1725-1770)の活躍する時代は、円山応挙(1733-1795)が写生を重視し、新しい感覚の絵画を生み出し始めた時期でもある。


こうした動きが見える17世紀後半から18世紀半ばまでを視野に入れる時、社会や文化全体を貫く精神性とはどのようなものだったのだろうか。
浮世と俳諧
本来、うき世とは、形容詞「憂し」の連体形に「世」がついた語で、「憂世」と書かれ、平安時代後期から室町時代まで、苦の多い現実世界を指す言葉だった。
ところが、江戸時代になり、苦労が多くはかない世界であるからこそ享楽的に浮かれて過ごしたいという願望が強くなると、「浮世」と書かれるようになった。
過去や未来を思い煩うよりも、最新流行の風俗、当世風のモードを追うだけで、今を楽しく過ごす。そんな意識が浮世という漢字に込められている。
この言葉を一気に流行させたのは、井原西鶴(1642-1693)の『好色一代男』(1682)だった。この小説をきっかけにして、上方を中心に流行した浮世草子という文学ジャンルが大流行した。
江戸で出版される時、版画の挿絵を付けたのが、菱川師宣。「浮世」の意識が上方から江戸へと伝わり、美人画が浮世絵と呼ばれるようにもなる。
現世についてもう少し詳しく見ると、公式の道徳は宋学であり、儒教をベースにしていた。
武士階級では、君主に対する忠節が最も重視され、家庭生活では親に対する孝行心が何よりも重要だとされた。目上の人に対する礼儀は基本中の基本。忠孝礼が徳川幕府の社会秩序を支えるイデオロギーとなった。
しかし、公式のイデオロギーを義務として押しつけられているばかりでは、息が詰まってしまう。義理だけではない、人情の世界も必要になる。本音では、人を出し抜いても金儲けがしたいと思ったり、色恋も楽しみたい。
表の世界では義理を果たすが、裏では浮き浮きと気の向くままに暮らしたい。そんな気持ちを解放する場所が必要となる。
井原西鶴の小説世界は、まさに色恋と金儲けが主題であり、人情を前面に打ち出すことのできる、虚構の空間だった。
西鶴の『好色一代男』の挿絵から始まるともいえる浮世絵では、上方から江戸へと中心が移動するに従い、当時2大悪所と見なされた芝居小屋と吉原の遊里が主な題材となった。
そこでは身分の違いは消え去り、金銭だけが全てを左右する。日々の苦労を忘れることができる非現実的な空間であり、浮世と見なされうる。
役者絵と美人画が浮世絵の大きな柱となるのは、そのためである。
江戸に住む人々だけではなく、江戸に旅に来た人々もそうした絵を買い求め、地方に持ち帰った。そのために、江戸絵と呼ばれることもあった。
浮世を前面に押し出した日常生活での苦しみの解消法の他に、もう一つ、苦しい現実を捉え直す方法があったのではないか。それが俳諧の流行である。
俳諧は本来、おもしろおかしいこと、滑稽という意味だった。
文学ジャンルとしての俳諧は、平安時代から続く優雅な和歌の伝統を引き継ぎながら、卑近で滑稽な連歌を指す。
江戸時代に入り、松永貞徳(1571-1654)が、古典の素養を重んじながら、俗語などを使い、言葉遊びを中心にする貞門派を結成し、大流行した。
その後、古典に基づかず、発想が意外で、理屈を曲げ、笑いを重視する西山宗因の談林派が主流となる。
江戸時代の俳諧は、形式は和歌(5/7/5 7/7)に基づくが、日常的な話題を平明な言葉で表現し、滑稽さを競う連歌へと変質していった。
浮世系の物語や絵が、色欲や金銭欲の解放によって現実の苦しみを忘れようとする手段だとすると、俳諧は、笑いによって現実に対する意識を変えようとするものだった。
実は、井原西鶴は談林派の俳諧師であり、一昼夜で23,500句を一人で作りきったことでも有名だった。
松尾芭蕉は、若い頃、貞門派の師匠の下で俳諧の教えを受けたのではないかと言われている。
彼ら以外にも、俳諧に親しむ絵師が数多くいた。例えば、英一蝶は、芭蕉や弟子の其角と親交が深かったと言われている。

