ロココ絵画の楽しみ ルイ15世とポンパドゥール夫人の時代の美意識

フランスの美といえば、日本では一般的に、ロココ的な美を思い浮かべるのではないだろうか。
繊細で、色鮮やか。心を浮き立たせる自由さと軽快さがあり、上品で、洗練されている。
そうした美意識は、建築、彫刻、絵画といった芸術品だけではなく、室内装飾、家具や食器等の工芸品にまで及んでいる。

ヴェルサイユ宮殿の女王の間、プティ・トリアノン宮の内部、パリ北方に位置するシャンティ城の王子の部屋などを見ると、ロココ的美がどのようなものか、一目で感じ取ることが出来る。

絵画で言えば、主流となるのは、ヴァトー、ブーシェ、フラゴナール。
三人の画家の絵画にはどれも穏やかな官能性が感じられるが、猥雑さの欠片もなく、現実を離れ甘美な夢の世界へと繋がる幸福感に溢れている。

ロココ絵画への道 
古典主義の変化

絵画において、ロココ様式の時代は、1715年のルイ14世の死の直後から始まり、ルイ15世の治世の間(1722-1774)に頂点を迎え、1780年以降は新古典主義と呼ばれる美術が台頭することで徐々に時代遅れとなっていった。

17世紀後半の絵画は「古典主義」様式と呼ばれ、均整が取れた構図が中心となり、壮大で重々しく、厳格な印象を与えるものだった。
そうした絵画は、デカルト的な理性に基づき、具体的な事物を超えた真理の表現を目指していたといってもいいだろう。

しかし、時代は徐々に、具体的な経験に基づき、五感による感覚を重視する方向へと向かい始める。
フランスでも、ルーベンスのように、色彩に重点を置き、理性ではなく感覚に訴える絵画が描かれるようになっていく。
1690年、シャルル・ル・ブラン(1619-1690)の死後、ピエール・ミニャール(1612-1695)が絵画アカデミーの長になったことが、その変化を象徴している。

今日の私たちの目から見ると、二人の古典主義画家の違いはわずかだと感じられるかもしれない。しかし、その変化がロココ的美への方向性を示している。
ル・ブランの描くルイ14世の肖像画とミニャールの描く劇作家モリエール。
モデルの身分の違いを超え、一方は王の理想的な姿を永遠に留めることを目指し、他方は劇作家の現実の姿を映し出そうとしていることがわかる。

洗礼者ヨハネを描いた宗教画とルイ14世の騎馬像。どちらがル・ブランで、どちらがミニャールか、わかるだろうか?

騎馬像がル・ブラン、洗礼者がミニャール。
ミニャールが描くヨハネの姿は、そのままロココ絵画の中に入れてもいいほど、穏やかで、柔軟。宗教画でありながら、荘厳さよりも優美が際立っている。

ル・ブランからミニャールへの移行は、理性から感覚重視の時代の変化に対応し、ロココ絵画を準備しているといえる。

ロココ絵画の成立 
雅な宴(フェット・ギャラント)

最初のロココ絵画は、アントワーヌ・ヴァトー(1684-1721)の「シテール島への巡礼」だと言われている。

この作品は、ヴァトーがアカデミーの会員になる資格を得るために1717年に提出されたもの。
「シテール島」は古代ギリシアの神話の中で、ヴィーナスが誕生して最初に向かった島であり、恋愛を象徴する島とされている。
しかし、そうしたテーマは、神話画にも宗教画にもなく、「雅な宴(fête galante)」という新しいジャンルを生み出す作品になった。

野外での祝宴、解放感のある恋の情景、幸福感に満ちた優雅な雰囲気、映像の醸し出す音楽性等は、暗く重々しいルイ14世の晩年が終わり、ほっと一息ついた宮廷社会の雰囲気を伝えている。
ただし、その一方で、偉大な王の世紀が消え去った後の、どこかはかなく空しい雰囲気も込められている。

ヴァトーの絵画は、ルイ14世とルイ15世の間をつなぐ「摂政時代」(1715-1723)のそうした雰囲気を、見事に写し取っている。

これらが仮装した貴族たちの華やいだ宴会の一場面だと思うと、「雅な宴」の感覚が伝わってくる。

ヴァトーの直接の弟子だったジャン・バティスト・パテル(1695-1736)と、ヴァトーの後継者といわれるニコラ・ランクレ(1690-1743)の「雅な宴」にも、「外見の文化」の華やかさと、その裏に潜むどこかたよりなげな感覚が、微妙なバランスを取って描かれている。

ジャン・パテルの「庭園での休息」と「田園のコンサート」。

ランクレの「庭園の集い」と「踊り子マリー・カマルゴ」。

19世紀の後半、ポール・ヴェルレーヌが詩集の題名として「雅な宴(フェット・ギャラント)」を選び、「短調の曲想に乗せて歌うのは、/勝ち誇った愛と巡り合わせのいい人生、/でも、幸福を信じているようには見えない。/彼等の歌が、月の光に溶け込んでいく。」と歌った理由が、こうした絵画を眺めていると理解できてくる。

