ジャン・ジャック・ルソーの宗教感情

現代では教育の書として知られる『エミール』が1762年に出版された時、神学者や教会から告発され、著者であるジャン・ジャック・ルソーに逮捕状まで出されたという事実は、私たちからすると不思議に感じられる。
そして、事件を引き起こした原因が、第4編に含まれる「サヴォワ地方の助任司祭の信仰告白」の中で主張された「宗教感情」だったことを知ると、その感情がどのようなものなのか知りたくなるのも当然だろう。

そこで実際に『エミール』を手に取ってみるのだが、ルソーの思想はかなり込み入っていて、それほど容易に宗教感情の核心を捉えることはできない。感覚、理性、知性、自然、神などといった言葉が絡み合い、自然宗教、理神論などといった用語も、理解をそれほど助けてくれない。

その一方で、ある程度理解できてくると、ルソーの神に向かう姿勢が、日本の宗教感情とかなり近いことがわかり、親近感が湧いてくる。
そこで、論理的な展開は後に回し、彼の宗教感情がすぐに理解できる一節をまず最初に読んでみよう。

その一節は、「サヴォワ地方の助任司祭の信仰告白」ではなく、『告白』の第12の書の中にある。
ルソーは人々から孤立し、スイスのサン・ピエール島に滞在していた。

私は常に、水が情熱的に好きだった。水を見ていると甘美な夢想に浸ってしまい、多くの場合、何か特別なことを考えることはない。朝起きると必ず、朝の新鮮で健康にいい空気を吸いにテラスを歩きまわり、美しい湖の果てをぐるっと眺めた。湖の岸辺や辺りの山々の眺めは、とても魅力的だった。こんな風に言葉もなく見とれていることほど、神に対して相応しい敬意はない。神が創造したものをじっと見つめるだけで、他に取り立てて何か特別な行為をするわけではない。(中略) 私にとって、とりわけ、夜眠れずに疲れた状態で朝起きる時、長い間の習慣で、心が高揚することがある。高揚したからといって、何かを考えて疲れるわけではない。とにかく、魂を奪うような自然の光景を見ていると、魂が高揚してくるのだ。部屋の中で祈ることはまれだし、祈ったとしても淡泊なもの。しかし、美しい風景を目にしていると、理由が何かは言えないのだが、感動する。どこかで読んだのだが、ある賢者の司祭が、自分の教区を訪れた時、一人の老婆と出会ったという。彼女のお祈りは、「おお」と言うだけだった。司祭は彼女にこう言った。「おばあさん、いつまでも、そんな風にお祈りをしてください。あなたのお祈りは、私たちの祈りよりも価値があるものです。」その大変に素晴らしい祈りは、私の祈りでもある。(『告白』、第12の書)

美しい自然を前にした時の感動、老婆の「おお」という祈り、それこそがルソーの「宗教感情」の全てだと言っていい。

私たちは、昇る朝日を目にする時、祈るともなく自然に手を合わせて、敬虔な気持ちになる。それと同じように、ルソーも自然の美を前にして、言葉もなく見とれる。その心が神に対する敬意の表れであり、宗教感情の核に位置する。

その時、形式的な儀礼は必要ないし、静かに心が高揚する人間たちの間に上下関係もない。
「神が作りたもうたものをじっと見つめるだけで、他に取り立てて何か特別な行為をするわけではない。」
教会では、司祭と平信徒の区別があり、それぞれ日や時間帯に応じて特別な祈りと儀礼がある。戒律を守り、教会の教えに従うことが、正しい信仰だと教えられる。
「何か特別な行為」はそうした教会の儀礼を思わせ、ルソーがそれを批判しているとしたら、彼の宗教が反キリスト教と見なされ、弾圧の対象になったことも理解できる。

Rembrandt, Old Woman praying

おばあさんの「おお」という祈りのエピソードは、自然の美を前にした時の無言の感動と同じもの。それが司祭たちの祈りよりも価値があるという言葉は、神学者や教会とは違う宗教感情があることをはっきりと示している。

他方で、日本的感性との違いもある。
私たちは自然の美を前にして、何となく手を合わせるが、そこに明確な神の存在を感じているわけではない。何に祈るのかと聞かれたら、特に何もないといった答えになるだろう。
それとは違い、ルソーは創造主の存在をはっきりと感じている。美しい自然があるとしたら、その自然を作った存在があるはずと考え、その存在を神と名付ける。
美に打たれて感動するのは、神への敬意だと考える。

