
1761年に出版されたジャン・ジャック・ルソーの『ジュリ、あるいは新エロイーズ』は、18世紀最大のベストセラーになり、18世紀後半の読者を熱狂させた。
美しいスイスの自然を背景として、主人公のサン・プルーとジュリという「美しい魂」たちを中心にした書簡のやり取りを通して表現される恋愛の喜びと苦しみは、当時の読者の感受性と共鳴し、人々がおぼろげに求めていた心情に明確な形を与えたのだった。
しかし、21世紀の読者にとって、それがフランスであろうと、日本であろうと、全体で163通からなり、6部に分かれ、時には何ページにも及ぶ手紙が含まれる長大な書簡体小説を、最初から最後まで読み通すことは難しい。
話題は恋愛だけではなく、社会制度、哲学思想、宗教、音楽等に及び、『百科全書』的な知識に対する興味がなければ、ルソーが何を目的に手紙の主たちにそのような話題を語らせているのか理解できないことも多い。

さらに、語り口がスローテンポで、18世紀の簡潔な文体とはかなり違っている。
ルソーは、その点について、表現が単調なことも、大げさすぎることもあり、言葉の間違いもあったりするので、パリの洗練された社交界で読まれるようなものではない。手紙の主たちは田舎に暮らす人々で、「小説じみた想像力の中で、彼らの頭が生み出した誠実ではあるが狂気じみた妄想を哲学だと思い込んでいる」のだと、あえて言い訳めいたことを書いている。
実際には、ルソーのフランス語は血が通い、生命の鼓動が感じられるような温かみを持っている。音楽的で、詩的散文といった印象を与える文も多い。
しかし、21世紀のフランス語ともかなり違っていて、現代フランスの若者にとっても馴染みが薄いもののようだ。
しかし、『新エロイーズ』には、読みにくいという理由で読まないでおくにはもったいない価値がある。
では、どうすればいいのか?
私たちは小説を読む時、一つの「思い込み」を持っている。それは、あらすじをたどりながら最初から最後まで読まないといけないという思い込みだ。
最近では、映画を短く編集し、あらすじだけを分かるようにして、見たつもりになる人々までいるという。
しかし、あらすじは小説や映画の本質ではない。あらすじは物語を展開させる骨組み。大切なのは肉付きであり、内蔵の機能であり、感情や精神性である。
ただし、心臓の動きを知りたい時に、足の裏まで点検する必要はない。
とすれば、小説を読む場合にも、必ずしも最初から全てを読む必要はなく、いちおう大まかな物語の展開を知った上で、興味に応じて必要な箇所を読むという読み方も許されるはずである。
物語の展開
『新エロイーズ』は六つの部分から成り立ち、前半の3部と後半の3部の間には6年の歳月が流れている。
その構成は、後半になると、前半部が過去の思い出となり、常に現在と対比されるという、時間の二重性を作り出すのに役立っている。

第1部
スイスのレマン湖の辺にあるヴヴェで、サン・プルーは、デタンジュ男爵の娘ジュリの家庭教師をし、彼女と恋に落ちる。
ジュリの方では、従姉妹のクレールを呼び寄せ、心の内を打ち明けたりするのだが、ある時、クレールに促されるようにして、サン・プルーに最初の口づけを許す。
二人の間には身分の差があり、デタンジュ男爵は二人の結婚を許さない。ジュリは美徳をサン・プルーに説きながら、しかし、最後は一夜を過ごすことになる。
第2部
二人の関係を知ったデタンジュ男爵の怒りを避け、サン・プルーは、友人のエドワードと友にパリに旅立つ。そして、そこからジュリに、彼の絶望だけではなく、パリという都市文明に関する様々な考察を書き送る。
それらの手紙は、ジュリの母の知るところとなる。
第3部
手紙発見の直後、母は重い病に罹り亡くなってしまう。ジュリはその原因が自分にあるのだと考え、自責の念にかられる。
さらに天然痘に罹る。それを知ったサン・プルーはパリから戻り、病いの恋人に口づけする。
彼の偽りのない愛を知ったジュリだが、しかし、彼女は美徳を選択し、父親が決めた相手であるヴォルマールと結婚する。式が行われる教会で神の啓示を受けて回心し、誠実な妻となることを心に誓う。