ポンパドゥール夫人の美に照らされて

ポンパドゥール夫人(1721-1764)がルイ15世の愛妾となった1745年から彼女が亡くなる1764年頃、ロココ的美術は絶頂期を迎えていた。

当時を代表する画家たちは、こぞって夫人を描き、彼女の美を通して、自分たちの追求する美をそれぞれの仕方で表現した。
そうした中で、最もよく知られ、最も美しく描かれているのは、フランソワ・ブーシェ(1703-1770)と、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール(1704-1788)の肖像画だろう。

ルイ15世

ポンバドゥール夫人の本名はジャンヌ・アントワネット・ポワソン。彼女は、パリで銀行家の娘として生まれ、当時の優れた子女教育を受けて育った。1741年に徴税請負人の夫と結婚後には、パリで第一級のサロンに出入りし、ヴォルテールなど一流の知識人と交流した。
1745年、夫と別居し、ルイ15世からポンパドゥール侯爵夫人という称号を与えられ、王の公式な愛妾となった。
1751年にその地位は別の女性に取って代わられるが、しかし、それ以降も宮廷や知識階層に大きな影響力を保ち、政治的にも大きな力を振るった。

カンタン・ド・ラ・トゥールの肖像画の中では、机の上に『百科全書』の一巻が置かれている。左手の下に横たわるのも別の一巻らしい。
彼女はドゥニ・ディドロを始めとする百科全書派の知識人を支援したり、現在大統領府になっているエリゼ宮のような邸宅を建築させるなどして、芸術や文化の後見人として大きな役割を果たした。
ヴェルサイユ宮殿中に立てられたプティ・トリアノン宮も、彼女のために計画された建造物である。

今でもプティ・トリアノン宮に展示されているカルル・ヴァン・ロー(1705-1765)の肖像画は、その雰囲気を巧みに捉えている。

ポンパドゥール夫人が百科全書派の知識人たちと親しく交流したことは、ある意味では、時代の変化を示している。
『百科全書』の編集者であるディドロは、1761年から始めた絵画批評の中で、フランソワ・ブーシェを代表とする非道徳的なテーマの絵画を非難し、絵画に道徳性を求める主張を展開した。

ブーシェには、古代の女神を描いた裸体画が数多くあるが、それだけではなく、市中の女性の裸体画もある。
ジャン=マルク・ナティエ(1685-1766)が描いたポンパドゥール夫人像は、彼女が女神ダイアナに扮した姿。

こうした絵画に対して、道徳性の高い絵画が描かれるようになる。
ディドロが高く評価するのは、ジャン・バチスト・グルーズ(1725-1805)、ジャン・シメオン・シャルダン(1669-1779)といった画家たちである。

グルーズの「罰せられた息子」やシャルダンの「食前の祈り」を見れば、ブーシェたちとの違いは一目でわかる。

ここに描かれているのは貴族たちの宮廷社会ではなく、普通の市民の生活情景。「雅なる宴」の華やいだ雰囲気も、ブーシェやナチエのような官能性もない。

グルーズの「罰せられた息子」に描かれるのは、父親の言い付けに背き、放蕩三昧だった息子が、父の死の床に駆けつけた場面。家族それぞれの悲しみ、頭を抱えて自分の行いを悔いる息子の嘆き、彼を優しく受け入れベッドへと導こうとする母の愛、そうした感情が場面からひしひしと感じられる。

シャルダンの「食前の祈り」は、静謐という言葉がこれほど相応しい絵画はないと思えるほど、敬虔な静けさに満ちている。
この絵画は1740年の作だが、感覚の喜びではなく、穏やかで平穏な中での幸福な情感を伝え、18世紀後半の時代精神を予告しているといえる。

グルーズやシャルダンの風俗画は、市民の日常的な生活の一場面を切り取ったものであり、オランダやフランドル地方(現在の北フランスとベルギーの一部)で描かれていた風俗画の影響下にある。
日本でとりわけ人気のある17世紀オランダの画家フェルメールを思い出すと、その関係を理解することができる。

ジャン・オノレ・フラゴナール(1731-1806)のように、貴族社会から市民社会へと場所を移しながら、ヴァトーからブーシェへと続く感覚の喜びを表現し続ける画家もいた。

しかし、時代の好みは、軽やかで甘美な明るさではなく、市民社会を舞台に厳格な道徳性を感じさせる絵画へと向かっていった。

グルーズの描く少女たちの姿は、恋の楽しみを享受するフラゴナールの女性たちとは全く異なる魅力を持ち、ディドロの言葉によれば「健全な道徳性」を感じさせる。あるいは、道徳性が破られる悲しみを感じさせる。

