星の王子さまの秘密 1/2

サン=テグジュペリの『星の王子さま』(1944)は、日本で最も名前の知られているフランス文学作品の一つであるが、これほどの人気の秘密はどこにあるのだろうか。

まず、作者自身の手による挿絵の力が大きい。王子さまの愛らしい姿は、この作品の大きな魅力を形作っている。
実際、この作品は子どもに向けて書かれたと言われており、誰でも簡単に王子さまの不思議な世界の入り口に立つことができる。

しかしその一方で、奥行きも深い。最も有名な言葉、「大切なことは目に見えない」等の心に響く印象的な表現が、読者の心を捉える。その意味で、入り口が広いという以上に、奥行きが深い作品だといえる。

大人の中にいる子ども

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1900-1944)は、冒頭に置かれた献辞の中で、「大人は誰でも元は子どもだった」と書いている。大人たちはしばしばそのことを忘れている。しかし、その子は眠っているだけで、きっかけがあれば目を覚ます。

『星の王子さま』には大人の読者が多い。絵の可愛さにひかれ子どもの頃に読んだけれどよくわからず、大人になって初めて感動を覚えたという人も少なくない。
実際、この作品は、本来の子ども以上に、「大人の中にいる子ども」が読者として想定され、現実にもそのようになっている。

もし子どもだけを読者とするのであれば、それにふさわしい語り方がある。サン・テグジュペリは自分の物語が伝統的な児童文学とは違っていることをはっきりと意識していた。

本当だったらぼくはこの話をおとぎばなしのように始めたかった。つまり、こんな風にー。
「むかしむかし、自分よりほんの少し大きいだけの惑星に住んでいる王子さまがいた。その王子さまは友だちが欲しいと思ったので・・・」。
生きることの意味がわかっている者にはこういう言い方の方がずっと本当らしく聞こえるだろう。

生きることの意味がわかっている者は、王子さまは「チャーミングで、よく笑ったし、ヒツジを探していた」と聞くと、その実在を信じる。
そうした人、つまり子どもたちなら、おとぎ話の不思議な世界に一気に入っていくことができる。

それに対して大人たちは、記号や数字を使って、「王子さまは小惑星B612から来た」と言われないと納得しない。そして、そう言われた後からは、もう何も聞こうとしないと、サン・テグジュペリは言う。
生きることが何かを忘れてしまっているのだ。こうした大人たちにとって、おとぎ話など子どもの読み物であり、幼稚で価値のないものにしか思えない。
もし「むかしむかし」で始まっていたとしたら、大人が『星の王子さま』とまじめに向き合うことはなかっただろう。

そこでサン・テグジュペリは、物語の枠組みとして、飛行機でサハラ砂漠に不時着するという、現実的な冒険物語を設定する。そして、そこに数字をしっかりと書き込む。
それは6年前のことだった。飛行機は人が住んでいるところから1000マイルも離れたところに不時着する。機械を修理するのに8日かかる。
これなら数字にこだわる大人たちでも素直に入っていける。

作者の生涯を知っている人ならば、彼がパイロットであり、砂漠に不時着した経験があることから、この物語が実際の体験に基づいていると考え、納得するかもしれない。

作者は、王子さまを登場させる直前に、大人に対するもう一つの親切を付け加える。
不時着の最初の晩、パイロットは「船が難破していかだで漂流している船乗りよりももっとひとりぼっちだった。」この記述から、誰もがすぐにロビンソン・クルーソーを思い起こす。
すでに名声の確立した物語を連想させるのは、大人にこの物語を受け入れやすくさせるための心遣いだろう。

「大人を相手にするときには子供は寛大でなければならないんだ。」と記すサン・テグジュペリ。彼が、最初から王子さまの物語を語るのではなく、砂漠での出会いという枠組みを付け加えたのは、「むかしむかし」で始まる話をそのまま受け入れることができない大人のためだったのだろう。

大人のために準備された枠組みの内部に収めらているのは、王子さまの不思議な宇宙である。
そこでは、バラもヘビもキツネも人間の言葉を話す。王子さまが、王様やうぬぼれ男、酒飲み、ビジネスマン、点灯夫、地理学者の前に突然姿を現しても、誰も驚かない。
現実では起こりえないことばかりが起こる、昔話的世界が広がっている。

王子さまと出会って驚くのは、一人だけ。その一人とは、パイロットの「ぼく」。
現実の法則に支配された砂漠の上で、眠っている「ぼく」の耳に、突然、「ヒツジの絵を描いて」という声が聞こえる。

