
宮沢賢治の「めくらぶどうと虹」は原稿用紙7枚ほどの短い童話だが、東洋的あるいは日本的な世界観、生命感が誰にでも理解できる穏やかな言葉で語られている。
童話は、東北の言葉で「めくらぶどう」と言われる野ブドウと虹の間のやり取りの中で展開する。
地上のめくらぶどうは自分を価値のない存在と考え、天空に架かる美しい虹に憧れを抱き、「今日こそ、ただの一言でも、虹と言葉を交わしたい。」と望み、虹に「どうか私の敬いを受け取って下さい。」と訴える。
そんなぶどうに対して、虹の方では、「敬いを受けることはあなたも同じです。」とか、「あなたこそそんなにお立派ではありませんか。」と応え、ぶどうと自分との間に違いはないと応える。
その虹の言葉は、決してぶどうを慰めるためのおべっかではなく、一つの世界観、宗教観、生命観に基づいている。
ここではまず、「めくらぶどうと虹」の朗読(約9分)を聞き、童話全体を知ることから始めよう。
全てが一つの生命で息づく

宮沢賢治は、自分を卑下するブドウに対する虹の答えを予め準備するかのように、最初にぶどうに言及した時、「めくらぶどうの実が、虹のように熟れていました。」と、ぶどうの美しさを虹に喩えて表現している。
そのことを前提にして、「私の命なんか、なんでもないのです。」というぶどうに対し、虹は、自分の美よりもぶどうの美の方が長く続くと言う。
あなたは、たとえば、消えることのない虹です。変わらない私です。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分のいのちです。ただ三秒のときさえあります。ところがあなたにかがやく七色はいつまでも変わりません。
(青空文庫より) https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1077.html