松尾芭蕉は、言葉遊びで滑稽さを競い合う俳諧を改革し、優れた芸術に高めた。
形式の面では、座に集まった人々が句を次々に繋げていく連歌から、最初の5/7/5だけ取り出し、発句を独立して扱う形式へと変更する。そのことによって、集団制作の歌会から個人の創作へと、芸術の種類を変化させた。
芭蕉の俳諧について、「浮世」意識と対応する重要な点に目を向けると、「俗性」「即興偶感」そして「軽み」がある。
ここではそうした点を、俳諧撰集『猿蓑』(1691)の巻頭を飾る発句を通して簡潔に紹介していきたい。
初しぐれ 猿も小蓑を ほしげなり
この句は、芭蕉が奥の細道の旅を終えた後、上方に戻り、伊勢から伊賀の上野へと向かう山の中での一コマを歌ったもの。おおよそ次のように解釈できる。
山中を歩いていると、はらはらと初しぐれが降ってくる。そこで木陰で雨宿りしていると、近くの木に猿が見える。猿はしぐれを見ながら、芭蕉たち一行のように簑を身につけ、小雨の中を歩いてみたそうな様子をしている。それほど、この初しぐれは趣きがある。
平俗性に関して言えば、とりわけ特別なものや状況を取り上げるのではなく、ごく普通の日常生活の一幕を句の題材にしている。場所は伊賀の山の中。そこでたまたま雨に降られて、雨宿りしていると、木の枝に猿が止まっているのが見える。ただそれだけのこと。
ただし、「初しぐれ」は和歌の伝統の中で、寂しさとかわびしさを表すためにしばしば取り上げられてきたものであり、その意味では伝統に基づいている。
芭蕉は、その伝統を前提にした上で、初しぐれという言葉でわびしさや哀しみを表現するのではなく、俳諧の持つ面白みを引き出す。猿が人間と同じように小さな簑を被り、小雨の中を歩く仕草を想像し、そこにおかしみを醸し出すのである。
読者も和歌の伝統を知っていることが想定され、「初しぐれ」と聞いて淋しさを期待する。そこに滑稽さが出てきて、意表を突かれる。
しかも、この句には技巧的なところがなく、自然にふと口をついて出てきたような印象を与える。芭蕉にとって、技巧的で理屈っぽい句は「重い」。それに対して、この句は自然で、あたかもその場で即興的に出来上がったかのようである。
其角の綴った『去来抄』の言葉を使えば、「即興偶感」。その時に心の感じたことを、即座にその場で句として形にする。そして、そのようにしてできた句には「軽み」がある。
「軽み」は、現実に流れる時間の一瞬を捉えることで、人生の苦しさや辛さが一点に凝集され、重みが取り除かれた状態ではないだろうか。
それは俳諧の持つ滑稽に由来しながらも、芭蕉によって「即興偶感」を結び付けられ、俳句という芸術の極意となったと考えられる。
英一蝶の「雷神」は、そうした俳諧的軽みの見事な表現だといえるだろう。
雷が鳴り響く瞬間を描きながら、雷の神の姿は木と雲の陰に隠れて見えない。木の下の男は、何とか身を隠そうするが、傘は破れ、風で身体ごと吹き飛ばされそう。
雷に襲われながらも、絵画全体は滑稽で、笑いを誘うものになっており、「軽み」の精神に溢れている。

儒教の厳格な道徳に縛られ、士農工商という身分制度や家父長制の下で、現実生活ががんじがらめになっていたとすると、江戸時代前期の芸術は、過酷な現実に対して二つの方法でまったく別の姿を提示した。
一つは、現実の片隅に位置する2つの悪所、芝居小屋と遊里。制度から解放された非日常の場。
もう一つは、俳諧。日常の一瞬を捉え、「軽み」の世界に変える。
上方の絵画
京都生まれの尾形光琳は伝統派の画家であり、日常生活の一コマを描くことはなかった。その意味では、狩野派など官製の絵画に近いと言えるが、「太公望」に描かれた人間の表情には、おかしみや軽みが感じられる。


西川祐信(すけのぶ、1671-1750)も、京都の出。
狩野永納(かのう えいのう)や土佐光祐(とさ みつすけ)から官製の画法を学んだ後、菱川師宣等の作風を取り入れ、数多くの浮世草子の挿絵を手がけた。
そのために、普通の人々の姿や背景となる部屋や小物が自然な様子で描かれ、俗世間の日常の一コマが捉えられている。
彼の肉筆画では、上方に留まって活動しただけに、古典的な教養に基づき、当世風にアレンジすることで、美人画に新たな境地を開くまでに至った。
実際、西川の美人画は、気品ある着物の美しさ、女性の顔や体が生み出す表情と室内の調和などによって、女性の優美さが際立つものになっている。彼の好んだテーマの一つは「柱時計と美人」だった。



