ルソー 告白と夢想 永遠の現在を生きる

ジャン・ジャック・ルソー(1721-1778)の後半生は、自己の人生を回想する作品に費やされたといってもいいだろう。
死後に出版された『告白』(第1部、1782年、第2部、1789年)や『孤独な散歩者の夢想』(1782)は、思想書、小説、戯曲等の執筆状況を含め、私生活を隠すところなく語った自叙伝となっている。
そのために、ルソーの著作を解読しようとすると、読者は自然に彼の告白から理解を始めようとする傾向が生まれた。例えば、ディジョンのアカデミーに応募した論文、書簡体恋愛小説『新エロイーズ』、『エミール』などに関して、『告白』の関係箇所に目を通し、彼の思想や私生活に基づいた解釈をする。
そこで、ルソーは、自分の「伝記」を書くことによって、彼の著作の死後の読み方を指定したとさえ言うことができる。

ここで注目したいのは、人生を振り返り、それを語る作業は、「記憶」に基づいているということ。
普通に考えれば、思い出には確かなこともあれば、不確かなことも、間違っていることもある。しかし、ルソーはとりわけ「真実性」に力点を置く。

 私が試みることはこれまでに決して例がなく、今後も真似する人はいないだろう。私は、一人の人間を、自然の真実のままに仲間たちにお見せしたい。そのようにして描かれることになる人間とは、私である。(『告白』第1巻)

このように、彼の自画像には決して嘘偽りがなく、真実であることを強調する。そして、その試みは、これまでに誰もしたことがないし、これからも真似る人はいないであろう、唯一のものだとする。

アウグスチヌスの有名な『告白』とも、モンテーニュの『エセー』とも、歴史上に名前を残す人々の「回想録」とも違う。
そうした言葉は、自分の告白を価値付けるための宣伝文句という面も否定できない。しかし、実際にルソーは、その独自性を確信していたと思われる。
エピグラフ(銘句)として引用される古代ローマの詩人ペルシウスの句が、その確信の源泉を示している。

内面に、そして、肌の下に。 Intus, et in Cute.

告白 — 記憶と内面

ルソーは大変に特殊な感受性の持ち主だったらしい。
彼にとっては、目の前にあるものよりも、記憶に刻み込まれ、後から思い返すものの方が、物事の理解にとって重要なのだという。

生まれてから青春時代までの思い出を綴りながら、彼は次のような言葉で、自分の試みを正当化しようとする。

 若い時代のこうした細々とした出来事は子供っぽく見えたかもしれない。そうしたことに自分でもムッとしている。様々な点で大人として生まれついたのだが、長い間子供のまま生きてきたし、今でもまだ多くの点では子供でいる。私は読者に、偉人を提示するとは約束しなかった。約束したのは、あるがままの自分を描くことだった。年齢を重ねてからの私を知るためには、若い頃の私を知ってもらう必要がある。一般的に言って、現実の事物は、その思い出と比べて、私に与える印象は少ない。私の全ての考えはイメージの状態にある。最初の形は、頭の中に刻み込まれ、そこに留まった。次に刷り込まれたものは、最初の形を消し去るのではなく、それらと結合した。このようにして、一連の感情や思考の繋がりができ、それが次に続くものを変形する。後から来るものを知るためには、前のものを知らなくてはならない。私が一生懸命にしているのは、至るところで、最初の原因となるものを膨らませ、それらの結果の連鎖を感じてもらうことだ。読者の目に、私の魂を透明にできたらと願っている。そのために、あらゆる観点から読者に魂をお見せし、あらゆる光で魂を照らし、読者が気づかない動きが一つも起こらないようにしている。そうすれば、読者自身で、魂の動きを作り出す原則を判断できるだろう。(『告白』 第4巻)

