ヴィクトル・ユゴー オランピオの悲しみ Victor Hugo Tristesse d’Olympio ロマン主義の詩を味わう 5/5

第29詩節に至り、神の存在に言及され、神こそが全てを統括しているような印象を与える詩句から始まる。
ちなみに、これ以降の詩節では、基本的に動詞は現在形に置かれ、過去の出来事の思い出ではなく、時間の経過とともに全てが消滅してしまうことに関する考察が展開されていく。

« Dieu nous prête un moment // les prés et les fontaines,
Les grands bois frissonnants, // les rocs profonds et sourds
Et les cieux azurés // et les lacs et les plaines,
Pour y mettre nos coeurs, // nos rêves, nos amours ;

« Puis il nous les retire. // Il souffle notre flamme ;
Il plonge dans la nuit // l’antre où nous rayonnons ;
Et dit à la vallée, // où s’imprima notre âme,
D’effacer notre trace // et d’oublier nos noms.

(朗読は、8分56秒から)

神は私たちに貸してくれる、一時の間、牧場と泉を、
震える巨大な森を、耳を閉ざした深い岩を、
真っ青な空を、湖を、草原を、
そこに私たちの心を、夢を、愛を収めるために。

次いで、神は私たちからそれらを取り上げる。私たちの炎を吹き消す。
夜の中に洞窟を沈めてしまう、そこで私たちが光輝いているのに。
そして、谷に言う、私たちの魂が彫り込まれている谷に、
私たちの痕跡を消し去り、私たちの名前を忘れろ、と。

自然の中に私たちの「心(cœurs)」や「夢(rêves)」や「愛(amours)」を読み取ることができるのは、「神(Dieu)」が自然を私たちに「貸してくれる(Dieu nous prête)」からだという。

しかし、それは「一瞬(un moment)」のことに過ぎず、次の瞬間には、神は貸したものを、「私たちから取り上げてしまう(Dieu nous retire)」。

自然の一つの様相である「谷(la vallée)」に、「私たちの魂が彫り込まれた(notre âme s’imprima)」のは、今から切り離された過去の時間帯。第11詩節では、「私たちの名前の頭文字を組み合わせた文字だったあの木(L’arbre où fut notre chiffre)」と表現されていた。
その「痕跡(trace)」を「消し去り(efface)」、名前も残らないようにするようにと、神は自然に命じる。

ここでオランピオはキリスト教の神を意味する« Dieu »という言葉を使っているが、ユゴーはキリスト教の信仰よりも、人間を含む「全て」を神的存在と見なす思想の持ち主だったと考えられている。
では、なぜここで« Dieu »があたかも全能の支配者のように描かれるのか?


第31−32詩節では、その疑問に対する答えを、こっそりと明かしてくれる。

« Eh bien ! / oubliez-nous, // maison, / jardin, / ombrages !
Herbe, / use notre seuil ! // ronce, / cache nos pas !
Chantez, / oiseaux ! / ruisseaux, // coulez ! / croissez, / feuillages !
Ceux que vous oubliez // ne vous oublieront pas.

« Car vous êtes pour nous // l’ombre de l’amour même !
Vous êtes l’oasis // qu’on rencontre en chemin !
Vous êtes, / ô vallon, // la retraite suprême
Où nous avons pleuré // nous tenant par la main !

そうだ! 私たちを忘れろ、家よ、庭よ、木陰たちよ!
草よ、敷居をすり減らせ! キイチゴよ、私たちの足元を隠せ!
歌え、鳥たちよ! 小川たちよ、流れよ! 大きくなれ、木々の葉よ!
お前たちが忘れる者たちは、お前たちを忘れはしない。

なぜと言って、お前たちは私たちにとって、愛の影なのだ!
お前たちはオアシスだ、歩みの途中で出会う!
お前たちは、おお、谷間よ! 崇高な隠れ家なのだ、
そこで私たちは涙した、手に手を取り合い!

ここでは、あたかも神に代わるかのように、オランピオが自然に命令する。
その際、自然は様々な姿で名指される。「家(maison)」「庭(jardin)」「木陰(ombrages)」「草(herbe)」「キイチゴ(ronce)」「鳥(oiseaux)」「小川(ruisseaux)」「木の葉(feuiilages)」。

その命令が告げられる第31詩節の最初の3行は、12音節の詩句が6/6と規則的に区切られるだけではなく、6音節の中も細かく区切られ、非常にテンポがよく、リズミカルに進んでいく。
その勢いのよさは、詩人が息せき切って神に挑戦している様子を感じさせる。
神が人間と自然の交感を消すのであれば、そうしてみろ、という挑戦。