円山応挙(1733-1795)は丹波国で生まれ、狩野探幽の流れの中に位置する画家であり、京都画壇の祖と言われる。
若い頃に、西洋の遠近法に基づく「眼鏡絵」の技法を習得し、写生を重視する傾向の絵画を描いた。
1765年、鈴木春信が錦絵を作り出した年に応挙が描いた「雪松図」は、狩野派的な伝統の中にありながら、自然な松の様子が強調され、リアルな印象が生み出されている。

応挙の画筆による風俗画ともいえる「見立江口の君図」や「華洛四季遊戯図巻」でも、伝統的な優美さを保ちながら、人々の生の営みが自然なタッチで描かれている。


江戸の絵画 浮世絵
江戸は新興の都市であり、上方に対する憧れと反発を同時に持っていた。そうした中で、浮世絵は、江戸を代表する絵画として目覚ましい発展を遂げていった。
浮世絵の原型を作り上げたのは、自らを浮世絵師と呼んだ菱川師宣。
師宣は、井原西鶴の『好色一代男』が江戸で出版された際に、挿絵を担当し、それ以来、版本の挿絵を数多く手がけた。それ以外にも、1枚刷りの版画と肉筆の美人画も描き、版本挿絵、1枚摺、肉筆画という3つのジャンルの並列という浮世絵のあり方を、彼が決定したといわれている。



菱川師宣を超える絵画を目指したのが、英一蝶(1652-1724)。
京都に生まれた英一蝶は、最初、狩野安信(やすのぶ)に弟子入りし、狩野派の絵師として活動した。江戸では俳諧師の松尾芭蕉や宝井其角とも親しく交わり、吉原で太鼓持ちなどをして暮らした。
しかし、1698年(元禄11年)、生類哀れみの令に違反した罪で島流しの刑に処せられ、12年間を三宅島で過ごすことになる。
そうした生活の中で、英一蝶が描く題材は必然的に町人たちの日常生活となった。実際、島流しから江戸に戻った時、彼の目標は、菱川師宣の風俗画あるいは浮世絵を超えることだったと述べている。
一蝶が狩野派の町絵師、多賀朝湖(たが ちょうこ)という名前で活動していた時期の作品と、それ以降の作品を比べてみると、伝統的な絵画と新しい感覚の絵画の違いがよくわかる。


日々の生活の一コマを捉える英一蝶の絵画からは、滑稽さと軽みが溢れ出している。それは、彼が俳諧の師匠たちと交わり、「軽み」の精神を持って「浮世」を描いた成果だと考えていいだろう。

鳥居清信(1664-1729)も、京都に生まれ、江戸に下って活躍した浮世絵師。
彼が得意としたのは、悪所の一つである江戸歌舞伎の役者絵。彼から始まった鳥居派は、現在に至るまで歌舞伎座の看板を描く仕事を独占している。
鳥居清信の父親は女形の役者であり、清信は父に連れられて江戸で暮らし始めた。そして、1枚摺の形式を主として、役者図や美人図を軽快な筆線で描いた。
そうした中でも、最も得意としたのは、江戸歌舞伎の荒事の一瞬を捉えた役者の姿。力の入った手足や筋肉の躍動感を、「ひょうたん足」「みみず描」と呼ばれる表現で描いた。
「ひょうたん足」は、腕や足の筋肉を誇張し、ひょうたんのように膨らんだ姿で描く技法。「みみず描」は、筋肉隆々の輪郭を、太さを変化させた線でミミズのように描き出す技法。
鳥居清信の画筆は、江戸歌舞伎の役者が荒事で「見得(みえ)」をきる瞬間を、戯画的に描き出す。

芭蕉の俳句が平俗な場面を「即興偶感」によって形にする一方、鳥居清信は歌舞伎の中で最も力のこもる一瞬を力強く描き出した。
清信の息子、鳥居清倍(とりい きよます、生年月日不詳)の「市川團十郎の竹抜き五郎」は、現在でもよく知られる作品である。

