星の王子さまの秘密 2/2

キツネの教え

『星の王子さま』は「大人の中にいる子ども」に向けられた児童文学に属し、子どもを楽しませながら教育することを目的とした伝統的な児童文学とは一線を画している。その意味で、教訓が全面に出てくることはない。

しかしその一方で、大人が心の底で求めていること、例えば、「ものは心で見る。肝心なことは目では見えない。」といった格言が伝えられ、この物語の魅力の大きな部分を作り出している。
私たちが普段の生活の中で忘れがちな大切なことを教えてくれる書物という位置づけは、こうした教訓的な内容に基づいている。

教訓は、王子さまが地球で出会ったキツネによってもっともはっきりした形で伝えられる。
そのキツネが王子さまに教えるのは、「愛すること」の意味である。

王子さまは、とても好きだったバラの花を本当の意味で愛することができず、彼女を置き去りにして、小さな星を脱出してしまった。
それから後の惑星めぐりの旅は、愛し方を学ぶための試練ともいえる。

王子さまはずっと、どうしたら愛することができるか、その答えを探していた。そして、求めていたからこそ、キツネから与えてもらうことができる。

王子さまが地球にやってきたとき、まだ愛を知らない状態だった。そのことは、バラの咲き乱れる庭園での様子に描かれている。
王子さまのバラは、自分のことを世界でたった一つ種類だと思っているし、王子さまもそう思い込んでいた。しかし、目の前には、5000本もの同じバラが咲いている。
そう思った王子さまはこう考える。

特別な花を一本持っているから自分は豊かだと信じていたけれど、ぼくが持っていたのは普通の花だった。それに、膝までの高さの火山が三つ、その一つはたぶんこれからも死火山のままだ。これだけじゃぼくは立派な王子とは言えない・・・。草の中に倒れて、彼は泣いた。

愛するからこそ、一本のバラが王子さまにとって特別なバラになる。そのことをわからずに、特別なバラだから愛したのだと思い込んでいる王子さまは、愛を知らないことになる。
星を出たのも、そのせいだったのだ。

そこにキツネが現れ、「アプリボワゼ(飼い慣らす)」というキーワードを中心にして、愛の秘技とでも呼べる術を伝授する。その教えを通して、王子さまは、バラの花との絆が何であったかを悟り、愛することの意味を知ることができるようになる。

キツネは、王子さまを説得するために、愛することができるとどようになるか、その結果から示す。
最初に、「アプリボワゼ(飼い慣らす)」ことは「絆を作る」ことだと簡潔に定義し、次に、バラの庭園の前で泣き伏している王子さまの心に直接届く言葉を投げかける。

 「いいかい、きみはまだおれにとっては10万人のよく似た少年たちのうちの1人でしかない。きみがいなくなったって別にかまわない。おんなじように、きみだっておれがいなくてもかまわない。きみにとっておれは10万匹のよく似たキツネのうちの1匹でしかない。でも、きみがおれを飼い馴らしたら、おれときみは互いになくてはならない仲になる。きみはおれにとって世界でたった1人の人になるんだ。おれもきみにとって世界でたった1匹の・・・。」
 「わかってきたみたい。」と王子さまは言った。「1本の花がいてね・・・。彼女はぼくを飼い馴らしたんだけど・・・。」

キツネと王子さまの会話は、2人の関係がそのまま王子さまとバラの関係にも当てはまる。
恋愛だとしても、友情だとしても、そこにあるのは人と人の絆。いったん絆ができあがると、愛する人間にとって、愛の対象は他のものとは比べられない、かけがえのないものになる。
5000本の似たバラがあったとしても、王子さまのバラは王子さまには宇宙でたった1本の特別なバラになる。初めから特別なバラがあるのではなく、愛が普通のバラを唯一の存在にする。
このことを王子さまは求めていたのだ。