18世紀の自然宗教、理神論と呼ばれる宗教感情は、ここでルソーが描いている敬虔な感情を指す。
キリスト教やイスラム教などの個別の宗教は、最も基本的なところではその感情に基づきながら、現実の宗教活動の中では、それぞれの宗教に固有の儀礼を決め、形式化している。それらの違いのために対立が起こり、ときには激しい戦いにまで至ることもある。
神の存在を否定する無神論は別にして、18世紀の反キリスト教的な思想は、そうした考えに基づいている。

繰り返しになるが、私たちにとって、ルソーの宗教感情は、創造主の存在を除けば、大変にわかりやすく、親しみが持てる。
その類似性を頭に置きながら、「サヴォワ地方の助任司祭の信仰告白」を通して、ルソーの「宗教感情」をもう少し詳しく探ってみよう。

(1)神について

Caspar David Friedrich, Wanderer above the sea of fog

神の存在に関しては、以下の言葉を出発点としている。

私が思うには、世界は力強く賢い意志によって支配されている。それがわかっている、というか、それを感じている。(『エミール』第4の書)

世界が最初から存在するとか、創造されたとか、創造原理が唯一なのか複数なのか、世界の性質がどのようなものなのかといった、宗教や哲学で議論されるようなことは、ルソーには関心がない。
とにかく、世界は一つの意志によって支配されていると感じる。その感情が、ルソーの神概念の第一歩となる。

力強く賢い意志に支配されているからこそ、原初の状態における世界は秩序立ち、善意に満ちている。

(前略)確かに、全体は単一であり、唯一の知性を告げている。というのも、私が目にする何一つ、この同じ体系の中で秩序立たないものはなく、共に一つの目的に向かわないものはないからである。つまり、全ては確立した秩序の中に保たれている。意志を持ち、力を持つこの「存在」、それ自体で運動する「存在」、結局、それがどのようなものだろうと、世界を動かし、全ての物に秩序を与えるその「存在」を、私は「神」と呼ぶ。そして、知性、能力、意志といった観念を集め、その言葉に結び付ける。それらに必然的につらなる善意の観念も、そこに結び付ける。(中略) 神は存在するし、それ自体で存在することが、私にははっきりとわかる。私の存在が神の存在に従属していることも、私の知る全ての物も必ず同様に従属していることもわかっている。私はあらゆる被造物の中に「神」を見る。神を私自身の中に感じる。私のすぐ回りでも目にする。しかし、神をじっと見つめようとし、神がどこにいるか探し、神とは何なのか、その実体が何なのか知ろうとするとすぐに、神は私から逃げ去り、私の精神が乱れて、何も見えなくなってしまう。(『エミール』第4の書)

この一文から、ルソーが神をどのような存在と考えているのか、その全体像が見えてくる。

1)世界は一つの全体であり、そこに一つの知性=神の存在が予告されている。
2)神によって、世界は秩序付けられ、全てが一つの目的に向かい方向付けられている。
3)神は運動の第一原因であり、それ自体で動く。それ以外の物は神によって運動性が与えられる。
4)神には、知性、能力、意志、善意という特性がある。
5)それらの観念は、神から世界へ、そして人間に伝えられる。神に従属することで、人間も含め全ての物に神の属性が伝達される。従って、神が創造した全てに神が宿っている。
6)神の存在は「感じる」ものであり、意識的に見ようとしても見ることはできず、理性によって探求しようとしても知ることはできない。

この中で特に注目したいことは、「神を私自身の中に感じる。」という一節。
神がこの世の全てを創造したのであるから、「私」も神によって生み出された存在。そこまではごく普通の論理の流れで理解できるが、だからといって、「私」の中に神がいるとはならない。

ここにルソーの人間観の根本がある。
ルソーは、人間は自由であり、自ら行動するとみなす。その自発性は、それ自体で動く神と同じ特性。
そこで、サヴォワ地方の助任司祭は、神にこう呼びかける。

私の魂の神よ、あなたが人間をあなたの似姿に作られたことを、私は非難しようとは思いません。あなたがそうされたおかげで、私は自由であり、善良であり、幸福なのです。あなたと同じように。(『エミール』第4の書)

