ディドロ 『運命論者ジャックとその主人』 百科全書的世界観を小説として展開する

ドゥニ・ディドロ(1713-1784)の百科全書的世界観に従えば、存在するものは一つの全体のみであり、全体の要素となる個々の事物(鉱物、植物、動物、人間など)は連続的に繋がっている。

その連鎖の中で、一つの要素は前の要素とある部分を共有し、ある部分は共有しない。それに続く要素も同様。従って、どれ一つを取り上げても決定的な断絶はなく、逆に言えば、どれを取り上げてもそれほどの違いはない。
どれか一つを取り上げたとしても、それはたまたまそうなっただけで、決定的なことにはならない。

そのことは、開始にしても終了にしても偶然でしかなく、決定的な何かがあるわけではないという思考につながる。

ディドロの『運命論者ジャックと彼の主人』は、決定論的に定められた一貫した物語の流れがあるわけではない。小説全体が、召使いのジャックと彼の主人が旅をしながら交わす脱線続きの会話を中心にして構成されている。

ディドロは、この小説の骨格を、イギリスの小説家ローレンス・スターン(1713-1768)の小説『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』(1759-1767)で語られる、一人の傷ついた兵士が自分の負傷と恋について語る短い挿話から借用したと考えられている。
しかしそれ以上に、余談と脱線の連鎖によって小説全体を構成するスターンの構成法に多くを負っている。

では、なぜディドロは、物語を最初から最後まで一貫したあらすじに基づいて語るのではなく、連想の赴くままにエピソードをつなぎ合わせていく語り方を選択したのだろう?

『トリストラム・シャンディ』の小説技法は、ジョン・ロックの経験論に基づいていると言われることがある。

ロックの考え方は、デカルト的な観念論への反発から出発している。

観念論に従えば、精神は実体であり、人間が生まれる時にはすでに生得的な観念を持っている。その生得観念を、全ての人間に備わる理性が発展させる。動物と異なる人間の本質は、理性の働きにある。

それに対して、ロックは、人間は生得的な観念を持たず、白紙(タブラ・ラーサ)で生まれると主張した。
なんらかの観念は、肉体が感じる感覚と内的な反省に由来する形成される。
その経験は、まず「単純観念」を生み出し、それらが連結して「複合観念」が作られる。

「単純観念」を一つ一つの小さなエピソードに置き換えると、予め定められたあらすじが存在せず、その場その場で連想の赴くままにエピソードを繋げるスターンの小説技法は、ロックの経験論に基づいていることがわかってくる。

従って、ディドロがスターンに倣ったとしたら、デカルト的観念論ではなく、ロック的経験論を選択した印だと考えることができる。

『運命論者ジャックとその主人』の冒頭の奇妙さも、偶然の連鎖から理解することができる。

 彼らはどんな風に出会ったのか? みんなと同じように、偶然にだ。彼らの名前は? そんなこと、あなたにはどうでもいいでは? 彼らはどこから来たのか? とても近いところから。どこへ行こうとしていたのか? 普通、人は、どこに行くのかわかっているだろうか? 彼らは何と言ったのか? 主人は何も言わなかった。ジャックが言ったのは、隊長が次のように言ったということだった。地上で自分たちに起こることは、善いことも悪いことも、全て天上に書き込まれている。

これが小説の冒頭の一節というのは、とても風変わりであり、ディドロが最初から自分の意図が読者に伝わるように技巧を凝らしていることを、はっきりと感じ取ることができる。

ここでは最初から、「彼ら」という代名詞で始まり、それ以前にすでに「彼ら」が存在していたことが前提とされている。つまり、これは物語の途中なのであり、『運命論者ジャック』は途中から始まっていることになる。

そのことは、全ては切れ目なく連続し、明確な始めや終わりはなく、どこからでも始められ、どこで終わることもできるという世界観と関連している。
ディドロ的思考に親しんでいる読者であれば、すぐにそのことに気づいたことだろう。

経験論と観念論の対比は、「偶然」と「全て天上に書き込まれている」という表現によって示される。

観念論に従えば、人間は生得的な観念を持って生まれ、その観念に従って様々な認識を行う。「全て天上に書き込まれている」のだ。
他方、経験論に従えば、人間は白紙(タブラ・ラーサ)状態で生まれる。そして、経験を通して単純な観念を獲得し、それを連結させることで複合的な観念を抱くようになる。経験の順番などは「偶然」による。