子供と大人や、「偉人を提示するとは約束しなかった」といった言葉は、「回想録」を前提にして、『告白』の独自性にスポットライトを当てるために記されている。

「回想録」を書くのは歴史に名前を残す「偉人」たちであり、彼らの生涯の記録は歴史的な証言としての価値を持つ。
それに対して、ルソーは楽譜の転写で生計を立てる小市民といってもいい存在であり、「回想録」を書くに値する「偉人」とはいえなかった。
その上、ジュネーブで生まれ、少年時代にその町を脱走した後、各地を彷徨い、いかにも子供じみた行為を繰り返すエピソードが書き連ねられる。そうした記述は、当時の読者から見ると、書く価値も、公表する価値もなく、むしろ不謹慎なものだった。
ルソーは明らかにその批判を予め意識して、なぜ子供っぽい行為を繰り返す過去の自分の姿を描くのか、その意義をここで読者に明かそうとしている。

その意義を考える前に、一つだけ、ルソーがだんまりを決め込んでいる点を指摘しておきたい。

青春時代の思い出が語られる『告白』の第一部は、読み物として大変に面白く、小説のようでもある。
伝記や自伝、回想録などは、現実に起こった事柄を記録するものであり、面白さではなく、事実に基づくことが前提の文学ジャンル。もしあまりにも面白いと、真実性を疑われることになる。
とりわけ、自分のことを語る場合、証人は自分だけのことも多く、本当のことだと正当化するのは、歴史のように、事実を客観的に積み重ねる語り方によるところが大きい。

しかし、ルソーはそうした方法での真実性を求めず、とりわけ子供時代の記述に関しては、彼の時代に流行していた悪漢小説のような面白さを持つ語り方を用いた。
事実に基づいた出来事の記述でありながら、「読み物」的な語り口を導入したのだとしたら、その理由は何か?

彼が語る対象は「偉人」でははい。18世紀の視点で見れば、自分のことを語る価値などない人間。それでも自分のことを語り、読者に読んでもらうためには、悪漢小説のように面白く読める工夫をしても悪くはない。

では、語り口に真実性を求めないとしたら、ルソーはどこに生涯の物語の真実性を求めるのか。
彼はなによりも、「あるがままの自分を描く」と主張する。
「自然の真実のままに一人の人間を描くとして、その真実はどこにあるのか?」と問いかけたら、ルソーはこう応えるだろう。
「内面に、そして、肌の下に。」

引用されたこの詩句について、次のようなことを考えてみよう。
自分の接している相手が何を感じ、何を考えているのかわからないことがある。そんな時、私たちは、相手の顔付きや何気ない身体の仕草を通して、頭の中や心の動きを探ろうとする。しかし、身体の動きから心の中を推測したとしても、それが正しいかどうかはわからない。
なぜ内面の動きが見えないかと言えば、肉体が物理的な障害となっているからだ。肉体が透明になれば、「肌の下」は透けて見える。

ルソーにとって「ありのままの自分」とは、肌の外側の自分ではなく、肌の下の自分、自分の内面に他ならない。
その場合、物理的な肉体の行為の記録が誤っていたとしても、真実を偽ることにはならない。
実際、「第7巻」を始めるにあたり、出来事を書き忘れたり、あちこちに移動させてしまったり、日付の間違いなどがある可能性を認めている。しかし、「私が感じたこと、私の感情が私にさせたこと」に関しては、誤りはないと強く主張する。

私の告白の本来の目的は、人生のあらゆる状況における私の内面を正確に知ってもらうこと。約束したのは、私の魂の歴史に他ならない。それを忠実に書き記すために、他の記録は必要ない。ここまでそうしてきたのと同じように、私の内面に戻るだけで十分なのだ。(『告白』 第7巻)

「他の記録」というのは、彼以外の人の証言であったり、事実関係を記した何らかのメモのようなものかもしれない。そうしたものは、真実の姿を描くためには不要な資料。
真実は内面にあり、感情の動きが真の私の姿を描くことになる。

第4巻から引用した記述で重要なことは、内面が記憶の作用と関係付けられていることである。
「現実の事物は、その思い出と比べて、私に与える印象は少ない。」
ルソーの特異性を言い表すのに、この言葉ほど的確なものはない。彼にとっては、今ここで目に見えている存在よりも、その存在を記憶に留めた姿の方が、より強い印象を生み出すのだという。

