日本語の音楽を聴く

音のない言葉を考えることはできない。
声に出して話したり読んだりする時だけではなく、頭の中で何かを考える時にも音があり、それらの音の繋がるリズムを感じている。

日本語を母語とする者にとっては、5/7を基本とするリズムがごく自然に心地よく感じられる。

ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ(紀友則)

私の上に 降る雪は/真綿(まわた)のやうで ありました(中原中也)

これらの言葉の魅力は、意味だけではなく、口調の良さによってももたらされている。
言葉たちが音楽を奏で、私たちはその音楽に耳を傾けて、うっとりするといってもいいだろう。

言葉が奏でる音楽は、和歌や俳句、詩だけではなく、散文に関しても同じ効果を上げる。
さらに言えば、散文では、5/7の組み合わせに、4や8といった偶数の拍を交え、より変化のあるリズムを作り出すこともある。

古典の名作として現在まで愛され続けている作品は、そうした音楽性の素晴らしさによる部分も大変に大きい。

ここでは、心地よい音楽性を感じるため、内容以上にリズム感を意識して、日本語の美を満喫してみたい。


平安時代を代表する二人の作家の文章。

春は曙。やうやう白くなりゆく、山ぎは すこし明かりて、紫だちたる雲の ほそくたなびきたる。
秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端(は) いと近こうなりたるに、烏(からす)の 寝どころへ行くとて、三つ四つ 二つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。(後略)(清少納言)

いづれの御時(おんとき)にか、女御(にょうご)・更衣(こうい) あまた さぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり。(紫式部)

鎌倉時代の弾き語りと随筆

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常(しょじょうむじょう)の響きあり
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色 盛者必衰(せいじゃひっすい)の理(り)をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ 偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ(『平家物語』)

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と 栖(すみか)と、又かくのごとし。(鴨長明)

つれづれなるまゝに、日くらし硯(すずり)に向かひて、心にうつりゆく よしなしごとを そこはかとなく 書き付くれば、あやしうこそ 物狂ほしけれ。(吉田兼好)

室町時代

秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず、となり。
この分け目を知ること、肝要の花なり。(世阿弥)

江戸時代

行く春や 鳥啼(な)き魚(うお)の 目は泪(なみだ) (松尾芭蕉)

月日は百代の過客(かかく)にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず(後略)。(松尾芭蕉)

芭蕉の散文は、俳句の精神性と音楽性を兼ね備えている。

明治時代

山道(やまみち)を登りながら、こう考えた。
智(ち)に働けば角が立つ。情に棹(さお)差せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。(夏目漱石)

漱石は、イギリス文学以上に、江戸時代の文学や漢詩に親しみ、和と洋のバランスの中で創作活動を行った。その影響は、文章のリズムや音楽性にも感じられる。

大正時代・昭和時代

或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所所丹塗(にぬり)の剥げた、大きな円柱(えんばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。(芥川龍之介)

あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖(ふすま)をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。(太宰治)

芥川の端切れのよさと太宰のまとわりつくような言葉は対照的に思われるが、流れるような文章という意味では共通している。

最後に、近年の日本で、文章の達人として知られていた石川淳の文章。
とにかく長く、複雑。しかし、江戸文学とヨーロッパ、とりわけフランス文学の素養を十分に摘んだ作家の技は、マルセル・プルーストの複雑に入り組んだ文と比較できるほど。

わたしは・・・・・ある老女のことから書き始めるつもりでいたのだが、いざとなると老女の姿が前面に浮かんで来る代わりに、わたしはわたしはと、ペンの尖が堰(せき)の口ででもあるかのようにわたしという溜まり水が際限もなくあふれ出そうな気がするのは一応わたしが自分のことではちりれそうになっているからだと思われもするけれど、じつは第一行から石の推しがきかないほどおよそ意志などのない混乱におちいっている証拠かもしれないし、あるいは単に事物を正確にあらわそうとする努力をよくしえないほど懶惰(らんだ)なのだということかも知れない。(石川淳『佳人』)



フランス語の詩句では、6/6のリズムが基本となる。そのために、かっちりとし安定したリズムが好まれる。

その前提に立ち、ヴェルレーヌは、奇数の音節を持った詩句の音楽性を強調した。

何よりも先に、音楽を。
そのために、奇数を好むこと。
おぼろげで、大気に溶け込みやすく、
奇数の中には、重さも、固定した感じもない。(「詩法」)
https://bohemegalante.com/2019/06/16/verlaine-art-poetique/

このように、ヴェルレーヌの感性は、音楽を奏でるために、奇数の音節を持った詩句を好んだ。
そのことは、5/7の拍に基づく日本語の音楽性との関係で、とても興味深い。

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