江戸時代後期の絵画 北斎 広重 酒井抱一 装飾性と写実性 

18世紀後半になると、近代ヨーロッパの絵画の基礎となる遠近法や明暗法が導入され、伝統的に装飾的で造形的だった日本の絵画にも、写実性が付け加えられるようになった。

そうした融合は決して、京都や大阪の伝統的な絵画だけではなく、江戸の浮世絵でも行われた。円山応挙(1733-1795)の「保津川図」と鳥居清長の「三囲の夕立」を見ると、両者ともに、造形性をベースにしながら、リアリティを感じさせる表現がなされていることがわかる。

円山応挙、保津川図
鳥居清長 三囲の夕立

どちらの作品にしても、現実の場面を再現したものではなく、画家が組み立てた構図に基づき、デザイン性が高い。その一方で、保津川の土地の起伏や木々、勢いよく流れる川の動きや、女たちを襲った夕立の風や雨の感覚が、リアルに表現されている。

18世紀の後半に生まれ、19世紀前半に活躍した画家たち — 葛飾北斎(1760-1849)、酒井抱一(1761-1828)、歌川広重(1797-1858)等 — は、「装飾性」と「写実性」という二重の要請を満たしながら、各自の気質に応じた表現を模索していった。

19世紀前半の画家たちの中で、現在最もよく知られているのは葛飾北斎(1760-1849)だろう。
また、北斎の「富嶽三十六景」と対をなすような形で、歌川広重(1797-1858)の「東海道53次」も比較的よく知られている。
その理由の一つは、19世紀後半になり、ヨーロッパで浮世絵が高い評価を受け、江戸時代を代表する絵画として日本でも価値を見出されたことにある。

それに対して、北斎と一歳違いで、非常に優れた琳派の画家であった酒井抱一(1761-1820)は、一般的には現在ほとんど忘れられた存在である。浮世絵以外の江戸時代の絵画は、顧みられることが比較的少ない。

ここではまず最初に、類似した構図で描かれた富士山を見てみよう。

上の2枚が浮世絵。すでに遠近法や陰影法が導入された後で制作された19世紀前半の作品なので、ある程度のリアリティを感じさせながら、その一方で、下の2枚と比べると、独特の装飾性を持っていることがわかる。

2段目の最初は、文人画家・谷文晁(1763-1840)の山水画「富士真景図」。
題名の「真景」という言葉が示すように、目に見える姿を通して「造化の真」を捉えることを目的にしている。

その隣は司馬江漢(1747-1818)の「下総利根川今井渡図」。
ヨーロッパから移入された透視遠近法や明暗法を用い、現実の風景を写実的に描いたように見える洋風画。

では、それらの比較に基づいた上で、2枚の浮世絵にどのような違いを感じるだろう?

面白いことに、この2枚では、ヨーロッパで理想の風景を描く際に用いられる典型的な構図が用いられている。
その構図を考案したと考えられている16世紀イタリアの画家アンニーバレ・カラッチの「漁猟」と、17世紀フランスの古典主義絵画を代表するニコラ・プッサンの「穏やかな風景」を見てみよう。
画面の中央に川や湖など水のある光景が置かれ、手前には岸があり、奥に景色が広がる。

構図とは関係ないが、浮世絵と比較すると、ヨーロッパの油絵の暗さが目につく。
19世紀後半、印象派の画家たちが、絵画全体に明るい印象を生み出そうとした時、パレットの上で絵具を混ぜると色彩が暗くなるため、絵具そのままの色をキャンバスに点在させる技法「筆触分割」を考案した。
こうして見比べると、浮世絵が、印象派の求めた明るさのモデルになった理由がよくわかる。

その一方で、構図の類似は、浮世絵には遠近法が使われていない、という思い込みをただすことにもなる。手前に配置された地面は、画面に奥行きを生み出す効果を作り出す。
その奥行きによって、遠くにある山や建物の雄大さが際立つ。そのことは、前の地面を手で隠し、山だけを見るとはっきりする。

では、2枚の浮世絵だけを比較すると、どのような違いを感じるだろうか?