普通であれば、知覚しているものの方が直接的であり、その記憶に関しては、薄らいだり、不確かになったり、歪められたりすると考える。記憶には噓が入る可能性もある。
しかしルソーは、知覚する物体よりも、記憶の中の映像(イメージ)に重きを置く。「私の全ての考えはイメージの状態にある。」

イメージは、知覚されたものが彼の頭の中に「刻み込まれる」ことで出来上がる。そして一度刻み込まれると、消えることがなくなり、次々に積み重なっていく。
「刷り込まれた(印刷された)」一つ一つのイメージが連鎖し、前の物が後の物を変形しながら結合することで、全体として一つの塊になる。
だからこそ、「最初の原因となるものを膨らませ、それらの結果の連鎖を感じてもらうこと」が、意味を持つ試みになる。

ルソーにとって、物事を理解するための鍵は、持続する全体の中で、知覚しているイメージから最初のイメージへと遡ることにある。
彼の初期の著作には『人間不平等起源論』や『言語起源論』があるが、『告白』の中で行ったことは、まさに自己の「起源」へ回帰することだった。
より具体的に言えば、18世紀の読者には意味がないと非難されたような、幼年時代、少年時代の思い出を詳細に語ることで、自らの「起源」を探り、読者に伝えようとした。
「年齢を重ねてからの私を知るためには、若い頃の私を知ってもらう必要がある。」
「若い頃の私」は、「年齢を重ねてからの私」の「記憶」の中に「刻み込まれ」ている。
その考えに従えば、「私の本当の姿」は、生まれてからずっと持続している、連鎖する私のイメージだということになる。

「記憶」をたどり、連鎖する自己のイメージを遡ることで、「読者の目に、私の魂を透明にできたら」と願う。その際に重要なことは、一つ一つの外面的な出来事の正確性ではなく、頭の中に刻み込まれた出来事の連鎖、つまり持続する「内面」だ。
さらに言えば、その持続とは、人間の「生」そのものだと考えることもできる。

一般に、生涯の回想録と言えば、偉人の行動の記録であり、現実に起こった出来事が断続的に語られる。そこでの生涯とは、外的な事実であり、客観的な正確さが求められる。
それに対して、ルソーが生涯を回想する時、その生涯とは持続する「生」を意味し、彼はその「生」こそがありのままの姿だと見なした。そこで重要なことは、記憶の中に刻み込まれたイメージの連鎖をたどることであり、事実の正確性ではない。
その確信があるからこそ、彼は自らの試みの新しさを主張し、また、内面の自己像が「自然のままの真実」に基づいた「私の真の姿」だと確信していたのである。

読者は、『告白』を読むことで、肉体という障害が透明になり、内面をそのまま見ることができる。その本当の姿を、読者に判断して欲しいと、ルソーは望む。
告白の目的はそこにあった。

夢想 —— 今を記憶する

1776年の秋に書き始められた『孤独な散歩者の夢想』について、ルソーは『告白』の「続き」あるいは「付録」だと言い、確かに、自分について語るという意味では同様の試みを行ったといえる。
しかし、何か違っている。

こような状態で、私はかつて『告白』と名付けた厳密で誠実な検討を、再び行うことにする。残された最後の日々を、自分自身について研究し、遅からず提出することになる私に関する報告書の準備に費やすつもりだ。私の魂と対話する穏やかさに、思い切り身を委ねよう。それだけが、人々が私から奪うことができない唯一のものなのだ。(中略)毎日の散策の時間は、しばしば、魅力的な瞑想に満たされていた。その思い出をなくしてしまったことを残念に思う。これからは、書くことで、私に再び戻ってくる瞑想をとどめていこう。そうすれば、読み返す度に、喜びが戻ってくるだろう。 (『孤独な散歩者の夢想』、第1の散策)

1770年の後半に『告白』の原稿を書き終わり、ルソーがまだ信用していた貴族や知識人のところで朗読会を行った。しかし、彼らの反応はルソーの望んでいたものではなかった。その上、かつて親しくしていたエピネイ夫人が朗読会の中止を警察に求めるということもあった。