では、どうすれば絆を結ぶことができるのだろう? 
「何をすればいいの?」と王子さまは問いかける。

 「なによりも忍耐がいるね。」とキツネは言った。「最初は草の中で、こんな風に、お互いちょっと離れて座る。おれはきみを目の隅で見るようにして、きみの方も何も言わない。言葉は誤解のもとだからね。でも、毎日少しずつ近くに座るようにしていけば・・・。」
 翌日、王子さまはそこへ戻った。
 「同じ時間に戻ってきた方がいいな。」とキツネは言った。「例えばさ、午後の4時にきみが来るとすると、午後の3時にはおれはもう嬉しくなる。時間がたつにつれて、おれはいよいよ嬉しくなる。4時になったら、もう気もそぞろだよ。幸福っていうのがどんなことかわかる! でもきみの来る時間がわかっていないと、何時に心の準備をすればいいかわからない・・・。習慣にすることが大事さ。」

「アプリボワゼ(飼い慣らす)」するために特別なことをする必要はない。毎日毎日同じ時間にキツネのそばに行き、隣り合って座る。その習慣だけで、キツネとの間に絆が出来上がってくる。一緒に時間を過ごしているうちに、その時間が来るのが楽しみになる。わくわくしながら、友だちが来るのを待ちわびる。そして、友だちの姿が見えたときの喜びが、絆をより強くする。 
こうしてキツネと仲良くなったとき、王子さまは、相手のために時間をかけることが愛することだと気づくことができる。

その教えを悟った後からは、庭園のバラたちに向かって、自分のバラは他のバラと同じように見えるかもしれないけれど、自分にとっては特別な存在だと言えるようになる。自分で水をやり、毛虫を退治し、ガラスの鉢をかぶせ、花の話を聞いてあげたからこそ、バラは「ぼくの花」になったのだ。

このように絆が作られると唯一の存在が生み出されるが、しかしそれだけでは終わらない。愛はより大きな愛へと向う。

キツネは小麦を食べないので、小麦畑には無関心だ。しかし、もし王子さまに「アプリボワゼ(飼い慣らす)」されれば、小麦の金色が王子さまの金髪を連想させるようになる。
そうすれば、小麦畑を見ると王子さまを思い出し、そこを吹く風も好きになる。
たとえ王子さまがいなくなった後でも、思い出はずっと続く。
そのために、王子さまとの絆が出来上がった後、二人が別れることになった時、キツネも悲しくて泣くかもしれないが、しかし、「小麦畑の色の分だけ得をした」と思う。

大きな愛に関するこの教えは、キツネによってほのめかされるが、キツネの教えの中では十分に展開されてはいない。キツネから教えを受けた王子さまが、パイロットの「ぼく」に伝えることで、その教えがより明確な形を取る。

王子さまの教え

パイロットの不時着の物語と王子さまの星めぐりの物語は、最後の部分になり、王子と「ぼく」が砂漠の中の井戸を探すという一つの物語に収斂する。
この部分では、キツネが王子さまの師匠だったのと同じ意味で、王子さまがパイロットである「ぼく」の先導者となる。言うなれば、キツネの教えを受けた王子さまが、その教えを「ぼく」に伝えるのである。

しかし、物語の構成上、同じことを逐一反復するのではなく、前の挿話を受けながら、新たな展開が付け加えられる。
キツネの場面で強調されたのは、愛が唯一の対象を作り出すということだった。その上で、王子さまが「ぼく」に伝えるのは、「唯一の関係ができれば、より大きな愛を感じるようになる」ということである。

キツネは、小麦畑と王子さまの髪の色がどちらも金髪であることから、キツネには本来関心のない小麦畑を好きになるだろうと言った。
砂漠の中を歩く王子さまは、そのことをもっとはっきりと「ぼく」に伝えようとする。

王子さまは1本の花との間に絆を作ることがどういうことか、理解することができるようになっている。
愛する1本の花があるために、星を美しいと思うことができる。
砂漠がきれいなのは、どこかに井戸を隠しているからだ。
そうした言葉に導かれて、パイロットである「ぼく」は、自分の過去の出来事をはじめて理解することができる。

 「まだ小さかったころ、ぼくはとても古い家に住んでいて、その家にはどこかに宝物が埋められているという言い伝えがあった。もちろん誰もそれをまだ見つけていなかったし、ひょっとすると誰も探してもいなかったかもしれない。でも、そのおかげで家ぜんたいがすてきになった。ぼくの家はその心の深いところに秘密を隠していた・・・。」
 「そうか」とぼくは王子さまに言った。「家でも、星でも、砂漠でも、きれいに見えるのは何かを隠しているからなんだ!」
 「きみがキツネと同じように考えるから嬉しいよ。」と王子さまは言った。