最初のものは、川が右から左に斜めに下り、動きがある。
岸を歩く人間や馬の進む方向と川に置かれた舟の方向が異なり、そこにも動きを感じる。
右下の木々は枝の上だけが突然突き出したようで、画面全体の非対象性を際立たせる効果を果たしている。

それに対して、2枚目のものは左右対称を基本とし、10艘の舟も動きを停止し、全体的に穏やかな印象を与える。
その一方で、手前の緑色と、水の微妙に変化する青、富士山を囲む薄い赤、青、白が調和し、しっとりとした情緒が感じられる。

これら2枚の浮世絵は、2つの有名な連作から取り出したもの。

最初は、葛飾北斎「富嶽三十六景」の中の「武州玉川」。
二番目は、歌川広重「東海道五十三次」の「江尻」。

葛飾北斎 絵組の面白さ

北斎の「富嶽三十六景」は1831年から版行され始め、大変な人気を博した。その人気に便乗し、1834年から広重の「東海道五十三次」が出版されたともいわれている。
そのためなのか、後発の歌川広重は葛飾北斎の風景画に対して、はっきりとした批判をしている。(1859年と後になってからではあるが。)

広重によれば、北斎の絵は、「絵組のおもしろきを専らとし、不二(富士)は其あしらひにいたるもの多し。」つまり、構図ばかりが目につき、肝心の富士山はその添え物になってしまっている。
それに対して、広重の描く富士の絵は、「目のあたりに眺望せしそのままに写しおきたる草稿を清書せしのみ。(中略)図取は全く写真の風景」。
彼は、目に見える光景をそのままに写し、構図に工夫を加えるのではなく、「そのまま」を伝えることに重きを置くのだと主張した。

この広重の言葉を言い変えると、北斎は構図にこだわり、リアルよりもデザイン性に特色があり、広重はアンチ北斎を掲げ、リアリティに力点を置いた、ということになる。
浮世絵というジャンルの絵画の内部で、装飾性と写実性のどちらに力点があるのかが、二人の浮世絵師の違いと考えることができる。

そのような視点から北斎の浮世絵を見直してみると、「富嶽三十六景」に限らず、合理的な空間構成の中で力強い構図が形作られ、躍動感と緊張感に満ちたものが多いことに気づく。

流れ落ちる滝はアメーバのようでもあり、自然の光景を描くというよりも、グラフィック・アートを思わせる。

花鳥図にしても、鳥の姿はほとんど消え去り、色彩と形体の面白さだけが目に飛び込んで来る。

花を描く場合にも、日本の伝統である季節感を感じさせることはなく、純粋に造形的な世界が作り出されている。

北斎の面白さは造形と色彩の生み出すダイナミズムにあり、それぞれの事物、静物、人間を描く際の写実性は、それらが組み合わされたときの力強さを生み出すための素材に留まっている。

そのような見方をすると、最初に見た円山応挙の「保津川図」との類似を確認することができる。応挙の写実的側面ではなく、装飾的な効果を更に一歩進めたのが北斎だといえる。

歌川広重 空気感の詩情

歌川広重は、「図取は全く写真の風景」を描くのだと主張する。しかし、「目のあたりに眺望せしそのままに写し」という言葉を、単に現実に忠実な写生と理解することはできない。

まず最初に、広重が構図を全く考慮せず、現実の風景を写生したわけではないことを示すため、構図に対する意識がはっきりとしている作品を確認しておこう。

左右の非対象、俯瞰、鳥瞰、ズームアップ、近景と遠景の極端な対比、画面の中央を遮断する強大な物体の配置等によって、斬新な構図を作り出している作品が多数ある。

最初の「東都名所 両国の宵月」は1831年に制作された作品と考えられ、北斎の「富嶽三十六景」を模した構図である可能性も考えられる。
上段右は、「東海道五十三次」の一枚「箱根 湖水図」。
下段の「亀戸梅屋舗」と「深川洲崎十万坪」は、1857年の「名所江戸百景」に収められたもの。構図の斬新さは北斎に匹敵する。

しかし、広重の意識は、リアルを表現することにあった。その場合、ありのままを写し取るとは言いながら、彼が目指したのは、物の形の再現ではなく、描かれた情景の雰囲気だった。
雨が降るのであれば、降り方を感じさせる効果、雪であればシンシンと降る雪の効果、そうした効果を伝えることを目指した。

「目のあたりに眺望せしそのままに写し」というのは、実際に見た風景を忠実に写生するという意味ではなく、空気感も含めてそのままだと感じさせる絵画なのだ。

「東海道五十三次」にしても、実際に見た光景を描いたのではなく、当時のガイドブックに掲載された挿絵からインスピレーションを得て描いたものがかなりあると推測されている。

横道に逸れることになるが、江戸時代後期の観光ガイドブックについて簡単に触れておこう。

日本では平安時代から「名所絵」の伝統があった。
和歌の歌枕に詠まれる土地や、故事、神話、伝説に登場する名所旧跡があり、実際に訪れたことがなかったり、実在しない場所であったとしても、「名所」として絵画に描かれてきた。