サン・プルーは結婚の知らせを受け自殺を考えるが、エドワードに説得されて思いとどまる。そして、アンソン提督の率いる世界を巡る船の旅に出る。
第4部
6年が発ち、サン・プルーが旅から戻ってくる。
ジュリは、レマン湖畔のクラランで夫のヴォルマールや子供たちと平和な日々を送り、過去の恋愛からは回復していると信じていて、サン・プルーが来訪する前、夫に過去のことを告白する。

サン・プルーの訪問を受け、ジュリは、彼女が作り上げた地上の楽園ともいうべき「エリゼの庭」を散策する(書簡11)。
ヴォルマールは、サン・プルーがまだジュリを愛している様子を見て、その愛が過去の幻であることをわからせるために、ジュリとサン・プルーがかつて散策した場所 ——— 最初の接吻をした木立(書簡12)とメイユリ(書簡17)—— を再び訪れるように勧める。
メイユリでは、船上で過去の感情に心を動かされ、サン・プルーはジュリとともに湖の中に飛び込み、死を望むほどの激しい思いに襲われる。しかし、最後は何とか思いとどまる。
第5部
過去の思い出に現在を重ね合わせることで、過去の愛がすでに存在しないことを証明するという試練を経て、サン・プルーはヴォルマールの信頼を得ることになり、夫妻の子ども達の家庭教師になる。
この章では、葡萄の収穫などクラランでの生活が中心に語られ、とりわけジュリのキリスト教信仰とヴォルマールの懐疑主義の対比が描かれる(書簡5)。
第6部
ジュリはサン・プルーがクレールと結婚することを願うが、サン・プルーはそれを望まない。
ある日、家族でシオンに出掛けた時、息子が誤って水の中に落ちる。助けようとしたジュリはそれが原因で病気になり、そのまま亡くなる。その死を彼女は穏やかに受け入れ、感銘を受けた夫はキリスト教の信仰を受け入れるようになる。
その一方で、彼女はサン・プルーに一通の手紙(書簡11)を残し、彼女の心の病、つまり恋愛は、ずっと治癒しないままだったことを告白する。
エロイーズから新エロイーズへ
サン・プルーとジュリの恋愛をテーマにした書簡体小説に『新エロイーズ』」という題名が与えられたのは、12世紀に実在したアベラールとエロイーズとの往復書簡を連想させるためである。

ピエール・アベラールは有名な神学者、論理学者。1117年頃、彼はノートルダム大聖堂参事会員フュルベールの姪であるエロイーズの家庭教師になり、彼女と恋に落ちる。その後、二人は秘密裏に結婚するが、様々な出来事を経て、フュルベールがアベラールを襲わせ、睾丸を切断してしまう。
その事件の後、アベラールはサン・ドニの修道院に入り、エロイーズはアルジャントゥイユ修道院で修道生活を送った。
1132年頃、アベラールがこうした事件の顛末を友人に手紙で綴る。その手紙を読んだエロイーズは、アベラールに愛を求める手紙を送り、二人の間で恋愛に関するラテン語の書簡が交わされた。
その中で、エロイーズは、女子修道院長でありながら、肉体的なうずきにまで言及するといった激しい情熱を感じさせる言葉を切々と綴った。

17世紀後半、二人の書簡集は好色な傾向の著作で知られる作家によってフランス語に訳され出版されたが、その翻訳は教会から禁書に指定された。
1717年、イギリスの詩人アレグザンダー・ポープが、フランス語版を英語に訳したものに触発され、「エロイーズからアベラールへ」という詩を公にし、人気を博した。
そうした事情のため、エロイーズという名前は、官能的な情念を連想させるようになっていたものと考えられる。
ジャン・ジャック・ルソーは、サン・プルーを住み込みの家庭教師、ジュリを教え子という設定にすることで、主人公たちをアベラールとエロイーズと同じ関係に置いた。
そのために、読者たちは、『新エロイーズ』という題名を見て、情念に突き動かされる恋愛物語を思い描いたことだろう。
17世紀後半から18世紀前半にかけて、情念に対する感受性が大きく変化していた。