そのために、今度は、『ルソー、ジャン・ジャックを裁く』と題された対話形式の作品を執筆し、ヨーロッパ規模で行われる「陰謀」を明らかにし、人々がルソーという人間を誤解し、彼の作品を誤読しているという告発を行った。
1772年から取り組んだこの作品は1776年まで書き続けられるのだが、こうした弁明を書くこと自体が彼の被害妄想的な精神状態を示し、ますます人々は彼から離れていった。

引用の最初に記された「このような状態」とは、フランスだけではなく、スイスにも、イギリスにも彼の居場所がなく、精神的に彼が孤立していた1776年当時の状況を指している。

ルソーはそうした中で、『告白』と同様に、再び自分について一人称で語ることを選択し、その目的は、近いうちに訪れるであろう死の際、神に提出する「報告書」とすることだとする。

その点では『告白』と同じなのだが、その後、全く別の意識が確認される。
「私の魂と対話する穏やかさに、思い切り身を委ねよう。」
ここには、批判者たちに対する自己正当化や、自分の真の姿を描くといった意識はない。あるのは、自己と対話することが楽しみや幸福であるという意識。
その楽しみは、迫害者たちが奪い去ることができないものであり、もっと言えば、孤独である方が好ましい。
他の人々から離れ、一人で散歩している時に浮かぶ様々な思いに身を任せるだけで、幸せな時が生まれてくる。
「毎日の散策の時間は、しばしば、魅力的な瞑想に満たされていた。」

『告白』と『孤独な散歩者の夢想』との間にあるこの違いは、ルソーが接する外部の世界の変化に関係するが、それと同時に、彼の内面の変化にも由来している。

外部の変化としては、現実にはわずかな支持者がいたとしても、彼の意識の中では、完全に社会から断絶し、自分がこの世で異邦人になってしまったと感じていた、ということがある。

 とうとう、私はこの世でたった一人になってしまった。もはや兄弟も、近親者も、友もいず、人々の集いもない。あるのは私だけだ。(中略)
 私の外にある全てのものは、これからは、私と無関係だ。もはやこの世には、近親者も、似た人々も、兄弟たちもいない。私はこの地球にいるけれど、かつて住んでいた惑星から墜落し、見知らぬ惑星にいるかのようだ。私の周りには見覚えのあるものもあるが、心を苦しめ、引き裂くものばかりだ。私のすぐ近くを取り囲むものに目をやると、いやおうやく、軽蔑で私を憤慨させるものか、苦痛で私を苦しめるものを見出すことになる。だから、私の精神から、全ての苦痛なものを遠ざけよう。それらにかかわれば、苦痛になるだけだし、何の役にも立たないのだから。 (『孤独な散歩者の夢想』、第1の散策)

孤独な散歩者の「孤独」がどのような意味なのか、この一節から理解できる。
単に他の人々から離れて孤立しているというのではない。17世紀の劇作家モリエールが『人間嫌い』の主人公としてスポットライトを当てたアルセストのように、孤独は社会からの追放を意味している。
そして、目に入るものはすべて、社会からの攻撃と迫害を思い出させる。もはや、過去の幸福な瞬間の感覚を甦らせるものはない。

『告白』で語られる回想には、迫害に関係する闇の部分も数多くあったが、他方では、ヴァランス夫人との甘美な時間のような、光の場面も存在していた。
しかし、孤独な散歩者にとって、見覚えのあるものは全て闇を喚起すると感じられる。従って、「記憶の作用」が働かないように、人間だけではなく、事物からも切り離され、「異邦人」となることが、自己との対話を幸福なものとする条件になる。

さらに、自己の内部に関しても、同様の操作が施される。

私の心は逆境という試練の坩堝(るつぼ)によって純化されていた。心を注意深く探ってみても、非難に値するような傾向はほとんど何も見つからない。(中略)私の肉体は不活発だが、魂はまだ活動的で、感情や思考を今でも生み出している。魂の内的で精神的な生が、今まで以上に増大したように感じられる。時間とともも消え去る地上的なものにまったく興味がなくなったからだ。私にとって、肉体はもはや邪魔物であり、障害物にすぎない。私は、予め、できるかぎり肉体から離れている。(『孤独な散歩者の夢想』、第1の散策)

