日本における外国語学習最大の問題 返り点 訳し上げ

日本において、外国語の習得を妨げる最大の要因があるのだけれど、ほとんど意識されることがない。
そのため、悪い癖がついても気づかず、外国語を読めるようになかなかならない。

何が悪いのか?
それは、「返り点」の習慣。

漢文読解の際に日本で発明した方法で、文章を構成する単語の順番を逆点して理解しようとする。
漢文の授業で学んだレ点などを思い出すといい。

この習慣が英語学習にも入り込み、関係代名詞が出てくると、文の後ろから「訳し上げ」たりする。
問題は、「訳」ではなく、「理解」のために、単語の順番を逆転してしまうこと。
1度癖になってしまうと、やめるのが難しい。

実は、誰もが言葉を音として理解している。声に出さず、黙読している時にも、頭の中で音は響いている。
文章は、音が聞こえてくる順番に、自然に理解できる。

「返り点」、「訳し上げ」は、音声の順番を乱し、もし逆転した音を声に出したらとても可笑しなことになる作業。

そのように考えると、文章を理解する時には、書かれている順番、音が聞こえてくる順番に、そのまま進んで行くことが自然だということがわかるだろう。
それが最も単純に、明快に、外国語を理解する方法なのだ。

一文が長く、なかなか終わらないことで知られるマルセル・プルーストの文章を取り上げ、前から理解していくことがどれほど文の理解にとって簡単で、自然で、単純なことか、体験してみよう。

j’entendais le sifflement des trains qui, plus ou moins éloigné, comme le chant d’un oiseau dans une forêt, relevant les distances, me décrivait l’étendue de la campagne déserte où le voyageur se hâte vers la station prochaine ; 

主語・動詞は、J’entendais . (私は聞いた。あるいは、私に聞こえた。)

目的語、つまり聞こえてきたのは、le sifflement des trains (汽車のヒューという音、汽笛)

以下に関係代名詞の文が続く。

qui


関係代名詞は、名詞を説明する文を導く働きをする。つまり、形容詞と同じ役割。

ここで、quiは、汽笛を説明する文が続くというしるし。

問題は、日本語では、名詞を説明する文と名詞の順番が、日本語と英語・フランス語では逆なこと。
日本語では、文+名詞、英語、フランス語では、名詞+文になる。
語順を逆転して理解しようとするのは、そのため。
日本語で語順のまま理解していくように、英語、フランス語でも、語順のまま理解していくことが最も重要な点。

構文上の注意事項。関係代名詞 quiは、前の名詞が主語になり、後ろに動詞が来ることが前提。従って、quiの後に、活用した動詞が来ることを予想することになる。

plus ou moins éloigné

éloignéが単数であるために、それが複数形の名詞trainsではなく、単数形の名詞sifflementの説明であることがわかる。
汽笛が、ある程度遠くに聞こえる。

comme le chant d’un oiseau dans une forêt

森の中の一羽の鳥の歌のように。

説明のために日本語にすると、どうしても語順が逆になってしまうが、comme (ように)− le chant (歌)ー d’un oiseau (鳥の)ー dans (中の)ー une forêt (森)と前から読み、そのまま理解する訓練をすることが大切になる。
その際、単語を一つ一つ区切るのではなく、ある程度の塊として理解することがコツ。

relevant les distances

releverは持ち上げる。les distancesは距離。→ 距離を広げる、遠ざかる。
つまり、汽笛が遠ざかっていく。

外国語を理解する際の難しさは、実は、こうした表現の違いにある。日本語では「距離を持ち上げる」とは言わない。辞書を引いて単語の意味を調べても文の意味がわからない場合は、こうした表現の違いによる。

me décrivait l’étendue de la campagne déserte

関係代名詞qui の前の名詞(le sifflement)が主語となり、その動詞となる要素が、décrivait.
汽笛が描く。(meは私に、私の心の中に)

目的語は、l’étendue de la campagne déserte(人が荒涼とした野原の広がり)。

ここでも、日本語の語順とフランス語の語順の違いがわかる。
広がり(étendue)に対して、日本語では説明が前に来るが、フランス語では後ろに続く。
荒涼とした/野原 と la compagne / déserteの順番も逆転している。

訳す作業では順番を逆転せざるをえない。しかし、理解のためには、語順のままであることが重要。

où le voyageur se hâte vers la station prochaine

関係代名詞 oùは、形容詞déserteと同様に、前にあるcompagneを説明すること。
また、後ろに続く文は、主語・動詞・目的語などを含んでいることを示す。

野原は、荒涼としている。そして、そこで、旅行者(le voyageur)は、次の駅に向かって(vers la station prochaine)、急ぐ(se hâte)。

こうして前から順番に理解していくと、なかなか終わらないこうした文章も自然に理解できる。

汽車の汽笛が聞こえてくる。
その汽笛は、ちょっと遠くの方で聞こえ、森で鳴く鳥の声のよう。
そして、遠ざかるにつれて、私の中に描かれるのは、荒涼とした田舎の風景。
そこでは、旅行者が大急ぎで次の駅に向かっていく。


「返り点」、「訳し上げ」をしないことが、どれだけ文章の理解を容易にするか、この例から理解できるのではないだろうか。

語順を逆転しないことをとりわけ強調したいのは、SVOCといった構文や動詞の活用や時制などは文法で説明されるが、文章を読む時に最も困難を引き起こすこの問題にはあまり意識が向かない傾向があるから。

音声中心の外国語教育が行われると、こうした逆転は起こらない。そこで、会話のためだけではなく、文の理解のためにも、外国語学習は音声中心であることが望まれる。
音と意味をつなぐ訓練が、文の理解の最も有効な方法になる。

また、文学作品を読む場合にも、語順をそのままで読むことが、作家の文体を体感することにつながる。


日本における外国語習得の苦手さについて、面白い事実がある。
『江戸の想像力 18世紀のメディアと表徴』(ちくま学芸文庫)の中で、田中優子がこんなことを書いている。

漢文は日本語である。漢字の連なりを、日本人は日本語で読む。たとえば、「国破山河在」は、国破と山河在の間に、なんらかの助詞を置かなければならない。国が破れることと山河が在ることとの間には、因果関係がない。並列しているのだ。が、日本語で読むときには、国破レテ、あるいは国破レタレドモと、まず「解釈」をもってかからなければならない。読み下しとは、解釈のことであって、外国語の中に、その国の人々にとっての意味を探ることでは、必ずしも無い。(中略)

つまり、漢文を読んでも、日本人は漢文の文字を日本語で理解していたことになる。
8世紀に『古事記』『日本書紀』『万葉集』などで漢字を使い始めた時から、音訓という二重の使用法をし、外国の文字である漢字を日本語化してきた。
その結果、漢文を読む際にも、日本語に同化して読んだ。

したがって、近世までの日本人たちは、ごく少数の例外(例えば留学生たち)を除いて、外国語というものを経験したことがなかった。しかも、日本の中には唐通事というものがいたが、近世を迎えるまでの日本の唐通事は、すべて中国人もしくは朝鮮人であったという。1600年代にはいってはじめて、日本人の正式な唐通事が制度化され、それは世襲となった。それでもなお、1865年の記録によると、(中略)、せいぜい40人ほどであった。

漢字の移入から1100年語の19世紀になり、漢字が日本語の中に完全に入り込んでいるにもかかわらず、外国語としての中国語を操ることのできる人間は、ほとんどいなかったことになる。

この事実は、日本における外国語学習の現実を如実に現している。

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