
『赤と黒』で知られるスタンダールは、常に「幸福」を追求し続けた。
実際の人生の中でも、小説の中でも、自伝、旅行記、絵画や音楽に関する批評の中でも、彼は幸福の味を探し求めた。
幸福の追求において、彼が最もこだわったのは「恋愛」だった。『赤と黒』『パルムの僧院』においても、恋愛心理の分析が驚くほど緻密に行われ、説得力を持って語られている。

そうしたスタンダールの恋愛理論の中で、とりわけよく知られているのが、恋愛感情が生まれる時に発生する「結晶化作用(cristallisation)」。
「ザルツブルクの小枝」の比喩は、誰もが一度は耳にしているかもしれない。
葉の落ちた木の枝を、塩を採集していた坑道の奥深くに投げ込む。しばらくして引き出してみると、枯れ枝にキラキラと輝く結晶が付いている。
恋愛の初期には、それと同じ結晶作用が起こり、愛する対象が美しく見える。
スタンダールが1821年に出版した『恋愛論(De l’Amour)』の中で、「恋愛の結晶作用」がどのように語られているのか、フランス語で読んでみることにしよう。

スタンダールは、1818年、35歳の時、ミラノに滞在中に、ヴィスコンティーニ家出身のマチルダ・デンボウスキーに激しい恋心を抱いた。
しかし、3年間続いたその恋が報われることはなく、スタンダールは彼女に向け、恋愛によって彼がどのような感情を味わったのか伝えるために、『恋愛論』を執筆し始めたと言われている。
その際、彼は自分自身の恋愛感情を分析するにあたり、古今東西の様々な文献を参照した上で、科学的な視点を導入した。さらに、観念や知識の起源と発達を実証的に研究しようとした思想家たち(イデオローグ)の影響の下、人間の精神や感情は生理学で説明されると考え、恋愛の示す微妙な感情を、個人の気質、気候、政治制度や教育と関連付け、幅広い考察を行った。
『恋愛論』の中で、「恋愛の誕生」は、次の段階で説明される。
1)賞賛(admiration)。
2)次のように思うこと。口づけできたら、口づけを受けられたら、どんなに嬉しいだろう!(On se dit : Quel plaisir de lui donner des baisers, d’en recevoir, etc. ! )
3)希望(espérance)。(略)
4)恋愛が誕生した(l’amour est né.)。(略)
5)第1の結晶化の始まり。(La première cristallisation commence.)
On se plaît à orner de mille perfections une femme de laquelle on est sûr ; on se détaille tout son bonheur avec une complaisance infinie. Cela se réduit à exagérer une propriété superbe, qui vient de nous tomber du ciel, que l’on ne connaît pas, et de la possession de laquelle on est assuré.
(ここではあえて、 « On »を「人」という日本語で置き換えることにする。)
人は、自分が(相手の愛を)確かだと思える女性を、数多くの完全さ(美点)で飾るのを楽しいと思う。人は、自分の幸福全体を、無限の喜びを持って自らにこまごまと語る。そのことは結局、素晴らしい所有物(愛する女性の美点)を誇張することになる。その所有物は、今しがた空から私たちのもとに落ちて来たのであり、それについて知らないのだが、それを所有していることは確信している。
A. 一般論
「人(on)」が主語になっていることは、ここで記されていることが、一般論であることを示している。
さらに、恋愛の対象となる女性も、「ある一人の女性(une femme)」と不定冠詞で示され、誰か特定の女性ではなく、一般論として語られる。
動詞が現在形に置かれていることも、著者の個人的な体験談ではなく、普遍的な考察であるという印象を与える。
B. 愛することと愛されることの相互作用
次に注目したいことは、結晶化が始まるのは、「自分が(相手の愛を)確かだと思える女性(une femme de laquelle on est sûr)」に対してだということ。
逆に言えば、相手から愛されていると確信できない時には、相手を美化する作用は起こらない。少なくとも、スタンダールの言葉を読む限り、そのように書かれている。
この点は議論が分かれるかもしれない。
例えばストーカーは勝手に恋愛感情を抱き、相手の気持ちとは関係なしに付きまとうように思われる。
しかし、一瞬でも希望がないとき、そうしたことは起こるだろうか?
ストーカーの空想の中だけかもしれないが、相手から愛されるという何らかの希望が感じられた時、強い愛着が生まれたのではないか。
そのように考えると、「愛する」行為の裏側には、「愛される」希望あるいは確信が潜んでいることがわかってくる。
「自分が(相手の愛を)確かだと思える(on est sûr)」とスタンダールが書く時、恋愛感情の成立のためには、「主体と対象の相互作用」が必要であることを意識していたに違いない。
C. 恋愛の結果
相手の愛が確信できる、つまり愛した相手から愛されていることが確信できると、2つのことが起こる。
(1)愛する人間は、自分の「幸福全体(tout son bonheur)」を感じ、それを「細々と自らに語る(on se détaille)」。
(2)愛する相手の美点を数多く考え、彼女の素晴らしさを「誇張する(exagérer)」ようになる。
ここでスタンダールが愛する女性に対して、「一つの所有物(une propriété)」という言葉を使っていることは、現代では違和感がある。
この点については、時間性を考慮する必要がある。
彼は決して女性を物として扱っているわけではなく、その言葉を使うことで、愛する女性から愛されているという「確信」を無意識に表現している。
だからこそ、恋愛が始まったばかりにおいて、愛する女性は天からの賜のように感じられ、まだよく知らないのだけれど、しかし、「所有( possession)」していることは「確か(assuré)」だと感じているのである。
そして、彼女を「知らない( l’on ne connaît pas)」からこそ、結晶化作用が作動する。
以上のような一般論が展開された後、結晶化の具体的な姿が描かれる。
Laissez travailler la tête d’un amant pendant vingt-quatre heures, et voici ce que vous trouverez :
Aux mines de sel de Salzbourg, on jette dans les profondeurs abandonnées de la mine un rameau d’arbre effeuillé par l’hiver ; deux ou trois mois après, on le retire couvert de cristallisations brillantes : les plus petites branches, celles qui ne sont pas plus grosses que la taille d’une mésange, sont garnies d’une infinité de diamants mobiles et éblouissants ; on ne peut plus reconnaître le rameau primitif.
恋する男の頭を24時間の間、働かせておこう。すると、見えてくるものがある。
ザルツブルクの塩鉱山で、人が、うち捨てられた深い穴の中に、冬に葉の落ちた木の枝を投げ入れる。2, 3ヶ月後、人がそれを引き抜くと、輝く結晶で覆われている。最も小さな枝、シジュウカラの身体よりも大きいとはいえない枝が、キラキラと眩しい無数のダイヤモンドで覆われている。人はもうそれが最初の枝だとは思えない。
A. 比喩の提示法
ここでも「人(on )」が主語になり、動詞の現在形が使われていることで、一般論として語られていることがわかる。
その上で、二人称複数(vous)で活用される動詞(laissez, trouverez)によって、あたかも読者に対して呼びかけるような語り方がなされている。
そのことで、ザルツブルクの塩炭鉱の穴の中に投げ込まれる枯れ枝が、生き生きと見えてくる。
B. 化学で心理を説明する
愛する相手を美化する心理的な作用が、塩の採掘所の洞穴に投げ込まれる枯れ枝に美しい結晶が付く化学反応によって描かれる。
そのことは、恋愛感情を、実証的な科学精神によって解明することでもある。
心理と化学の並行関係は、言葉の上からも確認できる。
結晶化の対象 :une femme — un rameau d’arbre
時間 :vingt-quatre heures — deux ou trois mois
結果 :orner de mille perfections, exagérer — cristallisations brillantes, une infinité de diamants mobiles et éblouissants.