そして、4行目で、自然が人間を忘れるとしても、人間の方では自然を「忘れないだろう(ne vous oublieront pas.)」と、6/6の落ち着いたリズムで言い放つ。

第31詩節は、「なぜと言って(car)」で始まり、自然を忘れない理由が語られる。
その理由を一言で言えば、自然が「愛の影(l’ombre de l’amour)」だから。

「手に手を取り合い(nous tenant par la main)」、「私たちが涙した(nous avons pleuré)」場所は、「オアシス(oasis)」であり、「崇高な隠れ家(la retraite suprême)」に他ならない。
その痕跡は、神の命令にもかかわらず、決して消え去りはしないと、詩人は断言する。
詩人にとって、「愛(amour)」は神よりも強い。


第33-34詩節では、いつかは消え去る全ての情念の中に、一つだけ例外があることが歌われる。

« Toutes les passions // s’éloignent avec l’âge,
L’une emportant son masque // et l’autre son couteau,
Comme un essaim chantant // d’histrions en voyage
Dont le groupe décroît // derrière le coteau.

« Mais toi, / rien ne t’efface, // amour ! / toi qui nous charmes,
Toi qui, / torche ou flambeau, // luis dans notre brouillard !
Tu nous tiens par la joie, // et surtout par les larmes.
Jeune homme / on te maudit, // on t’adore / vieillard.

あらゆる情念が、年とともに遠ざかっていく。
一つの情念はその仮面を持ち去り、別の情念はナイフを持ち去る、
ちょうど、旅芸人たちの、歌う群れの様に、
その集団は小さくなっていく、丘の後ろに隠れ。

しかし、お前を、何ものも消し去りはしない、愛よ! 私たちを魅了するお前、
お前は、松明か炎、私たちを包む靄の中で輝く!
お前は、私たちを捉える、喜びによって、そして、とりわけ涙によって。
若い者であれば、お前を呪う、老人であれば、お前を熱愛する。

「情念(passions)」は年を取るに従い、小さくなっていく。オランピオはその様子を、町から町へと渡り歩く旅芸人たちの一団に喩える。
芝居が行われている間、町は華やかだが、しかし必ず旅芸人たちは去っていく。

人生も一場の芝居だと考えると、一つの情念が消滅する時には、イタリアの仮面劇(コメディア・デ・ラルテ)のような仮面が同時に消え去るかもしれないし、別の情念には人間を傷つけるナイフのようなものがあり、その情念が消えれば、ナイフも消滅する。

しかし、消えないものがあると、詩人は大きな声を上げる。そして、「愛(amour)」に対して、「お前(toi)」と何度も呼びかける。
若い時には、人は愛に苦しみ、愛を呪うかもしれない。
だが、老年になれば、愛を熱愛する。愛は闇の中で輝く光であり、喜びだけではなく、悲しみの涙ももたらす。それら全てが生の証であり、若い時にはわからなかったその意味を、年老いた時には痛感する。


第35-38詩節は最後の句読点まで、一続きの文で構成されている。最初の詩節は、目に見える現象の確認。それに対して、続く3つの詩節は、目に見えない動きが描かれる。
そして、「オランピオの悲しみ」を終える最後の詩句の最後に、この詩の中で核心をなす言葉が発せられる。

Dans ces jours où / la tête // au poids des ans s’incline,
Où l’homme, / sans projets, // sans but, sans visions,
Sent qu’il n’est déjà plus // qu’une tombe en ruine
Où gisent ses vertus // et ses illusions ;

Quand notre âme en rêvant // descend dans nos entrailles,
Comptant dans notre cœur, // qu’enfin la glace atteint,
Comme on compte les morts // sur un champ de batailles,
Chaque douleur tombée // et chaque songe éteint,

« Comme quelqu’un qui cherche // en tenant une lampe,
Loin des objets réels, // loin du monde rieur,
Elle arrive à pas lents // par une obscure rampe
Jusqu’au fond désolé // du gouffre intérieur ;

« Et là, / dans cette nuit // qu’aucun rayon n’étoile,
L’âme, / en un repli sombre // où tout semble finir,
Sent quelque chose encor // palpiter sous un voile…
C’est toi qui dors dans l’ombre, // ô sacré souvenir ! »

年齢の重みで頭が垂れ下がる日々、
人間が、計画も、目的も、将来の見通しもなく、
自分はもうすでに廃墟になり、
美徳や幻滅が横たわる墓場にすぎないと感じる日々、

私たちの魂が、夢見がちに、臓腑へと下る時、
最後は氷が到達することになる私たちの心臓の中で、数えながら、
ちょうど、戦場で死者の数を数えるように、
それぞれの突然襲う苦痛や、それぞれの消え去った夢を、