懐月堂安度(かいげつどう あんど、生年月日不詳)の肉筆美人図は、一度目にすると忘れないと思われるほど個性が際立っている。




肉筆画は版画とは違い、1枚1枚を手書きするために、非常に手間がかかる。そこで、安度は、人物の輪郭をパターン化し、着物の柄と色彩を変化させるだけで、ヴァリエーションに富んだ肉筆画を描く手法を発明した。
彼の描く女性たちはかなり類型的なポーズをし、顔や手足、着物の柄などは、直線と単純な曲線の組み合わせで大まかに形作られている。その枠組みに、派手な絵具が比較的大まかに塗られている。顔に関してはどれも、やや角張り、切れ長の目をし、唇は小さく、人形のような印象を与える。
吉原を訪れた地方の客が、遊女を描いた美人画をお土産として買って帰る。そんな時に相応しい江戸の絵といってもいいだろう。
宮川長春(みやがわ ちょうしゅん、1682-1752)は、懐月堂安度に続き、肉筆美人図を得意とした。
彼は、大和絵を専門とする土佐派と菱川師宣から多くを学び、色香のある女性の姿を繊細なタッチで描く浮世絵で人気を博した。

この「遊女聞香図」に見られる女性のなよやかな姿態、着物の細かな柄と色合い、繊細に描かれた背景の屏風の描写は、長春の画風をはっきりと示している。
庶民風俗や遊里風景を素材にし、リラックスした一瞬を捉える宮川長春の感性は、実際には厳しい現実を過ごす遊女や庶民の姿に、穏やかな香りを与えている。


奥村政信(おくむら まさのぶ、1686-1764)は、浮世絵師であると同時に版元でもあり、版画技術の発展に大きく貢献した。
画家としての作風も常に変化し、鳥居派の動的な浮世絵から始め、西川祐信の美人画の要素を取り入れ、静かで繊細な趣を持つものに変わっていった。




さらに大きな要素は、浮世絵に、透視遠近法の要素を取り入れたことである。遠景よりも近景が浮き上がって見える絵画を彼は「浮絵」と呼び、大評判を取った。実際、奥村政信の描く芝居小屋や両国橋の料亭は、見事な透視遠近法を用いて描かれているために、奥から浮き上がってくるような印象を作り出している。


日本絵画の伝統の中で、こうした奥行きのある情景が作り出されることはなかった。それだけにますます、「浮絵」の作り出す空間の効果は大きなものだったに違いない。
こうした発展を経ながら、江戸の風俗を描く浮世絵は、鈴木春信(1725-1770)に代表される錦絵の時代を迎えることになる。
江戸座俳諧と錦絵 鈴木春信
御伽草子や浮世草子の挿絵として使われた版画、美人や役者を1枚の版画にした1枚摺の版画、そうした版画の技術は、浮世絵が流行するにつれて急速に進歩していった。その一応の完成形といえるのが、鈴木春信によって代表される「錦絵」である。
「見当(けんとう)」と呼ばれるマークを版木に付けることで、何枚でも紙を正確に合わせることができるようになり、色彩豊かで繊細な多色版画が可能になった。
ここで注目したいことは、錦絵の技術が開発される過程で、俳諧との関係があったこと。
1693年の芭蕉の死後、弟子の宝井其角に端を発し、江戸座と呼ばれる俳諧の一派が大きな地位を占めた。江戸座の宗匠たちの中には大名や武家に出入りするも多く、句会は、江戸の人情や風俗を題材に使い、しゃれと機知に富んだ軽妙な作風の句に仕上げ、付句(つけく)に加点して点数を競うといった遊戯的な傾向が強いものだった。