17世紀を代表するラシーヌの『フェードル』(1677)において、情念とは人間を悪や死へと追いやる巨大な力であり、「恋は毒」だった。
それに対して、18世紀前半の『マノン・レスコー』(1731)では、たとえ愛が死への道であろうと、物質的な破滅を招いたとしても、マノンを愛することがデ・グリュの幸福だという視点が示されるようになっていた。
愛の情念が感覚的な次元でも解放されたことは、ブーシェやフラゴナールの絵画を通して感じ取ることができる。




ルソーは、エロイーズという名前を題名に使うことで、こうした流れをはっきりと示した。彼は序文で、次のような警告を発している。
この書簡集は、乱れた生活の中で誠実さへの愛を多少なりと保った女性たちにとっては、有益かもしれません。しかし、少女たちに関しては、まったく別の話です。清純な少女はこれまで小説を決して読みませんでした。私がこの書簡集にかなりはっきりそれとわかる題名を付けたのは、本を開けば、何が書かれているのかがわかるようにするためです。題名にもかかわらず、あえて一ページでも読もうとする子は、破滅した娘です。しかし、破滅をこの本のせいにしてはいけません。悪は予め起こってしまっていたのです。読み始めたのなら、読み終わらなければなりません。もう恐れるものはないのですから。(「序文」)
エロイーズの名前が連想させるのは、乱れた生活の女性や破滅した少女。恋愛という情念が、官能性と人生の破滅をもたらすことの暗示だといえる。
しかし、もしそこで留まるのであれば、「新しい」という形容詞はつかない。ルソーは、一度読み始めたら、最後まで読む通すように勧める。
それは、恋愛が決して破滅への道ではなく、愛と美徳は両立することを示したからだろう。
ジュリは敬虔で誠実、一貫して自己抑制のきいた女性として描かれる。実際、彼女は、恋人に対しても夫に対しても美徳を説き、自身も偽りのない美徳に貫かれた生活を送ろうとしているように見える。「美しい魂」の代表といってもいい。
そのジュリが、死後に読まれるようにと残した手紙の中で、サン・プルーへの愛という病が、彼女の中で癒えることはなかったと告白する。
私は長い間幻を抱いてきました。その幻は私の救いとなるものでした。それが壊れるのは、それをもう必要としない時です。貴方は私が回復したと思われていました。私も回復したと思っていました。(中略) そうです、いくら最初の感情を抑えようとしても無駄でした。その感情が私を生きさせてきたのです。その感情は私の心の中で凝縮されていました。その感情が目を覚ましますのは、もはやそれを恐れる必要がなくなる時です。肉体の力が私を見捨てようとしているこの時、その感情が私を支えています。その感情が私を息づかせています。私が死のうとする時にです。この告白をしても、私が恥じることはありません。私の意志に反して残り続けてきたこの感情は、私の意図しないものでした。何一つ、私の潔白の価値をおとしめるものはありません。意志にかかわるもの全ては、私の義務でした。意図の支配にはない心が貴方に向けられていたのだとしたら、それは私の苦しみであって、私の罪ではありません。私はなすべきことをなしてきました。私の美徳に傷はありません。私の中に残る愛に悔いはありません。(第6部、書簡11)
このジュリの告白は、『新エロイーズ』の中心となるテーマが何なのか、最後に明確に表現したものといえる。
彼女は、「感情」を中心に置き、それを二つのものと峻別する。
一つは、「肉体」。
彼女は今、死の床にある。肉体は彼女を見捨てようとしている。その時でも彼女を生かしているのは、サン・プルーを愛する感情。
この区別は、恋愛という情念は肉体と関係するのではなく、心の問題であることを示している。
もう一つは、「意志」。
意志は理性と言い換えてもいい。彼女は理性の力によって行動をコントロールし、義務を果たしてきた。
しかし、愛の情念は、意志のコントロール下にはない。従って、恋愛感情が結婚後もサン・プルーに向けられ続けたとしても、彼女にはどうしようもなかったことであり、彼女の罪にはならない。