肉体が外界と連動し、闇の記憶を引き起こしたとすると、闇の試練を終えた後、ルソーは肉体から離脱し、魂はすでに浄化したことになる。従って、心を探っても、何も非難すべきものは残っていない。
彼は過去の記憶からも切り離され、「過去の自分」に対しても「異邦人」になったのだといえる。

孤独な散歩者は、空間的にも、時間的にも、「今、ここ」の存在となる。
だからこそ、ルソーは自分自身に対して、「私とは誰なのか?」と問いかける。そして、異邦人である「私」との対話に穏やかな幸福を感じる。

ルソーはその対話の方法を、気圧計にたとえる。

(前略)目的は、私の魂の変化と連続性を報告することにある。私は、自分自身に対して、いくつかのポイントで、物理学者が大気の日々の状況を知るために行う実験をしてみようと思う。魂に気圧計をあてることにする。その実験が正しく実施され、長い期間繰り返し行われれば、物理学者が得るのと同じ結果を得ることができるだろう。ただし、この計画をそこまで広げるつもりはない。実験の記録を付けるだけで満足して、その記録を体系としてまとめるところまではしない。私はモンテーニュと同じことを試みるのだが、目的は正反対だ。モンテーニュは『エセー』を彼以外の人々のために書いた。私が夢想を記すのは、自分自身のためでしかない。もっと歳を取り、死が近づく時、私が今いるのと同じ心持ちでいることを期待しているのだが、そうであれば、自分の夢想を読むことで、それを書く時に感じている穏やかさを思い出させてくれるだろう。そして、過ぎ去った時間を私の中に甦らせることで、私の存在をいわば二重にしてくれるだろう。(『孤独な散歩者の夢想』、第1の散策)

ルソーがモンテーニュを引き合いに出すのは、『エセー』の巻頭に置かれた「読者に」の中に、「私が描く対象は私自身だ」という点と、読者として想定されているのは「身内や友人たち」とされている点のためである。
「自分自身を描く」点で二人は共通しているが、『孤独な散歩者の夢想』の読者は著者であるルソー一人。つまり、自分自身のためだけに、夢想を書き綴るのだと彼は言う。

実験は、物理学者が大気を記録するのと同じ方法。「私の魂に気圧計をあて」、その計測を「長い期間」継続して行う。

ルソーの魂は、外部との接触もなく、過去の葛藤も洗い流されている。それは大気のような存在であり、計測するのは今の状態。過去の状況から切り離されている。
とすれば、夢想も今という時間に限られていることになる。

しかし、一回だけのデータで分かることは少ない。実験を繰り返すことで、データも集積され、物理学者あるいは気象学者であれば、それらに基づいて一つの体系を作り出す。
ルソーは学者ではないので、体系まで作りだすことはしないが、しかし、日々のデータを集積する。その結果、「これらのページは私の夢想の形式ばらない日記になるだろう。」

ここでとりわけ注目しなければならないのは、「長い期間繰り返し行う」という点である。日記は一日だけでは終わらない。日々書き加えられ、ページが増していく。夢想が集積されることで、そこに持続が出来上がる。

『告白』では、記憶の作用によって、過去と現在の間に持続が出来上がった。それに対して、夢想の連鎖は、現在から未来へと向かう「生」の流れを生み出す。
その際、純化された自分に気圧計をあて、無為の中で夢想に浸ることは、透明な魂を感じる瞬間であり、幸福な時間に他ならない。
『告白』では過去が現在に甦ることで存在感覚が感じられたのだが、『孤独な散歩者の夢想』になると、現在が未来に向かうことで存在感覚が生成する。

このようにルソーの思考を辿ってみると、最初に引用した一節の最後の文がすっと理解できる。
「これからは、書くことで、私にまた戻ってくる瞑想をとどめていこう。そうすれば、読み返す度に、喜びが戻ってくるだろう。」