浮世絵との関係で重要なことは、江戸座俳諧は「絵俳書」と呼ばれる挿絵入りの俳書を数多く作り、自分たちの流派の拡大を図ったことである。
より効果的な宣伝をするためには、より美しい挿絵が要求された。その中で、紅摺絵が生まれる。紅摺絵とは、白黒の墨の版画に手で色を付けるのではなく、紅や緑などの色版を摺り重ねて多色の版画にする技法。さらに多色の錦絵にと向かう大きな一歩となった。
初代市川團十郎のために編まれた絵俳書「父の恩」(1730)は、紅摺絵の版画が使われた最初期の例とされている。
版画技術は、絵俳書だけではなく、絵暦の交換会の興隆に伴ってさらに進展し、色刷りの版画はますます洗練されたものになっていく。
その交換会を主催したのは旗本の二人。彼らは俳諧をたしなみ、巨川(きょせん)、莎鶏(しゃけい)という俳名を持っていた。そして、京都の浮世絵師、西川祐信の熱烈な愛好者だったと言われている。
彼らの主催する絵暦交換会において、より豪華な絵暦が求められ、絵師、彫師、摺師、版元が技術を向上させた結果が、多色摺の木版画の完成形ともいえる錦絵の誕生だった。
その錦絵を代表する絵師として、鈴木春信が登場する。
春信が絵暦に携わった時期は、1765-66年に集中しているとされ、錦絵の誕生もその時期とされることが多い。
絵暦の1枚「夕立図」にしても、巨川から直接注文されて描いた「座鋪(ざしき)八景」にしても、版画の繊細さはそれ以前のものよりも格段に上がっている。
ちなみに、「座鋪(ざしき)八景」は、水墨画の伝統的な画題であり、狩野派が好んで描いた「瀟湘(しょうしょう)八景」を、日常的な女性風俗の一場面として洒脱に描いたもの。


春信は錦絵の創始から5年後の1770年に没するが、その5年の間に千点を超す作品を作り上げたといわれている。
ここではその中で、「見立絵」に注目したい。
見立絵とは、古典的な作品や故事を下敷きにし、当世風の風俗に置き換えて描いた絵のことをいう。絵を見る者は、原典を推測し、置き換えの機知や洒脱さを味わうことを楽しみとした。
そこでは、絵師にも鑑賞者にも知識の蓄えが要求されたのであり、江戸の文化水準が上がったことを示している。
日常の素材を取り上げながら、伝統を含み込む様式は、俳諧における「歌枕」と対応していると考えられる。
芭蕉は、「行く春を 近江の人と 惜しみける」という句に関して、近江の人でなくてもいいという評者に対し、近江でなければ句として成立しないと断言する。
その理由は、近江が単なる風光明媚な場所だというのではなく、「歌枕」の地だから。これまでの和歌の伝統の中で古くから歌われ、広く人々に知られているため、すでに近江固有のイメージが出来上がっているのであり、作者も読者もその知識を前提として句を味わうことになる。
平俗な風景の瞬間を切り取りながら、その瞬間には知の集積があり、そこからのズレを作り出す際の機知と軽妙さを感じ取ることが、芭蕉の俳諧の本質にある。
その意味で、俳諧には見立絵と共通した楽しみがある。
長屋の路地で、若い下町娘が洗濯をしている。後ろには、物干し竿を手にして、洗い終わった着物を干してる女性。二人の間には、おもちゃを手に持つ子供。画面の上部全体には白い布がかかっている。

この見立絵を前にして、私たちは自分の知識と教養を試される。絵としての美を味わうだけでは足りない。どんな判じ物が込められているのか?
この見立絵で、鈴木春信は、ヒントをはっきりと示している。画面上部の白い布に、持統天皇と記し、有名な和歌を書いているのである。
「春過ぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ あめのかぐ山」
持統天皇の時代、夏になると白い布を干す習慣があったらしい。天皇は、白い布が大和三山の一つである香具山に向かって干されているのを見て、夏の到来を感じ取ったのだろう。
春信の絵の面白さは、香具山を庶民的な長屋という日常的な場面に移したところにある。そして、そこから俳諧的な面白みが生まれてくる。
このように歌枕や見立絵は、作者と鑑賞者の間の知識の共有が前提条件となる。従って、こうした芸術の形態は、江戸の町人文化の成熟を示しているといえる。
上方文化と江戸文化の二極化は、18世紀を通してますます進んで行く。
絵画に限っても、江戸では浮世絵が絶頂期へと向かい、上方では南画や琳派の優れた作品が生み出される。
江戸自体の文化は、17世紀後半から18世紀初頭の元禄時代をステップとし、18世紀半ばにさらなる成熟に達し、次の段階へと進んだ。
そうした文化を辿って行くときに注意したいことは、江戸と上方が決して断絶していたわけではなく、共通の基盤に立ち、その上で伝統と革新に関する濃度の違いが見られたということである。
そのことは、卑俗な日常の一コマを素材としながらも、伝統的な知識が一瞬の中に含み込まれていることとも繋がる。
芭蕉の言葉を使えば、「不易流行」と言ってもいいだろう。