こちらの区別は、感情は理性とは独立したものであり、無意志的なものということを示している。感情の源は心であり、それこそが人間に「生」を感じさせる。
このように、感情を肉体や理性と峻別することは、人間にとって「生きる」中心は、肉体でも、思考でもなく、「感情」にあるという思想の表明だといえる。
「心」の中に生じる恋愛という情念は、肉体的な次元の有無に関係なく、美徳を傷つけるものではない。そのジュリの言葉は、過去のエロイーズの愛を感覚的、官能的な側面から捉える傾向を批判し、恋愛を情念という言葉から解放する。そして、理性の支配の及ばない感情に属するものと考え、恋愛とは生きる証だとする。
こうして、ルソーは、新エロイーズであるジュリを通して、18世紀後半においての新しい恋愛のあり方を提示したのだといえる。
そして、それは「心の時代」の開始を告げる合図だとも考えられる。
思い出に刻まれる感情 —— 記憶の作用

木立での最初の口づけの後、サン・プルーはジュリに、彼の燃えるような思いを綴った手紙を送る。その中で描かれる恋愛は、理性のコントロールを破壊する激しい情念であり、その意味では、17世紀以来続く恋愛観と同一のものである。
しかし、その一方で、新しい傾向も見られる。それは、恋愛それ自体以上に、口づけの「思い出」が大きな役割を果すことである。
行為は記憶の中に刻まれ、印象がより強くなる。
ああ、君は何をしてくれたんだ! 愛しいジュリよ、君は何をしたんだ? 君はぼくを慰めようとして、ぼくを破滅させた。ぼくは酔っている。というより、気が変になっている。五感がおかしくなり、全ての機能が乱れている。あの運命的な口づけのせいだ。君はぼくの苦悩を和らげようとしたのだろうか? 残酷な人よ、君は苦悩をより激しいものにする。ぼくが君の唇の上で飲んだのは、毒だった。その毒が発酵し、ぼくの血を燃やす。ぼくを殺す。君の同情がぼくを死なせるんだ。 (第1部、書簡14)
このサン・プルーの叫びに似た言葉は、恋愛とは、理性を失わせ、全てを狂わせ、死に至らせる病であるという認識を示している。
「破滅」「気が変になる」「運命的な」「死」、そして何よりも「毒」という言葉が、フェードルの「恋は毒」という言葉と響き合っていることは確かである。
『新エロイーズ』の新しさは、その致命的な体験を直接的な体験として語るのではなく、記憶の中に位置づけるところにある。
おお、幻と狂気と魅惑の混在するあの瞬間の、不滅の思い出よ。決して、決して、お前は私の魂から消え去ることはないだろう。ジュリの魅力が私の魂に刻まれている限り、動揺するこの心が、感情とため息を私の中に生み出し続ける限り、お前は私の生の苦しみであり、幸福だ! (第1部、書簡14)
前の節でサン・プルーが「お前」と呼びかけたのはジュリだった。その「お前」と呼びかける相手が、ここでは「思い出」に代わる。
極端に言えば、愛の対象が目の前にいるジュリから、思い出の中のジュリ、あるいは思い出そのものに変質する。
そして、過去の思い出は、これからも決して消え去ることはない。つまり、未来にも刻まれる。
一回限りの出来事であれば、それは現在時だけに留まり、すぐに消え去ってしまう。
それを思い出として記憶に刻むことで、過去・現在・未来に存在するもの、つまり永遠の存在となる。
その思い出に苦しむことも、愛の証であり、幸福を感じさせもする。
このことは、恋愛を肉体的・感覚的な次元に留めるのではなく、感情の次元に移行することを意味している。その感情は、思い出を喚起する何らかのきっかけとなる物があれば、突然甦ってくる。
サン・プルーが、ジュリに宛てた手紙の中で、口づけをした相手(ジュリ)に向けて、その時の様子を具体的に綴るのは、彼女の記憶にも行為を刻み込み、彼女の感情を永遠のものにするためだと考えることができる。
そうでなければ、最初はクレールが口づけを望み、次に突然ジュリが彼女に代わったなどと語る必要はない。