主人は運命論者であり、ヴォルテールの『カンディッド』に出てくるパングロスが、何が起ころうと、全ては善であると常に言い続けるように、常に「全て天上に書き込まれている」と言い続ける。
他方、現実には、ジャックと主人に予想もしないことが起こり続け、その度に予想外の行動を取り続ける。

予め何も決めらていないことは、語り手によっても示される。
一般的には、小説の初めに登場人物が紹介され、名前も告げられる。しかし、語り手は、名前はどうでもいいのではないか?と読者に問いかける。
彼らがどこから来たのか、どこに行くのかも不明だという。何も決まったことがなく、偶然に任されている。

ジャックは、隊長が「全て天上に書き込まれている」と言ったと言う。
しかし、その隊長とは誰なのか? 全てが書き込まれているとして、彼らはどこに行くと書かれているのか? まったく明らかにされない。

このように、物語の語りのレベルでも、予想外のことが次々に起こる。出来事は予め決まっているのではなく、その時その時で偶然勃発するかのように連続する。


冒頭の一節の後は、二人の会話が続く。

主人:それは大した言葉だな。

ジャック:隊長は続けてこう言いました。「鉄砲から飛び出す球はどれも宛先を持っている。」

主人:それは確かだ。

  しばらく黙った後、ジャックが大きな声で言った。「悪魔が、居酒屋のおやじと居酒屋を連れて行ってしまえばいい!」

主人:どうして隣人を悪魔にやってしまうんだ。そんなのキリスト教じゃないぞ。

ジャック:悪態をつくのは、私がオヤジのところのまずいワインで私が酔っ払って、馬たちを水飲み場に連れて行くのを忘れてしまったからです。父がそれに気づいて腹を立てました。私は頭を振ります。父は棒を手にして、私の肩をけっこう強めに叩きます。軍の連隊がそこを通りかかりました。フォントノワの手前にあるキャンプ地に行くためです。私は悔しまぎれに、入隊します。私たちは到着します。戦いが始まります。

主人:そこで、お前さんは、お前に宛てられた球を受けるわけだな。

ジャック:その通りです。膝に一発くらいました。その一発がもたらした善いことことも悪いことも、神様はご存知です。それらは多かれ少なかれつながり合っていて、鎖の輪の繋がりのようなものです。あの一発がなければ、私が思いますに、例えば、一生恋することもなかったでしょうし、足も不自由にならなかったでしょう。

主人:ということは、お前は恋をしたことがあるんだな。

ジャック:あります。

主人:銃の一撃を受けたからか?

ジャック:銃の一撃のせいです。

主人:今まで一言も言わなかったじゃないか。

ジャック:確かに。

主人:なぜだ?

ジャック:話すことができなかったからです、もっと早くでも、もっと後でも。

主人:恋の話をする時が来たということだな。

ジャック:そんなことは誰にもわからないのでは?

主人:偶然に、ということだな。まずは始めてくれ・・・

この会話からは、ジャックがたまたま軍隊に入り、戦闘で膝に中の一撃を受け、その後で恋をした顛末が語られている。しかし、ディドロの意図はそうした物語を語ることではない。
では、彼はこの会話を通して、何を伝えようとしているのだろう。

(1)観念論と経験論

「全て天上に書き込まれている」と言った隊長は、「鉄砲から飛び出す球はどれも宛先を持っている。」とも言う。つまり、予め全てが決定されている。
ジャックが運命論者というのも、そこから来ている。彼は隊長の言葉を信じ、現実に何が起ころうと、予め定められた運命だと口にする。

そうした姿勢は、人間が生まれる時、すでにある観念を持っていると考える観念論を表現している。先天的に観念を持っているから、人間は物を認識できるというのが、その主張である。例えば、美とは何か知っているから、ある物を見て美しいと思う。

それに対して、経験論では、人間は白紙(タブラ・ラーサ)で生まると考える。その後、感覚を通して様々な経験をすることで、観念が出来上がっていく。それらの経験は偶然なされるものであって、予め決められているわけではない。
ジャックの主人が会話の最後に口にする「偶然」という言葉が、経験論を暗示している。