ここではもう「真の私の姿」を描く必要などない。ルソーは自分自身のために、目的地のない自由な散策の中で心に浮かぶ「夢想」を書き綴り、持続する「生」を作り出していく。
彼の特異な点は、現在の出来事でさえ、未来から見ることで過去に位置させ、記憶の中に刻み込む気質であり、そのことによって、すべては「内面に、そして、肌の下」の出来事になり、「記憶のイメージ」として留められる。

忘我的恍惚に至る二つの方法

ルソーにおいて、「記憶」とは「生」全体を感じさせる機能であり、『告白』では過去から現在へと続く「生」を生み出し、『孤独な散歩者の夢想』では現在から未来に向かう「生」を生み出した。

その違いは、忘我的な恍惚感を感じる時の違いにも関係する。

モチエ

『告白』の第6の書は、ルソーが生涯で最も幸福だった時期の思い出に費やされている。
執筆しているのは、53歳か54歳の時。『エミール』の出版後、逮捕状が出され、パリを逃れ、スイスのモチエに隠棲している時期。

シャルメット

思い出されるのは、24歳の頃。約30年前の出来事ということになる。
1836年、ルソーは、ヴァランス夫人と二人、グルノーブル近くのシャルメットで、「私は生きた。」と言えるほど幸福な時を過ごした。その時代の出来事を回想しながら、『告白』の書き手は次のように自己分析をする。

若い時には常に前に向かっていた私の想像力が、今は後ろ向きに進むようになっていて、永遠に失われてしまった希望を、優しい思い出が埋め合わせてくれる。未来には、私の気をそそるものは何も見つからない。過去が何度も戻って来て、私を喜ばせてくれる。話している今の私は不幸なのだが、回想は大変に強烈で本物なので、しばしば私を幸せにしてくれる。(『告白』、第6の書)

後ろを振り返るルソーの想像力は、現在の不幸を過去の幸福な思い出で補ってくれる。言い換えれば、追憶が過去の幸福を甦らせ、現在の私を覆い尽くす。

そうした体験の代表的な例が、「つるにちにち草」のエピソードとして語られる。

私たちがシャルメットに最初に泊まった日、ママン(ヴァランス夫人)は籠に乗り、私はその後を歩いていた。ママンはかなり重かったので、坂道にさしかかると、籠かきを疲れさせないよう、道の半ば付近で籠を降り、残りは歩くことにした。歩いている時、ママンは生け垣の中に何か青いものを見つけ、声を上げた。「ほら、つるにちにち草がまだ咲いているわ。」私はそれまでつるにちにち草を見たこともなかったし、しゃがんで、近くで見ようともしなかった。近視なので、私の目の高さからでは地面にある植物をはっきり見分けることもできなかった。そこで、その花をちらっと見ただけだった。その後およそ30年間、つるにちにち草を見ることもなかったし、注意を払うこともなかった。1764年、友人のデュ・ペルーとクレシエにいる時、私たちは小さな山に上っていた。てっぺんには可愛いあずま屋があり、友人はそれを「見晴らし亭」と読んでいる。私は少しだけ植物を採集し始めていた。道を上り、灌木の中を見ている時、私は喜びの声を上げる。「あっ、つるにちにち草だ。」本当に、つるにちにち草だった。デュ・ペルーは、私の熱狂に気づいた。しかし、その理由は知らなかった。彼がこの一節を読む時、理由がわかるだろう。(『告白』、第6の書)

ここでルソーは、簡単に「熱狂」と書いているだけだが、ほとんど意識さえしたことがない一つの花のために、過去の幸福が一気に彼を包み込み、30年前の全ての状況を現在に再現する「記憶の合図」として機能する様子が、見事に物語られている。

逆に言えば、「記憶の合図」になる何らかの物があり、それをきっかけとして過去が現在に湧き上がってくる。
「記憶の合図」が「記憶の機能」を作動させ、過去に感じた幸福を再現し、ルソーを忘我的恍惚に入り込ませる。