そして、ジュリの記憶に感情が刻まれたからこそ、死に際して、恋の病は治癒していなかったという告白に繋がることになる。
ルソーは、『音楽辞典』の中で、「ラン・デ・ヴァッシュ」というスイスの伝統的な牛追いの民謡を聴くと、スイスの軍人たちは望郷の念にかられるので、軍隊ではその曲が禁じられていたという例を引き、「記憶の合図」という言葉でその現象を説明している。
こうした「記憶の作用」は、ルソーが様々な場面で用いるだけではなく、19世紀の作家シャトーブリアンやジェラール・ド・ネルヴァルが活用し、20世紀になるとマルセル・プルーストが『失われた時を求めて』の創作原理とした。
自然と内面の対応 —— 忘我的恍惚
ジュリとの関係がデタンジュ男爵に知られてしまったサン・プルーは、父の怒りを避けるために、男爵家を去り、山岳地方に旅に出る。
そこで、彼は、それまでのヨーロッパにおける自然観とは大きく異なる自然観を獲得する。
ルソー以前、ヨーロッパにおいては、自然とは文明と対立し、人間が征服すべき対象だった。
それに対して、ルソーは、自然と人間の対応を考え、自然の光景が人間の心あるいは魂に及ぼす影響に言及する。
サン・プルーがジュリに告げる自然との交感は、そうしたルソーの自然観の表現である。
出発する時、ぼくは悲しく辛い思いをしていたが、君が喜んでくれることに慰められてもいた。なんとなく物憂い状態にいて、その状態が感じやすい心にとっては、魅力がないわけではなかった。ゆっくりと歩いて、かなり険しい坂道を上っていった。ガイドとして雇った男が案内してくれたのだけれど、彼は旅程の間ずっと、雇われているというよりも、友だちのようだった。ぼくは夢想したいと望んでいた。でも、いつでも、予想外の景色に気を逸らされた。巨大な岩が、頭の真上で、廃墟のように宙づりになっていることがあった。高くて大きな音を立てる滝が、あつい霧で僕をぐしゃくしゃに濡らすこともあった。永遠の急流がぼくのすぐ横で大きな深淵を開け、どんなに見ても底まで見えなかった。時には、生い茂った森の暗闇の中で迷子になった。深淵から外に出ると、気持ちのいい草原が突然目を楽しませてくれることも何度かあった。(中略)
東には春の花、南には秋の花、北には冬の氷があった。自然は一つの場所に全ての季節、全ての気候を集めていた。一つの時間の中に、対立する地形があり、平地で作られるものとアルプス山脈で作られるものが、他では見ることのできない調和を生み出していた。(第1部、書簡23)

こうしたアルプスの自然の光景を目にして、サン・プルーの心に平穏が訪れる。
最初は、それは風景の心地よさのためだと考えるのだが、次には、高山の空気の純粋さのおかげでもあると続ける。
垂直にそびえ立つ高い山々の純粋な空気の中にいると、目に入る光景の素晴らしさに応じて、考える内容も偉大になり崇高になる。
官能も穏やかになり、感覚的なものではなくなる。そして、変質することのない純粋さを、魂が獲得する。
他の場所では苦しみだった情念が、そこでは大きな幸福に変わる。
スイスの山岳地帯を始めて美の対象にしたのはルソーだと言われることがあるが、サン・プルーの言葉を読むと、幸福感が美を生み出すことがわかってくる。
それまで人間を苦しめると考えられてきた厳めしい自然が、サン・プルーには、変化に富み、偉大で、美しい、驚くべき光景に見えてくる。
彼を取り囲む全てが「全く新しいもの」になる。鳥は奇妙で、植物も未知なもの。そこにあるのは「別の自然」であり、彼は「新しい世界」にいるように感じる。
その新しい世界は、自然自体が変化したのではなく、自然を見る人間の視線が変化したからに他ならない。あるいは、人間と自然の関係が変化したといってもいい。
人間の心情と自然が対応関係にあるとする自然観は、日本的な感性にとっては「当たり前」と思われるだろう。万葉の時代から、日本人は自然を歌うことで、心の中の感情を表現してきた。従って、サン・プルーの言葉は当たり前すぎて、それが新しいと考えることに驚くかもしれない。