実際、ジャックの人生の出来事は、偶然の連鎖のように語られる。
居酒屋で酔っ払い、馬に水を飲ませるのを忘れ、父から叱責される。その時、偶然、軍の連隊が通りかかる。偶然、戦闘が起こり、膝に一撃を受ける。そのせいで足が不自由になるが、その一方で恋もする。
その恋の話を今から話そうとするのも、必然ではなく、偶然による。

このように、ディドロは、ジャックに運命論を語らせながら、現実の出来事は偶然に支配されているように物語を進めることで、経験論の立場にいることをはっきりと示している。

(2)全ては偶然の連鎖

ジャックは、膝に受けた拳銃の一撃の後で起こった全ての出来事が、「多かれ少なかれつながり合っていて、鎖の輪の繋がりのようなものです。」と言う。

ディドロは『ダランベールの夢』の中で、次のような世界観を語っている。

全ての存在はお互いに循環している。従って、全ての種類・・・、全てが絶え間ない流動の状態にある。・・・ あらゆる動物はある程度は人間である。あらゆる鉱物はある程度は植物。あらゆる植物はある程度は動物。自然において、はっきりと他から隔絶されているものは何もない。

存在するもの全てが繋がっていて、その連鎖の中で、個と個は「ある程度(plus ou moins)」重なり合っているとされる。
それと同じ世界観が『運命論者ジャック』でも示されていることは、「鎖の輪の繋がり」というだけではなく、「多かれ少なかれ(ni plus ni moins)」という表現の使用によっても明白になる。

また、恋の話をする時期に関しても、「もっと早くでも、もっと後」でもなく、今することになるのだが、それは予め決められたいたのではなく、「偶然」、今なのだ。

従って、次々に起こる様々な出来事の連鎖は偶然によるものであり、経験論の立場から見た世界ということになる。

少し横道にそれるが、予め決められたものではなく偶然起こる出来事という世界観は、18世紀には反王権、反キリスト教の思想と見なされた。王や神の権威を認めない思想と見なされたからだ。


二人の対話の後、小説は再び語りの文に戻る。

 ジャックは恋の物語を始めた。昼食の後だった。身体にどっしりくるような暑さだった。主人は眠った。目覚めたのは夜で、野原の中にいた。二人は道に迷っていた。主人はひどく怒り出し、召使いを何度もおもいきりムチでひっぱたいた。その度に、哀れな召使いはこう言うのだった。「これもやっぱり天上に書かれていたんだ。・・・」

ここでも、それぞれの出来事に必然性はなく、偶然の連続が続く。恋の話が始まったかと思うと、主人は眠ってしまう。目が覚めるとなぜか野原の真ん中。主人がジャックをムチで何度も叩く。
ひどい目にあったジャックのセリフは、「これも天上に書かれていた。」
彼は、ヴォルテールのカンディッドと同じように、現実の不幸を前にして、教えられた言葉を繰り返すことしかしない。

ヴォルテールであれば楽観論を、ディドロであれば運命論を揶揄していることが、こうした記述から見て取ることができる。

次の節は、読者に向けての呼びかけで始まる。

 読者よ、あなたが見ての通り、私は正しい道を進み始めている。そうしようと思えば、ジャックの恋の物語のために、あなたを1年、2年、3年と待たせることもできるだろう。ジャックを主人と引き離し、二人それぞれに、私の気の向くまま、偶然の出来事を色々と体験させる。私が次のような物語をするのを妨げるものは何もない。主人を結婚させ、妻に浮気させる。ジャックを島々に上陸させ、そこに主人を連れて行く。二人は同じ船でフランスに戻る。空想的な物語を作るのは、なんと簡単なことだろう! しかし、そんなことはせず、二人は一晩不快な夜を過ごすだけでいいことにするつもりだ。あなたも一晩の遅れだけでいいことになる。
 夜が明けた。二人は再び馬に乗り、道を続けた。—— 彼らはどこに行ったのか? —— あなたが私にその質問をするのは、二度目だ。そして、こう答えるのも2度目。「あなたにとってそれが何だというのか。」もし私が彼らの旅の話を始めるとしたら、ジャックの恋の話とはおさらばだ・・・。彼らはしばらく黙って進んでいった。

