ボードレール 「虚無の味」 Baudelaire Le Goût du néant 無の中の動

19世紀の後半、フランス文学の中で、「虚無(néant)」という言葉が独特の魅力を帯びるようになる。そのことは、古代ギリシアから続く価値観になんらかの変化が起こりつつあったことを示している。

ヨーロッパ文化の中で、古代ギリシア以来、肯定的な価値を持つのは、「存在(être)」であり、「全(tout)」や「生(vie)」などの概念だった。他方、その対極にある「無(rien)」や「空(vide)」といった概念は、否定的に捉えられてきた。

ボードレールは、1859年に発表した詩の題名を、« Le Goût du néant »とした。
« goût »という単語は本来「味わう行為」や「味」を意味し、そこから、味わう物に対する「好み」を意味するようにもなった。
さらには、« bon goût »(よき趣味)という使用法からも伺えるように、美学的なセンスを含意することもある。
従って、詩の題名は、「虚無の味」というだけではなく、「虚無に対する好み」、あるいは「虚無を美的に捉えるセンス」という意味に理解することもできる。
そのように理解した場合には、ボードレールが「虚無」に美的な価値を与えたとも考えられる。

私たち日本の読者にとって興味深いのは、東洋の文化において「無の思想」は馴染み深いものであり、「虚無の味」をフランス人よりも抵抗なく味わうことができる可能性があることである。
つまり、ヨーロッパ的な感性では否定的としか見なされない状態を「ゼロ」と見なし、そのゼロ地点を「創造の源」として捉える視点を提示できるのではないか。
そんな可能性を意識しながら、« Le Goût du néant »を読んでみよう。

詩は全部で15行で構成され、4行+1行で構成される3つの詩節から成る。
韻は詩全体を通して« u »と« eur »という2つしかなく、しかも« u »には« t »が、« eur »の前には« d »が必ず付随し、単調な韻の音が連続する。

Morne esprit, autrefois amoureux de la lutte,
L’Espoir, dont l’éperon attisait ton ardeur,
Ne veut plus t’enfourcher ! Couche-toi sans pudeur,
Vieux cheval dont le pied à chaque obstacle butte.

Résigne-toi, mon cœur ; dors ton sommeil de brute.

かつては戦さを愛していた、どんよりとした精神よ、
「希望」は、その拍車がお前の熱意を掻き立てたものだったが、
今ではもうお前に跨がろうとはしない!慎みもなく 横たわれ、
年老いた馬よ、お前の足は障害物がある度にけつまずく。

諦めろ、俺の心よ。眠れ、お前の野獣を眠りを。

「かつて(autrefois)」という言葉や、「掻き立てた(attisait)」という動詞の半過去形によって、精神の過去の状態が示される。
その時代には、「戦い(lutte)」を好み、「熱意(ardeur)」が「希望(Espoir)」によって掻き立てられていた。
かつては、活力や能動性、生の脈動が感じられた。

それに対して、「今」は「どんよりとした(morne)」という形容詞で端的に表現される、不活発な時として示される。
かつては「希望」が馬に乗るかのように精神に「跨がった(enfourcher)」が、今ではもうそうはしない。精神という「馬(cheval)」は「年老い(vieux)」、「障害物(obstacle)」がある度に、「ぶつかり、つまずく(butte)」。
詩人は、その年老い、どんよりとした精神に向かい、「横たわれ。」と命じる。

そして、5行目に至り、「精神(esprit)」を「心(cœur)」と言い換え、自分の心に向かい、「諦める(résigne-toi)」こと、そして「眠る(dors)」ことを命じる。
その眠りは、かつての「獣性(brute)」を眠らせることでもある。

このようにして、この第1詩節では、過去における生命の脈動が、現在において消失する方向性が示される。

autrefoismaintenant
la lutte
l’éperon de l’Espoir attisait ton ardeur

brute

Morne esprit
vieux cheval

L’Espoir ne veut plus t’enfourcher
le pied du cheval butte à chaque obstacle

couche-toi
Résigne-toi
dors ton sommeil de brute

Esprit vaincu, fourbu ! Pour toi, vieux maraudeur,
L’amour n’a plus de goût, non plus que la dispute ;
Adieu donc, chants du cuivre et soupirs de la flûte !
Plaisirs, ne tentez plus un coeur sombre et boudeur !

Le Printemps adorable a perdu son odeur !

打ち負かされ、へとへとになった精神よ! 年老いた盗人であるお前にとって、
もはや愛には味がない、争いに味がないほどに。
さらば、管楽器の歌たちよ、フルートのため息よ!
喜びたちよ、仏頂面をした暗い心をもう誘惑するな!

愛しい春が、その香りを失ってしまったのだ!