このように、『告白』までのルソーが絶対的な幸福を味わうためには、過去の記憶と、それを甦らせるきっかけが不可欠だった。

そのルソーが、『孤独な散歩者の夢想』に至り、他者から切り離され、過去の思い出からも純化され、「夢想」することで、絶対的な幸福に至るようになる。

夢想は私をリラックスさせ、楽しませてくれる。思考は疲れるし、悲しくなる。私にとって、考えることは常に苦痛で、魅力のない行為だった。時に夢想が思考で終わることがあるが、思考が夢想で終わることの方が多い。そして、ふららとしている間、私の魂は想像力の翼に乗り、宇宙を漂い、遊泳し、恍惚とする。その恍惚感は他のあらゆる喜びに優っている。(『孤独な散歩者の夢想』、第7の散策)

夢想に関しては、「記憶の合図」が過去を再現するといった作用は必要ない。今、この時、魂が自由に解き放たれ、目的もなく、ぼっとしているだけでいい。

そうした夢想がもたらす最高の忘我的恍惚を体験するのが、スイスのビエンヌ湖の中にあるサン・ピエール島での、「自然と自己との一体化」の体験だといえる。
つるにちにち草体験をしたモチエに住んでいたルソーは、1765年9月、モチエを逃れ、サン・ピエール島に向かう。その原因は、実際に家の扉がこじ開けられ、村人から石を投げつけられたからとも、彼がそうした妄想を持ったからだとも言われている。

サン・ピエール島での様子は、『告白』の第12章と、『孤独な散歩者の夢想』の第5の散策の章で描かれる。
その二つの記述の中で、島の中で特別に何をするでもなく過ごす時間が、至福の時であるという認識は共通している。

他方、夢想に対する捉え方には違いがある。
『告白』では、ルソーの愛する無為は、腕を組んでそこに留まり、完全に活動を止め、動きもせず、考えもしない状態ではないと言う。
彼が好きなのは、「何かをするというのではなく、常に動いている子供の無為であり、腕は休めているけれど、ただ歩き回りながら訳の分からないことを言う人間の無為」なのだ。

熱狂的に水が好きだという場合にも、テラスを歩いて朝の新鮮で健康な空気を吸ったり、舟に乗り湖に漕ぎ出したりと、肉体の彷徨いが精神の彷徨いと連動している。
さらに、幸福感は、ヴァランス夫人と暮らしたシャルメットでの穏やかな生活を思い出させたりもする。

それに対して、『孤独な散歩者の夢想』になると、全ての動きが止まる。あるのは、湖の水の動きと音、そして自己のみ。そして、それらの区別がなくなり、一つになる。

 夕方が近づくと、島の高いところから下り、湖の畔、砂浜の上にある、ひっそりとした場所に、好んで座った。すると、波の音や水面の動きで五感が固定され、波以外の全ての動きが魂から消え去る。そして、魂は甘美な夢想にふけり、夜になったことにびっくりするまで、気づかずにいるほどだった。波が行ったり来たりし、その音が絶え間なく続く。時には大きくなり、絶えず耳や目を打った。水の動きと音が、夢想していると消えていく内面の動きに取って代わる。今ここに存在しているという感覚を、無理に考えてみなくても感じられることが、私にはうれしかった。(中略)
 魂は、確かな基盤を見出した状態にあり、完全に休息し、全存在を自らに集中している。過去を思い出す必要も、未来を予想する必要もない。時間が魂にとって何ものでもなくなり、現在が永遠に続く。時間の持続を記すこともなく、継続の痕跡もない。欠乏も充足もない。喜びも苦しみもない。欲望も恐れもない。在るのは、存在しているという感情だけ。その感情だけが、魂全体を満たしている。その状態が続く限り、そこにいる人間は幸福な人間と呼ぶことができる。不完全で、貧しく、相対的な幸福ではない。そうした幸福なら、日々の楽しみの中で見つけている。そうではなくて、充足し、完全で、全てが満ちている幸福。魂の中に空っぽな部分が全く残されていず、魂がそれを埋める必要もない。それが、しばしばサン・ピエール島の中で感じた状態だった。ある時には、私は孤独な夢想に浸っていた。別の時には、波の動きのままに漂う舟の上に横たわっていた。高い波が立つ湖の岸辺に腰掛けている時もあったし、美しい小川や、砂の上でサラサラと音を立てる小さな水の流れの辺にいることもあった。