隠しているといっても、現実に何かを隠しているというわけではない。愛するものとの関係を築くには時間が必要だが、その時間は目には見えない。その目に見えないことが秘密なのであり、それを見るためには、心で見るしかない。「大切なものは目には見えない」とはそういう意味だ。
そして、時間とともにゆっくりと作り上げられた関係が、心の目に見えてくるとき、それを含む全てが大切に感じられるようになる。

たった1つのバラを愛し、たった1匹のキツネを飼い馴らし、たった1つの井戸を目ざして進むことは、決してエゴイスティックな関係に留まることではない。一対一の関係を本当に作り上げることができれば、それを通して、他への愛も生まれてくる。このことは、王子さまと「ぼく」の別れの場面で、非常に大きな意味を持つ。

王子さまはヘビの力を借りて、地球を離れ、自分の星に戻って行く。そして、二度と「ぼく」と会うことはないだろう。別離は悲しい。しかも、死によって隔てられた永遠の別離は言葉に言い表せないほどの悲しみをもたらす。
だからこそ、王子さまは「ぼく」に、夜には星を見てほしいと告げる。
王子さまの星はとても小さいので、どの星かわからないだろう。
「だから、きみはどの星のことも好きになる・・・。ぜんぶの星がきみの友だちになる。」
この言葉は、個別的な愛がより大きな愛につながる過程を描いている。

その言葉に続けて、王子さまは微笑みもプレゼントしてくれる。

 「夜の星を見て、あの星の一つにぼくが住んでいて、そこでぼくが笑っている、ときみは考えるだろう。だからぜんぶの星が笑っているようにも思える。きみにとって星は笑うものだ!」
 そう言って彼はまた笑った。
 「きみの悲しみが消えたとき(悲しみはいつかは消えるからね)、きみはぼくと会ったことがあるというだけで満足するはずだ。きみはこれからもずっとぼくの友だちだよ。きみはぼくと一緒に笑いたくなる。時々こうやって窓を開けて、笑えばいい。。。」

実際には、王子さまが去って行った悲しみがなくなることはない。
「ぼく」は最後に、「今ではぼくの悲しみは少し消えた。つまり。。。ぜんぶ消えたわけではないということだ。」と書き付ける。悲しみは続く。
しかし、王子さまとの絆は、王子さまが目の前にいないからといって、失われることはない。王子さまと会ったことがあるということが、どんなに幸せなことかと思えば、彼がいない悲しみは薄らぐ。
このようにして、一度絆が結ばれれば、たとえ相手が目の前からいなくてもずっと続くことになる。

キツネの教えが、王子さまの中で消化され、王子さまの教えとしてパイロットの「ぼく」に伝えられる。そして、「ぼく」から一人一人の読者へと、教えは続いていく。

詩情

『星の王子さま』は、子どもにも理解できる言葉で綴られているのと同時に、詩的でもある。その言葉が生み出す詩情が、王子さまの言葉を読者の心により豊かに響かせる。

言葉は一般的にはコミュニケーションの道具として使われ、相手にメッセージを的確に伝えることが重要だと考えられている。そこでは伝達が第一であり、表現そのものはあまり問題にならない。実際、日常生活の中で、言ったこと(内容)は覚えていても、何と言ったか(表現)は忘れてしまうということがよくある。表現それ自体の価値は、副次的なものだと考えられる。

他方、詩においては、内容と同時に表現そのものにも注意が向けられる。普段であれば聞き流してしまう言葉を前にして立ち止まり、一般的に流通している言葉と言葉の連鎖を分断する。
そのようにして、言葉そのものを立ち上がらせる。言い換えれば、言葉を「アプリボワゼ(飼い慣らす)」する。
そこでは、反復や雑音(ノイズ)も恐れない。
大切なことは効率的な情報伝達ではなく、「時間をかけて言葉と仲良くなる」こと。詩情はそうした言葉たちによってもたらされる。