C. 美意識
枯れ枝がそれとわからないほど美しくなっているという指摘は、結晶作用の結果が対象の「美化」と繋がっていくことを示している。
「完璧さ(perfections)」、「光輝く結晶化(cristallisations brillantes)」、「キラキラと眩しい無数のダイヤモンド(une infinité de diamants mobiles et éblouissants)」といった表現を目にした読者は、知らず知らずのうちに、恋愛が美の体験であると説得されてしまう。
日本の読者には、「あばたもえくぼ」という日本の表現と同じことだと思われるかもしれない。しかし、「ザルツブルクの小枝」の比喩は、恋愛と美の関係をよりはっきりと表現している。
そのことは、スタンダールが、オペラや絵画の体験を通して「幸福」を探し求めたことにもつながり、「えくぼ」と言っただけでは伝えきれない世界観を示している。
Ce phénomène, que je me permets d’appeler la cristallisation, vient de la nature qui nous commande d’avoir du plaisir et qui nous envoie le sang au cerveau, du sentiment que les plaisirs augmentent avec les perfections de l’objet aimé, et de l’idée : elle est à moi.
私がここであえて結晶化と呼ぶ現象は、私たちに喜びを持つように命令し、私たちの頭に血を上らせる自然な傾向に由来する。また、喜びは愛する人の素晴らしさとともに増大すると感じることにも由来する。そして、「彼女は私のものだ。」という思いに由来する。
ここでスタンダールは、「私(je)」という代名詞を使い、結晶化作用がどうして起こるのか、3つの原因を提示している。
そこで強調するのは、結晶化が自然現象だという点。結晶化は人為的に行われるのではなく、恋愛の発生時に自然に起こるということが前提となる。
結晶化の原因は、まず最初に、私たちは自然に「喜び(plaisirs)」を感じたいと望み、喜びを感じる時には、「頭に血が上る(le sang au cerveau)」ことによる。
これは、自然現象、より正確に言えば、生理学的な現象だといえる。
次は、感情のレベル。
相手の美点が多くなればなるほど、相手が美しいと思えば思うほど、喜びも大きくなる。美化されることで、幸福も増大する。
そうした感情があるからこそ、結晶化が行われる。
最後は、思考のレベル。
スタンダールは、ナポレオンのイタリア遠征やロシア遠征に参加した経験があり、戦いや征服という思いに強く捕らわれていた。
それは、恋愛にも通じ、相手を征服すること、つまり愛する人が自分のものだと思うことは、彼の中に多くの快楽物質を湧き上がらせたに違いない。
「彼女は私のものだ。(elle est à moi.)」
従って、この思いが、結晶化作用を誘発すると彼が考えたとしても不思議ではない。
このように、スタンダールは、結晶化の原因を、生理学、感情、思考の三段階に分類して説明する。
恋愛の結晶化作用に関するスタンダールの説明は凝縮され、要点だけが明確に表現されている。そのリズムにつられてさっと読み、理解したつもりになってしまうと、好きな相手を美化するといったありきたりの話だと思ってしまう。
しかし、一つ一つの言葉を丁寧に読み進むと、スタンダールが恋愛の心理を思いつきで語るのではなく、経験論的な思想に基づき、生理学的な側面から始め、最終的には恋愛とは彼の幸福術の一つであり、それが彼の美意識と結びついていることがわかってくる。
スタンダールにおいて、恋愛は幸福術でもあり、美学でもあった。「恋愛の結晶化」を巡る短い一節は、その原理の理解へと私たちを導いてくれる。
「スタンダール 『恋愛論』 結晶化作用 恋愛の生理学から恋愛の美学へ」への1件のフィードバック