キリスト教の神がアダムを神の似姿に作ったという聖書の記述に基づきながら、司祭は、魂の神に向かい、人間が神と同じ自由と善良さを持ち、幸福であることに感謝を捧げる。
こうした記述からは、ルソーにとって、人間の本来の姿は神の似姿(イメージ)だということが見えてくる。

世界が創造された時、全てに神が宿り、人間も神の似姿だった。その前提に立つと、『エミール』の冒頭の一節が容易に理解できる。

全ては善である、事物の創造主の手から出てくる時には。全ては堕落する、人間の手の中で。(『エミール』第1の書)

世界の「起源」の状態、あるいは自然の状態では、全ては善だった。人間の本質も善であり、「私」も本質的には善の存在。
その理由は、全てに神が宿っているから。

世界に悪が向かうとしたら、「起源」から離れ、文明社会の中で神が見えなくなってしまうことに原因がある。
「自然」は神の秩序を保ち、その美が秩序ある神の世界を思い出させてくれる。「自然」を前にして、人間は自分の中の神を見出し、忘我的恍惚に身を任せる。

(2)生得的な感情

ルソーの代理人ともいえるサヴォワ地方の助任司祭は、生まれながらに持っている感情と後から習得した知識や観念とを区別し、善悪は習得するのではなく、生得的な感情だと見なす。

 私たちは、知る前に感じている。善を望み悪から逃ることは、学ぶのではない。自然にそうしようと思うのだ。同様に、善を愛し悪を憎むのも、自分自身を愛するのと同じように、自然なこと。意識の動きは、判断ではなく、感情なのだ。私たちの考えることが全て外部から来ているとしても、それらを評価する感情は私たちの内部にある。感情によってのみ、私たちは、私たちと事物との間にある適切さや不適切さを知り、それらの事物を求めようとか、それらから逃げようとする。(『エミール』第4の書)

一般的には、善悪は教えられ、学ぶものだと考えられる。従って、善悪の判断を生得的な感情だとする考え方は、かなり特殊だといえる。
しかし、助任司祭にとって、善を行い悪を避けるのは、「自然にそうしようと思う」ことだ。
なぜそんなことが言えるのだろう?

その理由は、人間は神の似姿(イメージ)であるという確信にある。
人間が神と同じようであるならば、善を望み、悪を避けるのは、当たり前すぎることであり、学ぶ必要などない。助任司祭の言葉は、その前提から出発している。
続く言葉は、その確信を相手に説得するために費やされていく。

彼は、まず、神を持ち出すのではなく、自分を愛する気持ちをあげる。それであれば、教えられたのではなく、生得的であることは誰もが認める。

次に、「外部」と「内部」という区別を導入し、人間の精神活動を二つのカテゴリーに分類する。そして、「外部」に属する「知る、学ぶ、判断する、考える」よりも、「内部」に属する「感じる」が自然であり、本質的だと論じる。

そのように言われてみると、私たちでも、論理的な判断の下に実は感情が隠れているという経験があるし、理屈では説明できない敬虔さを美しい自然の光景を前にして感じたりする。
一般的に私たちは、意識は理性によってコントロールされていると考えることが多い。しかし、助任司祭は、「意識の動きは、判断ではなく、感情なのだ。」と言う。

さらに彼の説を進めた所では、「意識」への抒情的な呼びかけを行い、意識は善と悪を誤ることなく判断するものであり、「人間を神に似させる」と感嘆の声を上げる。
人間は神の存在を知るのではなく、感じる。その感情が人間を神に近づけるのだ。

そして、感じることは生きることそのものだと、助任司祭は断言する。

 存在することは、私たちにとって、感じることだ。私たちの感性は、疑いもなく、知性に先立つ。私たちは、思考の前に、感情を持った。私たちの存在の原因がどのようなものだろうと、感性が、私たちの性質に相応しい感情を生み出すことで、私たちは生存を続けることができた。少なくとも、それらの感情が生得的なものだということは、否定できないだろう。個人のレベルで考えると、自分に対する愛、苦痛への恐れ、死への嫌悪、快適な生活を望むこと。しかし、もし人の集まり(社会)を求めるのが人間の本性だったり、そうなるようにできているとしたら、それは、人類に関する別の生得的な感情による可能性がある。なぜなら、肉体的な要求だけを考えるなら、その要求は人間を集合させるのではなく、あちこちに散らばらせるからである。自己と仲間たちとの二重の関係によって形成される精神的なシステムから、意識の衝動が生まれる。善を知ることは、善を愛することではない。人間は生得的に善の知識を持ちはしない。しかし、理性のおかげで人間が善を知ると、意識は人間に善を愛するよう導く。その感情こそ生得的なものである。(『エミール』第4の書)