江戸時代になり、大名の参勤交代だけではなく、金比羅参り、伊勢参り、富士登山等の信仰の旅など、庶民も多く旅をするようになった。そうした旅では、目的地に行くことだけではなく、道中の景色を楽しみ、各地の名物を食べるなど、娯楽としての側面も持っていた。
そこで、「名所図会(めいしょずえ)」という旅行案内が出版され、その中には、文字による記述だけではなく、数多くの挿絵が付け加えられた。
その走りは、1780年の「都名所図会」とされ、それ以降、伊勢、大和、東海道、摂津、木曽路、江戸など、名所の図会があり、人々は実際に訪れたことのない土地でも、挿絵を見て、旅先の様子を楽しんだものと思われる。

広重が東海道の宿場の風景を描いた時、「東海道名所図会」(1797)等の挿絵を下敷きにしたと言われている。
そうした事実は、彼が描こうとしたのが実写ではなく、その場に立ち会っているような空気感であることの傍証になるだろう。

「東海道五十三次」の一枚「蒲原」では、シンシンと降りかかる雪の雰囲気が静かに伝わってくる。しかし、静岡県の蒲原にはほとんど雪が降ることはなく、この光景は現実の写生ではないことが知られている。
広重は、季節感、時間帯、天候など、目には見えないが、人間がその時その場で実感している雰囲気を描き出す。物を通して、空気感が伝わってくる。

その効果は素晴らしく、印象派の画家アルフレッド・シスレー(1839-1899)は、「蒲原」からインスピレーションを受け、フランスの小さな町の公園を雪景色に描き、「マルリーのシュニル広場」という題名の後ろに「雪の効果」という副題を付けた。

広重の浮世絵の詩情は、この空気感にある。
北斎に情感を求めても無駄だ。雨の詩情を感じるのなら、広重の絵画に目をやる必要がある。

雨の風景は、鳥居清長の「三囲の夕立」にもあった。広重はその表現をさらに先に進め、雨の効果を様々に描く。

「庄野」に降る夕立の激しさは、坂道を駆け上がる人や走り下る人たちの急ぎ足の様子からも感じられる。
それと同時に、谷の向こうに見える竹藪のシルエットと、斜めに降りかかる雨の線とが交差し、坂道と三角関係を空間に作り出していることで、画面全体を躍動感あるものにしている。

「名所江戸百景」の「大はしあたけの夕立」では、雨は垂直に降りかかっている。こちらでは、慌てた様子の人々の姿は小さく、大きな川、大きな橋が画面の3分の2を占める。それに対して、遠景の街並みはぼかして描かれ、遠くが霞んで見えないほどの土砂降りであることが感じられる。

四日市の三重川では強い風が吹き、朝の三島には深い霧がかかる。

こうした季節感は風景を描いた作品だけではなく、花鳥画でも同じ詩情が感じられる。

最初に目につくのは、兎や鳥たちの愛らしさ。擬人化されているといっていいほど表情が豊かで、身体全体の動きも柔らかで、なんともいえない穏やかさを醸し出している。

「月夜 木賊(とくさ)に兎」では、月見する兎の後ろに、秋の季語である木賊(とくさ)が生え、中秋の名月とともに、秋を告げている。月の横に書かれた「夜はいとど 草のむしろに 露おきて 兎の妻も 寝つきかぬらん」という和歌は、兎の夫が妻を思う穏やかな気持ちを歌い、この絵の雰囲気を言葉によって伝えている。

北斎と広重の違いは、花鳥画においてもはっきりとしている。

描かれている花は紫陽花と藤、鳥はヒワとセキレイ。 

北斎の藤の花もセキレイも、非常にリアルに描かれている。しかし、それ以上に、画面全体を囲む花と鳥の身体、そして、中央に伸びる鳥の尾が生み出す構図の面白さが、この絵を印象的なものにしている。

広重の小鳥のつぶらな瞳の優しさと柔らかな翼の動きは、温かみのある雰囲気を醸し出している。アジサイが薄水色から紫に変化していく様子を詠んだ句は、梅雨から夏へと向かっていく季節を告げる。絵全体から、その句の詩情がしみ出しているような感じがする。

絵としての面白さとしては北斎が勝り、情緒は広重にある、と言ってもいいだろう。

ゴッホが好んで広重の模写をしたのは、構図の斬新さだけではなく、詩情に富んだリアルな空気感を捉えたからだろうか。

酒井抱一 

酒井抱一(ほういつ)は、1761年の生まれで、1760年生まれの北斎と一歳違い。
姫路藩主、酒井忠仰(ただもち)の四男として江戸で生まれたが、狩野派や浮世絵など絵画を学び、俳句や狂歌にも親しんだ遊び人で、出家もした。
そんな中、1800年頃、緒方光琳の絵画と出会い、1815年には光琳百回忌を開催するほどのめり込み、江戸琳派の創始者と見なされている。