しかし、物質主義的で科学的な思想が発展した18世紀のヨーロッパでは、外部の自然と人間の「内面」が対応すると考える自然観は斬新なものだった。
そうした記述を終わるにあたり、サン・プルーは、自然が人間にどれほどの幸福をもたらすかを明かす。
結局、この光景には、魔法的で超自然な何かがあり、精神と感覚をうっとりさせる。人は全てを忘れ、自分自身さえ忘れてしまう。もはや自分がどこにいるのかもわからない。(第1部、書簡23)
美しいスイスの山脈の高みで、純粋な空気に包まれ、自然とサン・プルーは新しい関係を結び、新しい世界が姿を現したように感じる。
その世界は現実を超えた何か特別な魅力があり、彼はうっとりとし、魂を奪われたように感じる。そして、我を忘れ、恍惚感に浸る。
ここではまだ明確な形では書かれていないが、この忘我的恍惚は、晩年に書かれた『孤独な夢想者の散歩』になると、絶対的な幸福の瞬間として描かれる体験である。
私たちの日常体験の中でも、時間を忘れるほど何かに熱中している時、それに夢中で自分自身のことを考えることはなく、後で思い返したときに、楽しかった、幸せだったと思うことがある。我を忘れる瞬間が幸福の時だということは、体験的に理解できるに違いない。
ルソーは、自然の中で忘我的恍惚を表現した最初のヨーロッパ人と言われることがある。
その意味で、自然に美を感じ、自分の心情を山川草木に託すことを当たり前と感じてきた日本的感性には、親しみ易い感受性の持ち主だといってもいい。
ここでもう一つ注目したいのは、サン・プルーが旅行に出発する時の心情として、「物憂さ」に言及していること。
「物憂さ」のおかげで、人と物の間の断切がおぼろでになり、内部と外部が対応しやすくなる。
ヴェルレーヌの「巷に雨の降るごとく/わが心にも涙降る。/かくも心ににじみ入る/このかなしみ(物憂さ)は何やらん?」(掘口大學訳)という詩句を思い出すと、「物憂さ」の効果が理解できるだろう。
「物憂さ」とは、自意識がぼんやりとし、外部の世界と心の内面の境界をおぼろげになり、忘我的恍惚を準備するのに適した状態だといえる。
自然と記憶 —— 持続する感情の魅力
『新エロイーズ』が2部で構成され、二つの間で6年の歳月が経過する。そのことは、小説全体が「記憶の作用」を作動させる構造に基づいていることを示している。
第2部から見ると、第1部は過去に属し、そこでの出来事は全て記憶の中に刻まれたものになる。
サン・プルーは6年の時を経てジュリに再会し、6年前と同様に彼女を愛していると感じている。ジュリは、美徳ある生活を送りながらも、恋愛感情が彼女の中に残っているのではないかと恐れているようでもある。
しかし、ジュリの夫ヴォルマールは、二人の愛が記憶に刻まれた過去のものであり、現在は存在しないと考える。ヴォルマールによれば、サン・プルーが愛しているのは、娘時代のジュリ・デタンジュであり、妻となったジュリ・ヴォルマールではない。
そこで、過去の記憶と現在を対比させることで、サン・プルーとジュリは幻から醒め、現在の感情を認識すると考え、二人に過去の追体験をさせるように促す。
メイユリの散策はその最後の仕上げであり、記憶の作用の圧倒的な力と、それに対抗する現在の意義が、情熱的な様子で描かれる。
その散策にあたり、ルソーは自然の光景として、レマン湖畔に位置するメイユリを選択する。そして、その地を過去の記憶に満ちた地とすることで、自然と記憶の機能を重ね合わせる。

ヴヴェから見ると対岸にあるメイユリは、10年前、サン・プルーがジュリの父親の怒りを避けるためにヴァレ山地に逃れた後で、ジュリの住むヴヴェの近くまで戻ってきた場所だった。
過去の愛に満ちた思い出の地。その地を、10年後ジュリと二人で訪れた時の様子を、サン・プルーは友人のエドワードに宛てた手紙の中で、切々と描写する。