ぼくは雷が落ちたみたいに驚いて、すぐに立ち上がった。それから目をこすって、あたりを見回した。とても不思議な子供が一人そこにいて、ぼくの方を真剣な顔で見ていた。

ここでの驚きは、「ぼく」の意識がまだ現実にあることから来ている。不思議な世界に入り込んでしまえば、もう驚きはなくなる。驚きは、二つの世界が衝突したときにしか生まれない。
従って、「ぼく」の驚きは、大人の読者が現実から不思議の国に入るときの驚きを代弁している。

王子さま自身の物語は、「自分の星から離れた主人公が試練を重ね、最後に元の場所に戻る」というものであり、「欠如 ー 試練 — 充足」から成り立つ「昔話の基本構造」に則っている。
しかも、王子さまが訪れる星の数は七つであり、昔話的数字が使われる。その意味では、「むかしむかし」ではじまる物語にふさわしい。

ただし、行く方向と返る方向は逆である。普通、試練は主人公を象徴的な死に至らしめ、それを乗り越えることで主人公は再生する。
しかし、王子さまは別の星から地球を訪れ、最後に地球を後にする。つまり、再生ではなく、死を迎える。『星の王子さま』を貫くかすかな悲しみの感情は、そこに由来しているのだろう。

このように見てくると、『星の王子さま』の中では、二つの物語が組み合わせられていることがわかってくる。
1)パイロットの砂漠での試練の物語=物語の枠組み
2)王子さまの冒険物語=物語の中身

この次元の異なる二つの物語 —— 一つは現実、一つは非現実 ——が最後には一つに重なり、不思議な王子さまの死が、現実世界におけるパイロットの生還と対応する。

このように考えると、パイロットである大人の「ぼく」が砂漠で出会うのが誰かわかってくる。
「ぼく」が死の淵に立たされたとき現れ、現実世界に戻って行くときに死んでしまう存在。
それは、「小さな男の子だった時のぼく」に他ならない。だからこそ、王子さまは、最初に「ぼく」の前に現れたとき、じっとこちらを見ている。そして、「ぼく」が大人の世界に生還するときになると、再び姿を消す。

大人の世界

『星の王子さま』の中で、大人は否定的な存在として定義される。
大人は目に見えるものにしか注意を払わず、大切なものを見逃しまうけれど、それに気づきさえしない。多くの人に囲まれながらも、本当のことを話せる人がいず、孤独の中で自分を偽りながら生きる哀れな存在。
大人は子どもと対比的に捉えられる中で、負の価値を担わされている。

ただし、子どもが常に肯定的に捉えられるわけでもない。
子どもを代表する王子さまは、最初バラを愛することができず、自分の星を脱出するしかなくなる。「ぼくも若かったし、彼女の愛しかたがわからなかったんだ。」
地球でキツネに出会ったとき、「飼いならしてくれ」と言うキツネに対して、「友だちをたくさん見つけて、いろいろ学ばないといけないから」、時間がないのだという。人とのきづなを作ることができず、忙しがっている王子さまは、大人と変わらない。

こうしたことからわかることは、サン・テグジュペリが大人と子どもを実体的に考えているわけではない、ということである。
物語の中で大人はこうだと言われていることは、現実の大人ではなく、ある考え方や振る舞いの仕方をさしているのだ。
現実の大人にも子どもにも両方の要素がある。だからこそ、『星の王子さま』を通して、大人も子どもも「目にみえない大切なこと」を習得することができるし、また、そのことを期待されているのである。

そうした考えを全体にした上で、どのような姿の大人が描かれているのか見ていこう。

まず、パイロットの「ぼく」。

砂漠の真ん中にいる「ぼく」は、急いで飛行機を修理したいと焦っている。だから、ときどき王子に意地悪なことを言ってしまう。

「トゲは何の役に立つの?」という質問に、「トゲは何の役にも立たない。花はただいじわるをしたいだけさ。」と答える。
不時着して8日目になり、最後の水を飲み終わったときには、思わず、「キツネの話をしている場合じゃないんだ!」と声を荒げる。
大人なら誰でも、砂漠に不時着した状況の中で、乾きや死を心配し、ハンマーやボルトで飛行機の修理をすることが一番大切だと考える。王子さまにかかわっている暇も、心のゆとりもない。
だからこそ、砂漠に不時着する前も、「本当のことを話せる相手に会わないまま、ひとりで生き」ざるをえなかったといえる。大都会の中で、多くの人々に囲まれながら、心には孤独を抱えている。