この一節はかなり込み入っていてわかりにくいと思われるが、ルソーの人間観が凝縮されている。

1)人間には生まれながらに備わっている感情がある。
2)「考える」ことは、「感じる」ことの後に行われる。
3)人間に相応しい感情があることで、人類は生き延びることができる。
4)その感情とは、自己を愛すること、苦痛や死を恐れ、避けようとすること。そして、快適な生活=幸福を望むこと。
5)人間の最初の欲求は、人を遠ざけることにあるとルソーは考えている。食料の確保など生きる手段が限られる中で、「肉体的な要求だけを考える」と、人間は互いに避け合う必要があった。
それにもかかわらず、人々が集まり社会を形成するとしたら、人間の間に精神的なシステムが形成され、そこから「意識」が発生するからだと、助任司祭は言う。
その「意識」があることで、人間は社会の中で食物を求めて争うのではなく、互いに善を行うことが可能になる。
6)人間は「善」を初めから知っているわけではない。人間は理性を使い、善とは何か知る。
しかし、善を知っても、即座に善を愛するわけはない。食物を分け合うことが善だとしても、奪い合うことはある。
争いをやめ、互いに分け合うことが幸福につながるという「意識」が作動して、始めて、人間は善を愛するようになる。
7)その意識を作動させる感情があり、その感情は人間に生得的に備わっている。
つまり、人間は生まれながらにして善を愛するのではなく、「理性」によって善を知ると、「意識」が働き、善を愛するように促す「感情」が備わっている。そのおかげで、善を愛するようになる。

「意識」「理性」「感情」から「善」へとつながる議論は、あまり明確とはいえない。
その理由は、現実の社会には悪がはびこっているし、ルソー自身、多くの迫害を受けていると感じているので、人間が最初から善を愛しているとは言えない一方で、人間は善の存在だと信じているという、矛盾を抱えているからだと思われる。

そこで、「人間は善を愛する存在」と規定するのではなく、善を知れば善を愛するように導く「感情」を持っているのだと、二段階の論理を導入した。
善を知らなければ、善を愛することはなく、社会は混乱し、文明は人間を堕落させるものともなる。
善を愛する感情を作動させる意識は、人間を神の似姿(イメージ)にする。そうであれば、善を愛するのは当たり前のことになる。

「存在することが感じること」だという言葉は、従って、単に感情を持つというだけではなく、人間は善に向かおうとする生得的な感情を持ち、それ故に、自然状態においては、神のように、自由、善良、幸福であるという、言外の意味を含んでいると考えることができる。


美しい自然の光景を前にして、我を忘れて見とれ、感動する。ルソーの「宗教感情」とは、誰もが体験するそうした感動と変わるところはない。

その感動がなぜ宗教的かと言えば、ルソーは、美しい光景を創造した唯一の存在を感じ、創造主を神と名付けるからである。

その一方で、美を感じる人間の側に目をやると、人間の中には、美だけではなく、善を愛するように向かわせる感情が本来的に備わっている。美に心を打たれるように、善を愛し、善を行う。人間の姿を神の姿に似たものにする。
生得的なその感情を宗教的と見なすこともできるだろう。

我を忘れて感動する心、「感じやすい魂」が、ルソーの「宗教感情」の源であり、その心は私たちの中にもある。
私たちは「感動」といい、宗教的だと思わないかもしれないが、その感動が美や善へと続く感情だと知れば、サヴォワ地方の助任司祭の信仰告白に耳を傾けるのも悪くない。


ルソー『告白(下)』桑原武夫訳、岩波文庫、1965年。(第12の書)

ルソー『エミール(中)』今野 一雄訳、岩波文庫、1963年。(「サヴォワ地方の助任司祭の信仰告白」)

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