第2詩節には、題名に含まれる « goût »(味、好み、趣味)という単語が出てくる。
この « goût »こそが、生のエネルギーの源であり、今では« amour »(愛)も« la dispute »(争い)からも味が失われている。
そのことは、この詩節の最後で、「愛しい春が、その香りを失ってしまったのだ!」という嘆きによって確認され、強調される。

その結果、現在、精神は、「打ち負かされ(vaincu)」、「疲れ果て( fourbu)」と形容され、「(年老いた盗人(vieux maraudeur )」と見なされる。
「心(cœur)」も、「暗く(sombre)」、「仏頂面をしている(boudeur)」。
「管楽器(cuivre)」と「フルート(flûte)」に代表される音楽にも別れを告げ、「喜び(plaisirs)」が心を喜ばすことがないことを念じる。

このように見てくると、「失った(perdu)」結果、全てから« goût »が消え去り、喜びに心を動かさなくなる、という過程が理解できる。

autrefoismaintenant
goût
chants du cuivre, soupirs de la flûte
plaisirs

le printemps adorable, son odeur
esprit vaincu, fourbu
vieux maraudeur
un cœur sombre et boudeur

adieux
ne tentez plus

pas de goût

Et le Temps m’engloutit minute par minute,
Comme la neige immense un corps pris de roideur ;
— Je contemple d’en haut le globe en sa rondeur
Et je n’y cherche plus l’abri d’une cahute.

Avalanche, veux-tu m’emporter dans ta chute ?

そして、「時」が一分毎に私を飲み込んでいく。
巨大な雪が、硬くなった体を飲み込むように。
——— 私は高みから丸い地球を見つめる。
しかし、もはや、山小屋の避難場所を探しはしない。

雪崩よ、お前は私を飲み込み、落ちていくのか?

cahute

第3詩節は、「雪崩(avalanche)」のイメージが一貫して続く。
それは、「飲み込む(engloutir)」という動詞から始まり、「巨大な雪( neige immense)」へ続き、「山小屋の避難場所(abri d’une cahute)」に至る。

そして、矛盾するように見えるのだが、山小屋の意味する« cahute »が、雪崩からの避難場所になるどころか、むしろ、韻を踏むことで« chute »(墜落)を引き起こすような印象を与える。

こうした中で、「私(je)」がどのような状態にいるのかも示される。
今は、「高みにいて(en haut)」、「丸い地球(le globe en sa rondeur)」を「見つめている(je contemple)」。
「体(corps)」は、「硬直(roideur)」しているに違いない。

そうした状態で、私は、雪崩に向かい、墜落に自分を巻き込むのかと尋ねる。

autrefoismaintenant
abri d’une cahutele Temps m’engloutit
un corps pris de roideur

Je contemple d’un haut le globe en sa rondeur

Avalanche, veux-tu m’emporter dans ta chute ?


この詩の中に、「虚無(néant)」という言葉は出てこない。
そのことは、この詩で歌われる全てが、ボードレールにとっての「虚無」を表現していることを意味する。

その第一の性質は否定的な側面。
戦いも、情熱もなく、愛や争いに「味(goût)」が感じられない。
その状態は、「どんよりした(morne)」「年老いた(vieux)」「打ち負かされた(vaincu)」「へとへとになった(fourbu)」「暗い(sombre)」「仏頂面をした(boudeur)」といった形容詞で示される。
春は香りを失ってしまい、私は音楽に別れを告げ、山小屋の避難所を探すこともない。

ボードレールは、その不活発で、生命力が失われた状態に、正反対の様相(=第2の側面)を忍び込ませる。
「墜落(chute)」は、確かに負の価値を持つが、しかしそこには「動き」が感じられる。
全てが「硬直(roideur)」に捉えられているようでいながら、「またぎ(enfourcher)」、「横たわり(se coucher)」、「つまずき(buter)」、「諦め(se résigner)」、「眠りを眠らせ(dormir le sommeil)」、「あばよ(Adieu)」と告げ、「誘惑するな(ne pas tenter)」と命じる。
何よりも、時間は私を「飲み込み(engloutir)」、雪崩は墜落しながら、私を「運ぶ(emporter)」。

つまり、ボードレールにとって、下降の動きも「動き」に他ならず、こう言ってよければ、彼は、« chute »の中に« flûte »(フルート)の響きを聞き取る詩人だといえる。

このように考えると、ボードレールにおける「虚無(néant)」とは、生の否定でありながら、同時に、生の脈動を含むことになる。
そのことは、虚無の「味(goût)」を味わい、虚無に対する「好み(goût)」を示すことが、ボードレール的美学の一つの柱となることにもつながる。


語源的には全く証明できないが、« néant »(ネアン)の音は「涅槃(ネハン)」を連想させなくもない。
「涅槃」はサンスクリッド語の「ニルヴァーナ(nirvāṇa)」の音を漢字にしたものであり、「ニルヴァーナ」は「消えること」を意味する。しかし、その一方で、「解放」でもある。

その二面性に親しんでいる東洋人にとって、ボードレール的« néant »の二面性を受け入れることは、それほど難しことではないのではないか?
日本でボードレールの人気が高い理由の一つが、そうしたことにあるのかもしれない。

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