せわしなく働く孤独な大人の像は、別の大人たちの姿によって、さらに細かく描かれる。
王様、うぬぼれ男、酒飲み、ビジネスマン、点灯夫、地理学者。彼らに共通するのは、自分の星に一人で住み、誰も話をする相手がいないことだ。

それにもかかわらず、王様は命令することで自分の権威を守ろうとし、うぬぼれ男は崇拝者を求めている。彼らが必要としているのは、本当のことを話せる相手ではなく、服従され、崇拝されることにすぎない。自己愛を満足させる鏡になれば、相手は誰でもかまわない。

酒飲みは、王やうぬぼれ男のように相手を求めてはいないが、他者意識が完全に抜け落ちているわけではない。それがあるからこそ、酒を飲んでいることを恥ずかしく思い、忘れるためにまた酒を飲む。

ビジネスマン、点灯夫、地理学者になると、他の人に対する意識は消え去り、忙しく働いている。
ビジネスマンは、星の数を数えることで、とにかく忙しい。彼は、数を数えた星を所有し、お金持ちになり、新しい星が見つかったときにはまた星を買うのだと言う。数を増やすためにだけ、数を数える。まさにマネーゲームに熱中しているのだ。
しかし、何のためにしているのか考えてみることはない。数字を増やし、所有することだけが目的になっている。

こうした目的のない行為は、点灯夫の星でとりわけはっきりと描かれる。彼は一分毎に街灯に火をともし、そして消す。なぜ?

「規則なんだよ。おはよう」と点灯夫は答えた。
「どんな規則?」
「街灯を消すという規則。こんばんは」
彼は街灯を点けた。
「でも、今どうして街灯を点けたの?」
「規則だから」と点灯夫は答えた。
「わからないや」と王子さまは言った。
「わかる必要なんてぜんぜんない。規則は規則さ。おはよう」
そう言って街灯を消す。

「おはよう」「こんばんは」という言葉が忙しさを読者に感じさせることで、ここでの会話は、自分が何のためにしているのか考える暇もなく、ただ規則に従って街灯を点けたり消したりしている点灯夫の様子を的確に伝えている。酒飲み、ビジネスマンの行為の無意味さが、点灯夫によって強調される。

ところで、王子さまは、点灯夫だけが「自分以外のものの世話をしている」という点を取り上げ、友だちになってもいいと考える。逆に言うと、そのことで、点灯夫以前に出会った人々は、自分のためだけにしか行動していないことが浮き彫りになる。
このように、点灯夫の星への訪問は、大人たちの行為の無意味さを際立たせると同時に、そうした行為が誰のためにもなっていないことを明らかにする役割も果たしている。

六番目の星に住む地理学者は、点灯夫よりも役に立つ仕事をしている。実際、パイロットにとって、地理の知識は必要不可欠であるし、ボアの絵の挿話の中でも、「地理の勉強は実際に役に立った。ぼくは一目見ただけで中国とアリゾナを見分けることができる。夜、迷った時など、とても助かる」と記されている。

しかし、王子さまと地理学者では、大切なことが違っている。
王子さまは、たった一本のバラを何よりも大切だと思っている。他方、学者にとって大切なのは、普遍的な事実である。
地理学者は王子さまに星の聞き取り調査をする。その時、王子さまはまず火山についてついて話し、次にバラに言及する。

「花も一輪あります」
「花のことは書かないんだよ」と地理学者は言った。
「どうして! いちばんきれいなのに! 」
「なぜなら、花ははかないから」
「はかない、ってどういう意味? 」
「地理学の本はすべての本の中で最も重要なものだ。決して時代遅れになることはない。山がその場所を移すというのはめったに起こらないことだ。大洋が干上がるというのもめったに起こらないことだ。我々は永久的なことだけを書く。」

地理学者が関心を持つのは現実ではない。冒険の旅に出た探検家から報告を聞き、そこから抽象的な真理を導き出そうとする。永久的なこと、つまり、誰にとっても同じ客観的な事実を捉えることが重要だと考えている。
しかし、そこには、一つの具体的な対象に対する愛が入り込む余地はない。