酒井抱一の代表作「夏秋草図屏風」。

現実の風景を写生的に描いたものではなく、左右で均整が取れ、デザイン性が高いことがわかる。
その一方で、画面の前景の草花は実際に何の花かわかるようにリアルに描かれ、季節性を感じさせる。
酒井抱一も、18世紀後半から19世紀前半の日本絵画を特色付ける二つの要素 — 装飾性と写実性 — のバランスの中で、彼独自の表現を模索したことがわかる。

装飾性という点で、右の上に描かれた水の流れは、尾形光琳の「紅白梅図屏風」を思わせないこともない。

酒井抱一のデザイン性が最も端的に表れているのは、彼の描く「絵手鑑(富士山図)」。絵画というよりも、モダン・アートといえるほど。

その一方で、俳諧師としての側面は、植物の描写に現れている。

屏風の右側では、白百合、仙翁花、女郎花などの夏の草花が、雨に打たれて葉先をうなだれたように地面に向けている。背後の水の流れは、夕立の後の情景を思わせる。

左側では、葛(くず)、藤袴、ススキ、蔦紅葉といった秋の草花が、風に吹かれ、右から左へと大きく揺れている。葉が内向きに舞ったり、裏返ったりする姿が、風の強さを示している。

こうした季節の情緒は、和歌や絵巻物によって古くから伝えられてきた伝統であるが、酒井抱一の「十二か月花鳥図」等では、植物や生き物の描写がかなり写実的だ。

実は、尾形光琳が俵屋宗達の「風神雷神図」を模写した屏風があり、その裏に酒井抱一が描いた屏風絵が「夏秋草図屏風」だった。雷神の裏には雨で濡れた後の夏草が、風神の裏には風に吹かれる秋の草が描かれていた。

尾形光琳の屏風絵と季節のリアルな情景の取り合わせは、琳派のデザイン性と季節感に写実的な表現を与えようとする時代精神が調和したものと言ってもいいだろう。

酒井抱一の目指す美は、ジャンルこそ違え、歌川広重の浮世絵と同じように、詩的抒情性を感じさせるものになっている。

酒井抱一の弟子であり、広重と同世代の鈴木其一(1795-1858)が描いた「薄野図」。

描かれているのはススキでありながら、広重の浮世絵に降る雨を思わせなくもない。

日本において、19世紀前半における美意識が、ジャンルの違いを越え、装飾性と写実性のバランスが模索されていたことを、こうした例から理解することができる。


江戸時代後期の絵画を、北斎、広重、酒井抱一の3人で代表することはできない。浮世絵師にしても、伝統的な日本画家にしても、数が多く、たくさんの名作が残されている。

ここで試みたのは、江戸時代中期に導入された写実主義的表現が、その後、伝統的な絵画を特色付ける装飾性とどのように融合していったのか、3人の例を通して見ていくことだった。
彼らの例を知ることで、他の画家たちの作品を見るときでも、それぞれの美のあり方を鑑賞する手掛かりになるだろう。


1853年にペリーの黒船来航という象徴的な事件があり、1868年、明治維新を迎えた。
それ以降、江戸時代までの文化や芸術が一気に価値を失い、欧米の価値観が日本人の心性を変容させてしまう。先進的な西洋文化を取り入れるだけではなく、日本の伝統的な文化を卑下する傾向が続くことになった。

俳句が芸術だとしても、第二芸術にすぎないとする論は、その典型だといえる。

こうしたコンプレックスは、長い間続いてきた。
例えば、浮世絵が日本で再評価されるためには、ヨーロッパにおける評価が必要だった。
そのことは、逆説的に見えるが、浮世絵が印象派に与えた影響を過大評価し、浮世絵がなければ印象派絵画が誕生しなかったかのような主張からも見て取ることができる。
ジョン・リウォルドの『印象派の歴史』の日本語訳は本文2段組で400ページ以上あるが、浮世絵に費やされたのはわずか数ページにすぎない。
19世紀後半になり、ヨーロッパの絵画や世界観が、ルネサンスから続く伝統の革新を目指していたからこそ、異国の芸術である浮世絵がインパクトを与えることができたのであり、変革の素地がなければ受け入れられることはなかっただろう。

現在の視点からではなく、時代の流れの中に作品を位置づけ、その時代の視点から作品を判断することで、個々の作品の価値や美を生の形で知ることができる。
江戸時代後期、1800年を過ぎた頃からの絵画を味わうための手掛かりとして、北斎、広重、酒井抱一たちが基づいていた美意識を知ることは、有益なことだと思われる。

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