私たちのいる小さな空き地は、巨大で堂々とした木々の真ん中にあり、朗らかで田舎風の住まいといった魅力がありました。小川が何本か岩の間をつたい、緑の中を流れる様子は、水晶の網のようでした。私たちの上には、果物をつけたの野生の木々が垂れ下がっていました。新鮮で湿った地面は草や花で覆われていました。これほど穏やかな場所と、それを取り囲むものを比べてみると、何もないこの空き地は、二人の恋人のための避難場所に違いないと思えました。二人だけが自然の混乱から逃れることができたのす。
その隠れ家にたどり着き、しばらくの間じっと眺めた後で、私は涙で湿った目でジュリを見つめながら、言いました。「どう! ここにいて、心が君に何も言わない? 君でいっぱいのこの場所を目にして、何か秘密の感動を感じない?」そして、彼女の返事を待つことなく、あの岩のところまで連れて行き、至る所に刻み込んだ彼女のイニシャルと、ペトラルカとタッソーの詩句を見せました。詩句は、それらを刻んだ時の心情を表しています。私自身久しぶりに見て、それらが目の前にあることが、かつてそれらが近くにあった時に感じた激しい感情を、どれほどの力を持って生き返らせるのか、痛感しました。(第4部、書簡17)
「記憶の作用」のキーワードは、「刻む」という言葉。
ここでは、ジュリのイニシャルや恋愛抒情詩の詩句が「刻まれて」いることで、それらが「記憶の合図」であることがはっきりと示される。
そして、それらを自然の中に配置することで、サン・プルーの心を、過去に感じた忘我的な恍惚感や幸福が一気に捉えることになる。
ところが、ジュリは冷静で、高揚したサン・プルーをなだめるように、その地を去ろうと言う。なぜなら、ジュリにとってその地は初めて訪れる場所であり、刻まれた文字は彼女にとって「記憶の合図」ではないからだ。
二人はそこを離れて船付き場に戻り、船で対岸のクラランに向かう。
その船上での状況は、かつで二人で体験した散策の反復になり、過去の幸福の感覚が蘇る。しかし、サン・プルーは忘我的幸福に包まれるよりも、苦しみをより強く感じることになる。

夕食が終わると、私たちは浜辺に座り、出発の時を待ちました。静かに月が昇っていました。水面が穏やかになり、ジュリは出発しようと言いました。私は彼女に手を貸し、船の中に入りました。彼女の手を握りしめ、その手を離そうとは考えませんでした。私たちは深い沈黙を保ちました。船のオールの均質で規則正しい音が、私を夢想に誘いました。シギたちの陽気な鳴き声を聞き、私はかつての喜びを思い出し、しかし、楽しくなるのではなく、悲しくなりました。少しずつメランコリーな気分が大きくなるのを感じ、私は憂鬱な気分に圧倒されていました。澄んだ空、月の穏やかな光、私たちの周りで光る水面の銀色の震え、この上なく心地よい感覚の集まり、愛する人の存在、それら全てがあったとしても、何一つ、私の心から、数多くの苦しい考えを引き離すことはできなかったでしょう。
私は、二人の愛の最初の頃、うっとりとする中で彼女と一緒にした、今回と同じような散策を思い出し始めました。私の魂を満たしていたあらゆる甘美な感情が再び描き出され、魂を苦しめました。青春時代の全ての出来事、勉強、話した言葉、手紙、二人で会ったこと、楽しかったこと、(中略)、過去の幸福の映像を思い出させる全てのちょっとした物たち、それら全てが戻ってきて、今の悲しい状況をより大きくし、思い出の中に場所を占めました。「もう終わりだ。」と私は私の中で言いました。「あの時間、あの幸福な時間はもはや存在しないんだ。永遠に消え去ってしまった。」(第4部、書簡17)
月の光に照らされた船の上の状況は、19世紀になり、ロマン主義が生まれると、愛の風景として何度も描き出される情景になる。ルソーのこの描写はその源流だろう。ロマンチックな風景の源。
しかし、サン・プルーは幸福に包まれるどころか、悲しみが深くなる。「もう終わりだ。」
「記憶の合図」となるものに満たされ、至福の感覚に捉えられるはずであるにもかかわらず、「あの幸福な時間はもはや存在しない。永遠に消え去ってしまった。」と言う。
その理由はどこにあるのか?