誰かが、ランプを手に持ち、探すように、
現実の事物から遠く離れて、微笑む世界から遠く離れて、
私たちの魂は、ゆっくりとした足取りで、暗い坂道を通り、
内的な深淵の、荒れ果てた奥底まで到達する、

そこで、どんな光も照らすことのないその夜の中、
魂は、全てが終わるように見える暗い隠れ家で、
何かが、まだ、ヴェールの下で鼓動しているのを感じる・・・
お前だ、闇の中で眠るのは、聖なる思い出よ!」

現実においては、時間が流れ、全ては消滅してしまう。そうした現実を前にして、人間は無力さを感じ、自分が墓場、しかも廃墟になった墓場でしかないと感じる。
ここまで、過去の愛を思い出させてくれるものが何も残っていないと確認してきた後では、第35詩節の嘆きが説得力を持つ。

そうした状況の中で、「私たちの魂(notre âme)」は、夢見がちに、「私たちの内蔵(nos entrailles)」の中に下って行く。
現代の私たちにとって魂と臓腑の関係はわかりにくいが、19世紀には、人間の心理と肉体の関係を科学的に研究する中で、魂が人間の肉体のどこに存在するのかという議論があった。その中で、魂は自然界のある種の力であり、脳の中にある考える人々もいれば、脊髄に位置すると考える人々もいた。(エドワード・S・リード『魂から心へ 心理学の誕生』講談社学術文庫)

ユゴーも、魂をなんらかの心的生命と見なし、身体の中を動く磁気のようなものとして捉えたのだろう。
「心臓(notre cœur)」は「最後は氷に捉えられ(enfin la glace atteint)」、人間は死の時を迎えることになる。そして、その間にも、魂は「突然襲う苦痛(douleur tombée)」や「消え去った夢(songe éteint)」を一瞬毎に数えている。

そうした生の中で、私たちの魂は、現実の事象を離れ、「内的な深淵(gouffre intérieur)」の「奥底(fond)」にまで下っていく。
「内的」というのは、人間の内部にあるという意味で、内面世界と考えていいだろう。

最終詩節では、その「深淵(gouffre)」に焦点が当てられる。
その際、魂に関して、これまでの「私たちの魂(notre âme)」ではなく、定冠詞により一般化された「魂というもの」と変化が起こり、オランピオが自己の体験から普遍的な考察を導こうとしていることが見えてくる。

まず、「深淵=内面」は、「どんな光も照らすことのない夜(nuit qu’aucun rayon n’étoile)」の世界であり、その「暗い隠れ家(un repli sombre)」の中では、「全てが終わるように見える (tout semble finir)」。

その中で、「魂が感じる(l’âme (…) sent)」ことがある。闇の中、「ヴェール(un voile)」の下で、何かが「鼓動している(palpiter)」。つまり、死の世界の中でさえ、魂は何かが生きているのを感じる。
その何かとは、「聖なる思い出(sacré souvenir)」に他ならない。

「お前だ、闇の中で眠るのは、聖なる思い出よ! (C’est toi qui dors dans l’ombre, // ô sacré souvenir ! )」
この感嘆は、全てを消し去る時間に対して、思い出は保たれ続けるという確認というよりも、保たれ続けて欲しいというオランピオの強い願いの表現と考えることもできる。
その熱望から、この詩句の強い抒情性が生み出されてくる。


自然は美しい姿を見せていたが、そこには過去に彼女と愛し合った痕跡が残っていない。時間の経過は全てを押し流してしまう。それがオランピオの悲しみの原因だった。

しかし、死の最後にいたり、「思い出(souvenir)」は消え去ることがなく、闇の中でも生命の鼓動が続いているという確認が行われる。
自然は忘れるとしても、魂が内的な深淵の中に下りていけば、思い出が鼓動している。そこには永遠がある。

とすれば、「悲しみ(tristesse)」は、内面に眠る思い出に向かうためのきっかけであり、詩人の目を内面に向けさせる役目を果たしている。
「無感動な自然(nature impassible)」は「思い出」を保っていないと悲しく嘆くことからロマン主義的な抒情性が生まれるが、ユゴーの詩は、その抒情性の最深部には「思い出」が生の鼓動を響かせていることを教えてくれる。
だからこそ、オランピオにとって、思い出は、「神(Dieu)」の命令でも消し去ることができない「聖なるもの(sacré)」なのだ。

ヴィクトル・ユゴーは、ロマン主義的創造主として、どんなに暗い闇の中でも光の存在を疑うことなく、彼の魂は微かな光源に向かって進んでいく。
「オランピオの悲しみ」は、その光源を思い出という生命のエネルギーとして歌った詩といえるだろう。


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