孤独な散歩者が湖の畔に座る。そこで彼が感じるのは、視覚が捉える波の動きと、聴覚が捉える波の音。その規則的で単調なリズムが、彼の内面の動きと重なる。その時、五感が固定されたように感じ、水の音が心臓の鼓動と一体化する。私と自然が一つの存在として感じられる。「生」そのものを感じるといってもいい。

その状態を、ルソーは「永遠の現在」と表現する。過去を思い出すことも、未来を思い描くこともない。あるのは、永遠に続く今だけ。
それは特別な状態に思われるかもしれないが、私たちも、あまりに楽しい時には、我を忘れている。そして、我に返った時に、時間の経過に気づく。つまり、忘我は誰もが経験するごく普通のことなのだが、私たちはそのことに気づかずにいることが多い。
それに対して、ルソーは、無為と忘我を連動させ、「記憶の合図」といった特別なきっかけなしで、忘我的幸福に至る道を示す。

ここでは、湖に舟を浮かべるにしても、もう漕ぐことはしない。ただ横たわるだけ。「記憶」を作動させる合図も、動きも必要ない。記憶は過去を前提にしているが、ここでは過去も不要となる。
「現在が永遠に続く」という表現が使われているが、実は、時間は存在せず、過去・現在・未来といった分割もない。
ただ存在しているという感覚だけがある。「生」の感覚。

ルソーは、忘我の状態で感じる「生」の感情こそが、人間にとっての「絶対的な幸福」だと言う。
時間の中で感じる幸福は、時間が経てば消え去ってしまう。それは「相対的な幸福」にすぎない。
そのように考えると、『告白』で描かれた「記憶の合図」としての「つるにちにち草体験」の意義も、より明確にわかってくる。

その場での幸福な体験は、時間の経過とともに失われてしまう。「記憶の合図」は、その体験を再現する。そのことによって、「生」は失われてしまったのではなく、感じなくなっていただけであり、実は持続していることを体感させてくれる。それは、「永遠の現在」を呼び起こすことでもある。
従って、ルソーにとって、直接的な体験よりも、記憶の中の再現の方が、強烈な印象を生み出すことになる。
さらに、「私の本当の姿は、生まれてからずっと持続している、連鎖する私のイメージ」という考えも、同様に理解できる。

『孤独の散歩者の夢想』の別の箇所では、現在の幸福を未来へと投影し、書いている現在の感情を、将来読む時に再び感じるといったことも主張されているが、そこでもポイントが、「生」の持続であることも理解できる。
現実を生きる限り、否応なく時間は経過する。そうした中で、今書き綴っている夢想が、未来において「記憶の合図」となり、今の感情を再現してくれる。

いずれにせよ、「起源」は「永遠の現在」にある。
それが時間の中で展開する際には、現在に過去の感情が甦るか、未来に現在の感情が再生するかという、二つの道がある。
『告白』は前者の道を辿り、『孤独の散歩者の夢想』は後者の道を示した。
さらに、「第5の散策」において、ルソーは、存在感覚、つまり「生」そのものの体験を描き、「絶対的な幸福」を夢想の中に浮かび上がらせた。

その二つの書物を読むことは、私たちがルソーの「生」を体感する幸福な時間になるだろう。


ルソー『告白』(上、中、下)桑原武夫訳、岩波文庫、1965年。

ルソー『孤独な散歩者の夢想』青柳瑞穂訳、新潮文庫、2006年。

アウグスティヌス『告白』山田晶訳、中公文庫、2014年。

モンテーニュ『エセー(一)』原二郎訳、岩波文庫、1965年。

モリエール『孤客(ミザントロオプ))』(人間嫌い)辰野隆訳、岩波文庫、2008年(改版)。

中川久定『自伝の文学 ルソーとスタンダール』岩波新書、1979年。

桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』世界思想社、2010年。
   桑瀬章二郎「自己のエクリチュール —『告白』、『対話』、『夢想』をめぐって—」


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