シャルダンは17世紀の最後の年に生まれ、「雅の宴」の画家たちやブーシェと同じ世代に属しながら、市民社会を舞台として、物そのもの触感を感じさせる絵画を描いた。

こうした絵画を評価する流れは、ポンパドゥール夫人が親しく接した百科全書派の知識人たちの説く感覚主義的な世界観に対応し、さらには、感情を強く表現する絵画へと連なっていった。

新古典主義絵画に向かって

クロード・ジョゼフ・ヴェルネ(1714-1789)は、約20年のローマ滞在の折にクロード・ロランなどの風景画に親しみ、とりわけ港や海の光景を描いた。

「マルセイユ港への入港」「海景:夕日」「夜、月夜の港」「嵐と難破船」、どの作品を見ても、ヴァトーから始まる画風の内密さや親しみ安さではなく、雄大な光景を前にした人間の様々な感情が表現されている。

ユベール・ロベール(1733-1808)は、イタリアに留学中に各地を旅行して風景を見て回るとともに、ローマの古代遺跡に興味を持ち、都市景観の廃墟を数多く描いた。

廃墟は、建造物が作られてからそれが朽ち果てるまでの「時間の経過」を強く感じさせるテーマであり、ユベール・ロベールは、現実に存在しているルーブル宮をあえて廃墟の姿で描くこともしている。

彼はローマやローマ近郊の荒れ果てた情景はもちろんのこと、ジャン・ジャック・ルソーが最初に埋葬されたパリ北方のエルムノンヴィルにあるポプラの島の光景も絵画に留めている。
ルソーの思想にとって、現在の状態を遡った「起源」、原初の状態(自然)の「記憶」は本質的な問題であり、時間の経過を感じさせる廃墟は、18世紀後半の時代精神に相応しいものだったと考えることができる。

1732年生まれのフラゴナールと1733年生まれのユベール・ロベールは同じ世代であり、二人ともローマに留学した経験を持ち、同じ時代に活躍した。
しかし、二人の画風はかなり異なっている。それは二人の気質の違いによるものであると同時に、フラゴナールのようなヴァトーの「雅な宴」に始まる絵画の伝統を引き継ぐ流れが継続すると同時に、新たな画風が生まれつつあったことの証だといえる。

彼らの次の世代に属するジャック・ルイ・ダヴィッド(1748-1825)が1784年に制作した「ホラティウス兄弟の誓い」は「新古典主義」の模範と考えられ、ロココ絵画とは全く異なる絵画の流れが始まったことを示している。

ここには、ロココ的な軽やかな動きや華やいだ雰囲気はない。均整の取れた構図、動きが静止し永遠に留まったような人々の姿が、厳密で荘重な印象を与える。

1789年のフランス大革命を経て、ナポレオンが台頭し、1804年には皇帝に登り詰める。その時代を代表する画家がダヴィッドであり、新古典主義が絵画の主流となった。
「レカミエ夫人の肖像」「マラーの死」そして「ナポレオンの戴冠式」を見るだけで、新古典主義がどのようなものを一目で理解することができる。

新古典主義が主流をなす間、「趣味が悪い」という意味で「ロココ」という用語が、前の時代の絵画を貶すために用いられた。
ロココの元になる言葉は岩を意味する「ロカイユ」。
ロカイユは、庭園に作られた洞窟を飾る貝殻で作られた岩組を指し、1730年代になると、貝殻のような曲線を多様した装飾を指すようになった。
一説によると、18世紀の末になり、ダヴィッドの弟子の一人が、細かな曲線で細部の装飾まで描く絵画を非難するために、ロカイユからロココという言葉を作り出したのだという。
そして、19世紀の半ばに18世紀絵画の再評価が行われるまで、ロココという言葉は蔑称として用いることになった。

そのような歴史を知ると、新古典主義が主流になった時代、マリー・アントワネットのお抱え画家として多くの肖像画を描いた女性の画家エリザベート・ヴィジェ・ルブラン(1755-1842)が、あまり高い評価を受けなかった理由がわかってくる。

ヴィジェ・ルブランの描くマリー・アントワネット像や、小さな娘を抱く自画像は、ダヴィッドのレカミエ夫人像よりも、ブーシェやカンタン・ド・ラ・トゥールのポンパドゥール夫人像にはるかに近く、柔らかで繊細な印象を与える。
その意味で、ヴィジェ・ルブランの肖像画は、新古典主義の時代に描かれた、遅れてきたロココ絵画と言うことができる。


17世紀の古典主義絵画と18世紀末の新古典主義絵画の間に挟まれた約50年の間、後の時代に「ロココ」と呼ばれることになる美が咲き誇った。

ただし、ロココ絵画といってもヴァトー的な流れと、シャルダンやランクレを代表とする流れでは、絵画の題材も描き方もかなり違っている。
その違いは、個々の画家の気質にもよるし、時代精神の変化も関係している。

絵画の歴史的な変遷を知った上で、自分の好みの画家や1枚の絵画を鑑賞すれば、ロココ絵画を見る楽しみはより大きなものになるだろう。

フランソワ・ブーシェ、ポンパドゥール夫人


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