『星の王子さま』では、同じ言葉や表現が何度も繰り返される。

砂漠の中でパイロットが不時着した場所は、「人の住む土地から1000マイルも離れたところ」と表現される。
もしこの言葉が現実を意味し、読者に情報を伝達する役割だけを担っているのであれば、情報が伝わった時点で無用になる。繰り返されれば、それは重複であり、冗長表現だとみなされる。
しかし、サン・テグジュペリはこの表現を、枕詞のように何度も繰り返す。

反復で最も目につくのは、王子さまが話相手の言葉を言い直すときだ。
例えば、地理学者が「花ははかないから」と言うと、王子さまは、「はかない、ってどういう意味?」という問いを何度も投げかける。
そのことによって、王子さまの言葉が質問の内容を超え、表現自体として意味を持ち始める。

『星の王子さま』の中で最も有名な表現も同じように反復され、読者の心に留まる。キツネは王子さまと別れる前に秘密を告げる。

 「さようなら。」とキツネは言った。「じゃ、秘密を言うよ。簡単なことなんだ。——— ものは心で見る。肝心なことは目では見えない。」
 「肝心なことは目では見えない。」と王子さまは忘れないために繰り返した。

「肝心なことは目では見えない。」という言葉は、ここだけではなく、その後も繰り返し使われ、読者にとって忘れられない言葉になっていく。

このように、言葉が他の言葉との普通のつながりを離れ、それ自体で立ち上がるようになると、今度は、ものごとに新しいつながりを作り出すことも可能になる。
それが最も典型的に現れているのは、砂漠の中の井戸の場面。
広大な砂漠の中でいきあたりばったりに井戸を探しに出た王子さまと「ぼく」は、最後に井戸までたどりつく。その井戸は、サハラ砂漠でよく見られる砂に掘った穴ではなく、フランスの村にあるような井戸で、滑車や桶や綱がついている。王子さまはその井戸から水を汲む。その時、滑車がきしんで音を立てる。

「聞いた?」と王子さまはぼくに言った。「ぼくたちが起こしてやったから、井戸が歌っているよ。」

ここには新しい世界が誕生している。井戸は水を汲むためにあり、水を飲むことができれば、それで役割を終えるはずである。しかし、王子さまは、「井戸が歌う」のを聞く。井戸が歌うというこの表現は、論理的ではない。井戸という名詞と、歌うという動詞のつながりは、普通の言葉遣いとしては「間違っている」。しかし、普段のつながりを断ち切り、新しい絆を作ることで、新しい世界観を誕生させることができる。この井戸からは、瑞々しい感性に基づいた、生まれたばかりの詩情が溢れ出している。

こうした詩情はさらに反復され、王子さまの世界に詩的な印象を与える。王子さまは、彼が消え去ってしまうのではないかと不安がる「ぼく」に向かってこう言う。

 「大事なことは目ではみえない。。。」
 「知ってるよ」
 「花のときとおんなじだよ。どこかの星に咲いている花が好きになったら、夜の空を見ることが嬉しくなる。ぜんぶの星に花が咲く。」
 「知ってるよ」
 「水のときとおんなじだよ。きみが滑車と綱を鳴らしてくれたおかげで。。。きみのくれた水は音楽のようだった。。。覚えているだろ、とてもおいしかった。」
 「知ってるよ。」

3度繰り返される「知ってるよ。」という返事が王子さまの言葉にリズムを与える。その一方で、王子さまは、新しく出来上がった世界を美しく描く。
星に花が咲く。水が歌い、音楽になる。この会話は、星の王子さまの詩的文体をもっともはっきりと感じさせてくれるものの一つである。

多くの大人は、王子さまが言うように、何を探しているのかわからないまま急いでいるし、自分がいる場所に満足できずにいる。あるいは、パイロットのように、本当のことを話せる相手に出会わないまま過ごしていると感じているかもしれない。
実は、そう感じている大人はまだ救われる。というのも、「何か」を求めているのだから。

『星の王子さま』は、その何かを教えてくれる書物だといえる。
キツネから王子さまに、王子さまから「ぼく」に伝えられた教えを通して、私たち読者も、時には夜空を見上げ、「星の聞く」ようになる。


『星の王子さま』は、ペローからグリムを通してアンデルセンにつながる教訓を含んだ児童文学の基本形と、大人の常識を問い直すルイス・キャロル的な思想が調和し、文学的に結晶化した、二つの系列の児童文学の集大成だといってもいいだろう。

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