ああ、あの時はもう戻って来ないでしょう。私たちは生きています。一緒にいて、心は常に結ばれています! でも、こんな風に思えるんです。彼女が死んでいるか、あるいは一緒にいない方が、耐えられただろうと。彼女から遠くで過ごす時間の方が、苦しみは少ないかっただろうと。彼女と離れて苦痛にうめく時には、再び会えるという希望が、心を慰めてくれました。彼女がいてくれる一瞬があると思うだけで、全ての苦痛は消え去るだろうと思っていました。少なくとも、そうした可能性の中に、今の私の状態ほどは残酷でない状態を垣間見ていました。しかし、彼女はすぐそばにいます。彼女を目にし、触れ、話し、愛し、崇拝しています。再び彼女を手に入れたといえるほどですが、彼女は永遠に私から失われてしまったと感じるのです。そのことが私を狂乱の極みに投げ込み、徐々に絶望にまで導きました。心の中で不吉な考えを巡らせ始め、それを考えるだけで身体が震えるようなトランス状態の中で、私と一緒に彼女を波の中に投げ入れ、彼女の腕の中で私の命と長い間の苦悩を終わらせたいという、激しい思いにかられました。その恐ろしい誘惑が最後にはあまりにも強いものになったので、私は突然彼女の手を離し、船の先端に向かわなければなりませんでした。(第4部、書簡17)
サン・プルーがジュリを伴い湖の中に身を投げ込もうとする絶望にまで達する理由はただ一つ。
それは、ジュリが彼の手の届くところにいること。つまり、彼女が「存在」すること。
彼はそのことがよくわかっていて、彼女が不在であれば、苦しみは少ないと自覚している。
21世紀の読者には、この論理は馬鹿げていると思われるかもしれない。
しかし、思い出と現在を重ね合わせることによって、サン・プルーの病、つまり恋愛の情念を癒すことは、ジュリの夫ヴォルマールが考えた治療法だった。
すでに記したように、ヴォルマールは、サン・プルーが愛しているのはジュリ・デタンジュという娘であって、不在の女性への愛だと考えた。そこで、現在のジュリ・ヴォルマールを直面させることで、幻は消え去るはずだというのが、彼の論理だった。
その治療法をサン・プルーに施すことで、ルソーが意図したのは、現実の強力さのように見えるかもしれない。
確かに、サン・プルーは、目の前のジュリ・ヴォルマールの存在によって、彼が愛しているジュリは「永遠に失われてしまった」と感じる。
その流れに従えば、人間を支配するのは、五感で感じることができる現在の感覚であり、その感覚の契機となる物質あるいは肉体ということになる。
もしルソーの目的がそうした物質主義的、感覚論的世界観の確認であれば、彼は18世紀の思想に新しい何かをもたらすことはなかった。
他方、『新エロイーズ』全体を通して「記憶の作用」にかかわる記述やエピソードを展開したとすれば、「ヴォルマールの方法」を中心にしたメイユリのエピソードは、「現在の現実」が勝利に至る前まで、「記憶」が魅力的な力を振るい続けていたことを読者に感じさせるために準備されたものに他ならない。
記憶は不在のものを前提にする。存在するものが「記憶の合図」として機能する時、感情が一気に溢れ出す。
その感情は、過去のものであるが、決して消滅したのではなく、実は人間の「心」の中で持続し、ある事物をきっかけにして再び湧き上がってくる。
そのように考えると、ルソーの新しさは、感覚ではなく、持続する「感情」に人間の中心をシフトしたことにあるということが理解できる。
「内面」への価値付けも、その動きに対応している。
すでに見てきたように、長大な書簡体小説の最後に置かれたジュリの手紙の中で、彼女の心の病は癒えていなかったという告白がなされる。そのことは、「ヴォルマールの方法」によっても、彼女は記憶の中の感情を失うことはなかったことを意味している。
彼女が新しいエロイーズであるのは、過去の感情の記憶が現在の感覚よりも人間にとって魅力的であり、本質的であることを具現化した存在であるからだ。
『ジュリ、あるいは新エロイーズ』は18世紀最大のベストセラーだった。その事実は、18世紀後半の時代精神が、感覚中心の世界観から、感情を中心とする世界観に移行しつつあったことを示している。
しかも、その感情は、現在の感情という以上に、記憶の作用によって喚起される過去の感情であり、それが不在の対象に対するあこがれを生み出すことになる。
その視点から見ると、存在(時間)よりも不在(永遠)に実在を見るプラトニスム的な世界観と対応しているともいえる。ルソーにおいて、プラトンが天上に措定したイデアが、過去の感情として人間の心の中、あるいは内面に置かれる。
人間にとって大切なものは目に見えない心だという内面の時代の起源が、そこにあると考えることもできるだろう。
ルソー『新エロイーズ』(全4巻)、安士正夫訳、岩波文庫、1960年。
桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』世界思想社、2010年。
井上櫻子「新エロイーズ パトスの解放を指向する「貞淑な」女性の物語」
鈴木美津子『ルソーを読む英国作家たち―『新エロイーズ』をめぐる思想の戦い』国書刊行会、2002年。
アベラールとエロイーズ『愛の往復書簡』沓掛良彦、横山安由美訳、岩波文庫、2009年。
水野尚『恋愛の誕生 12世紀文学散歩』京都大学学術出版会、2006年。
「尊敬と恋愛 アベラールとエロイーズの恋愛書簡」