冒頭の部分でもすでに「あなた」という言葉で読者に対する言及があったが、ここで語り手は、直接的に読者に向かい、物語の内容は語り手の思いのままであり、読者を1年でも2年でも3年でも、待たせることを辞さないと告げる。

こうした語り口は、ディドロがスターンの『トリストラム・シャンディ』から借用しているといえ、語られる物語が現実に即しているのではなく、フィクションであることを明らかにする役割を果たしている。

もし現実の出来事を語るのであれば、物語はすでに起こったことになる。その場合、語り手が勝手に何かを作り変える自由はない。

他方、現実と関係なく、語り手が勝手に物語を語るのであれば、読者の期待を裏切り、いくらでも脱線し、適当に話を続けていくことができる。偶然、行き当たりばったりに思いついた物語を繋げていく。その場合、語り手は自由を享受することになる。

『運命論者ジャックとその主人』の語り手は、「空想的な物語を作るのは、なんて簡単なことだろう!」と平気で言い放つ。実際、彼はありもしない主人の結婚やジャックの船出について語る。
従って、この語り手は、偶然に側に立つ経験論主義者だといえる。

このように見てくると、「全て天上に書き込まれている」と常に口にし、観念論に取り憑かれたジャックに対して、であるのに対して、語り手は、ジャックだけではなく、原因と結果を常に知ろうとする読者を揶揄し、偶然に身を任せて自由に物語を語る経験論者だということがわかってくる。
それら二つの思想のズレを、時に滑稽に、時に皮肉を込めて描きながら、『運命論者ジャックとその主人』という小説が延々と語り続けられていく。


20世紀の作家ミラン・クンデラは、『運命論者ジャックとその主人』について、次のように語っている。

ディドロは、小説の歴史のなかで、それ以前には決して見られなかった新しい空間を創造している。それは、「装飾というものをいっさい排除した舞台」である。登場人物はどこから来たのか。分らない。登場人物の名前は?そんなことは読者の知ったことじゃない。登場人物の年齢は?ノーコメント。ディドロは、その登場人物たちが、現実に、ある一定の時間と場所に存在する可能性をわれわれに信じさせるような要素は何も提供しない。世界の小説史のなかで、『運命論者ジャック』は、現実主義的な幻想性と、いわゆる心理小説と呼ばれる小説の美学を、もっともラジカルに拒絶した作品なのだ。(『ジャックとその主人』)

クンデラのこの言葉は、小説が現実を再現するという思い込みを暴いた作家としてディドロを評価するものであり、物語論の次元では的を得ているといえるだろう。
他方、現実主義や心理分析は19世紀の小説において中心になるテーマであり、18世紀小説がそうした小説美学に反していてラディカルだという論理の展開は、時代錯誤に陥っている。


ディドロの小説を読む場合、まずは18世紀前半から続く物質主義的、経験主義的な時代精神、それに基づくディデロの思想を理解し、それらがどのように表現されているのかを見ていくことが、理解の第一歩となる。

小説家ディドロと『百科全書』の編集者ディドロは、決して別人ではない。
『運命論者ジャックとその主人』の冒頭が、なぜ途中から始まっているのか、余談と脱線、語り手の介入などがどのような意味を持つのか、18世紀の読者がディドロを読むような気持ちでアプローチすることが、読書の楽しみを広げることになる。



ドニ・ディドロ『運命論者ジャックとその主人』王寺賢太、田口卓臣訳、白水社、2006年。

ドゥニ・ディドロ『ダランベールの夢、他4編』新村 猛訳、岩波文庫、1958年。

中川久定『人類の知的遺産41 ディドロ』講談社 、1985年。

ヴォルテール『カンディッド』斉藤悦則訳、 光文社古典新訳文庫、2015年。

ダニエル・モルネ『十八世紀フランス思想 ー ヴォルテール、ディドロ、ルソー』市川慎一、遠藤真人訳、大修館書店、1990年。

ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ(上)(中)(下)』朱牟田 夏雄訳、岩波文庫、1969年。

ミラン・クンデラ『ジャックとその主人』近藤真理訳、みすず書房 、1996年。

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