地理学者は、王子さまの星の地理を書くときでも、花のように消え去ってしまうものには興味を持たない。それに対して、王子さまには、花があるかないかが、世界でもっとも大切なことなのだ。
だからこそ、忙しく働くパイロットに向かって、こう言って泣き出してしまう。

「ぼくの星には他の場所には生えていない、世界中でたった一輪の花があるけれど、なんにも知らないヒツジがある朝、ぱくっと食べてしまったらその花はなくなっちゃうんだ。なのにきみは、そんなことは大事じゃないって言うんだ。」

この非難は、「ぼく」の中の地理学者的側面にぐさりと突き刺さる。大人は客観的な真理を求めるあまり、大切なことー「生きることの意味」ーを見失っている。
王子さまの視点から見れば、生きるとは、一本のバラの存在をどれだけ大切に感じるかだ。大人は普遍的なこと、一般論を求め、はかないこと=「今この瞬間に存在すること」の大事さを忘れている。

星めぐりの場面で描かれる六人は大人の属性を描いているが、砂漠の中で特急列車を振り分けている転轍手と、渇きを抑えるのに完璧な効果を持つ薬を売る商人は、大人がどんな気持ちで生活しているのか教えてくれる。

転轍手が仕分けしている列車は、すごいスピードで右に左に走り抜けていくが、機関車の運転手でさえ、どこに向かうのかわかっていない。ただどこかに運ばれているだけなのだ。
その理由を転轍手は、「誰も自分がいる場所に満足できないから」なのだと説明する。
たった一本のバラを愛することができれば、そこが居場所になるはずなのに、愛することがどういうことかわからないでいる。

商人は、週に一回薬を飲めば、後は水を飲まないでいいと言う。そのおかげで時間が節約できる。
「専門家が計算したら、一週間に53分、時間が節約できるって」。これが、その薬を飲む効能書なのだ。
しかし、時間を節約して、何に使うのかという問いに対しては、「好きなことに」という漠然とした答えしか返ってこない。
しかも、時間を節約しようとして、大切な水を飲まないことになる。水はもちろん命の源だ。

大人はこんな風に、自分の居場所を失い、時間に追われて生きている。

こうした大人像を通して直接的にターゲットになるのは、読者である大人に他ならない。
他人事と捉えるのではなく、大人の読者がそうしたイメージを自分のこととして捉えるとき、王子さまのメッセージが伝わる。実際、作品の最初の帽子のエピソードと、最後の羊が花を食べたかという問いは、大人の読者への「挑発」である。

帽子の形をした絵を見て、象を飲み込んだボアの絵だとわかる人はいないだろう。たとえ子どもが見ても、帽子の絵としか見えない。にもかかわらず、大人というのは、内側の象の絵を描いてあげないと何かわからない。このように書くことで、大人における想像力の欠如を非難する。

冒頭のこの挿話は、大人の読者に向かって、「あなたは子どもの心を失っていませんか?」と問いかけ、非現実的な王子さまの物語を受け入れる下地を作るための準備だといえる。

ここで、「地理と歴史と算数と文法をしっかり勉強しなさい」という大人ではなく、あっさりと自分の非を認め、象の姿を「子どもの時のようにもう一度見たい」という思いにかられる大人だけが、『星の王子さま』の入り口の扉をあけ、中に入っていくことができる。

物語を最後まで読み通した読者には、最終の試験が提出される。
王子さまと出会ったパイロットは、砂漠から生還した6年後になっても、王子さまのことを忘れはしない。その時も、王子さまに描いてあげたヒツジの絵に口輪の革ひもをつけるのを忘れたことを気にしている。そのせいで、ヒツジがバラを食べてしまうのではないかと。

 これはなかなかの謎だ。ぼくにとってと同様、王子さまが好きなあなたにとっても、まだ見たこともないヒツジが一本のバラを食べてしまったか否かで、宇宙がすっかり変わってしまう。・・・
 空を見てほしい。そして自分に聞いてみてほしい。——— どっちだろう? ヒツジは花を食べたか? その答えによってすべてが変わる・・・。

サン・テグジュペリは、この後すぐ、大人たちに次のように問いかける。

「大人たちにはこれがどんなに大事なことか理解できないだろう!」

この言葉は、ヒツジとバラが宇宙のすべてを変えてしまうかもしれないということを実感しているかどうか、王子さまを好きになった「あなた」に問いかけてくる。
一人一人の読者に向かい、空を見て、自問するように促すのである。

——— 続く ———

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