実際、虹はすぐに消えてしまう。それに比べれば、ぶどうの実の方が美しい時間は長い。
それにもかかわらず、ぶどうは「私の実の光なんか、もうすぐ風に持って行かれます。雪にうずまって白くなってしまいます。枯れ草の中で腐ってしまいます。」と言い募る。
その返事として虹の言う言葉が、東洋思想の根底にある世界観を表現している。
「ええ、そうです。本とうはどんなものでも変わらないものはないのです。ごらんなさい。向こうのそらはまっさおでしょう。まるでいい孔雀石(くじゃくせき)のようです。けれどもまもなくお日さまがあすこをお通りになって、山へおはいりになりますと、あすこは月見草の花びらのようになります。それもまもなくしぼんで、やがてたそがれ前の銀色と、それから星をちりばめた夜とが来ます。
そのころ、私は、どこへ行き、どこに生まれているでしょう。また、この眼の前の、美しい丘や野原も、みな一秒ずつけずられたりくずれたりしています。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらわれるときは、すべてのおとろえるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。わたくしでさえ、ただ三秒ひらめくときも、半時(はんとき)空にかかるときもいつもおんなじよろこびです」
全ては変化し、青い空も日が傾くにつれてたそがれ、やがては夜になる。虹も消え去り、自然の美しさも失われていくように見える。
そうした時、世の儚さ、無情を感じるかもしれない。
しかし、それは現象世界のことにすぎない。「真(まこと)の力」が現れる時、言い換えれば、「真の力」の世界では、全てが「限りない命」の現れになる。
時計で計られる時間の単位は意味を持たず、虹にとって、3秒も30分も変わることはなく、虹である間は「同じ喜び」を感じる。
梅原猛は、この虹の言葉から、「瞬間の中に無限に光輝く生命」があり、「ただいまの瞬間に全宇宙の生命が生きられる」ことを読み取る。そして、宮沢賢治の世界は、「汎宇宙的生命の世界」であるとする。(『地獄の思想— 日本精神の一系譜』(中公新書)所収「第10章 修羅の世界を超えて ——— 宮沢賢治の世界」)
虹はそこまで踏み込んでいないが、「真の力」の視点からは、一つ一つの存在が普遍的な生命のひと時の表現、ということになる。
具体的に言えば、虹もめくらぶどうも同じ生命の異なる姿にすぎない。だからこそ、虹はぶどうに向かい、「あなたは、たとえば、消えることのない虹です。変わらない私です。」と言う。
一面では、全ては変化し、消滅する儚い。しかし、他面では、無限の生命が息づき、全ての生成の源泉となる。そうした思考の根本には、仏教的な「空」の思想があるのではないか。
仏教における「空」の中心的な理論家である龍樹(ナーガールジュナ)は、仏教的世界像の根本を「否定の論理」によって明らかにした。
[宇宙においては]何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生じることなく(不生)、何ものも終末であることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることはなく(不意義)、何ものも[われらに向かって]来ることもなく(不来)、[われらから]去ることもない(不出)、(後略)。(中村元『龍樹』所収『中論』訳)
否定表現の連続であるため、この言葉に「真の力」の世界を見出すことは不思議に思われるかもしれない。
しかし、消滅するものがないことは永遠であり、「それ自身のおいて分かたれた別のものであることがない」とは自他の区別がなく、「一つ」が「それから分かたれたように思われるもの」と別のものではないということになる。
こうした否定の論理でしか捉えられない世界であるならば、それが見えなくても何ら不思議ではない。ぶどうの名前の前半に「めくら」という言葉が付いているのはそのためだろう。
めくらぶどうには「真の力」は見えない。自分と虹が同じ生命を生きているなどということが、どうして見えるだろう? 見えなくて当たり前だ。
誰もが、この世のものは全て儚く消え去ることを知っている。空しい現実の世界を生きている。
そして、自分自身も空しい存在だと知っている。
「私の実の光なんか、もうすぐ風に持って行かれます。雪にうずまって白くなってしまいます。枯れ草の中で腐ってしまいます。」と言うめくらぶどうと同じだ。
虹の言葉は、その空しい存在が、実は「真の力」の一つの姿であることを教える。そして、時には3秒の命でしかない「はるかの美しい虹」の姿を、ぶどうに見せる。
そのことは、めくらぶどうの目を「真の力」の世界に開かせることでもある。
注意したいのは、空しく儚い現象世界と「真の力」の世界が二つの別々な世界なのではなく、一つの同じ生命の現れということ。
この世において全ては儚く、空しい。そのことに変わりはない。しかし、そこに「真の力」を見ることさえできれば、めくらぶどうが「消えることのない虹」と同じ生命であることに気づくことができる。
そして、その世界は美しい。
自然の美
儚く空しい世界であるが、そこに「真の力」を感じる時、世界に宿る生命が美しく感じられる。つまり、根源的な生命の世界は、美の世界でもある。
「めくらぶどうと虹」に描かれる世界が美しいのは、宮沢賢治がそのことを実感していたからだろう。
実際、めくらぶどうと虹が美しく描かれるだけではなく、それらの背景でも、美しい自然の光景が展開する。
そこには様々な植物が繁り、小動物が動きまわる。風は大地の息吹だ。
城あとのおおばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になり、畑の粟(あわ)は刈られました。「刈られたぞ」と言いながら一ぺんちょっと顔を出した野鼠がまた急いで穴へひっこみました。
崖やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立っています。
自然の光景が単に描写されるだけではなく、全てに生命の動きが感じられる。
野ねずみがちょっと顔を出し、声を発し、穴にひっこむという動きだけではない。植物にも全て命が宿っている。
おおばこの実は「結び」、赤つめ草の花は「枯れ」、「焦茶色になる」。粟は「刈られる」。



銀色のすすきの穂は、「まばゆく」輝き、風に揺られて「波立つ」。

「大きな虹が、明るい夢の橋のようにやさしく空にあらわれ」る以前、自然はさらに動きを活発化させ、時間の経過と共に刻々と変化する姿が描かれる。
さて、かすかなかすかな日照り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向こうの山は暗くなりました。
そのかすかなかすかな日照り雨が霽(は)れましたので、草はきらきら光り、向こうの山は明るくなって、たいへんまぶしそうに笑っています。
そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたように飛んで来て、みんな一度に、銀のすすきの穂にとまりました。
この一節は、「日照り雨」の光景が美しいだけではなく、詩の一節のような言葉の組み立てが行われている。
まず、同じ言葉と同じ文章構造が反復され、そこに変化が加えられる。
「かすかなかすかな日照り雨」、「草はきらきら光り」、「向こうの山」が反復される要素。
変化するのは、雨が「降りました」と「霽(は)れました」。
その結果、向こうの山は、最初は「暗くな」るが、次には「明るくなって、たいへんまぶしそうに笑」う。

こうした言葉の使い方は、単に風景を描写しているのではなく、詩的な表現であることを示している。
「日照り雨」の後、もずが飛んできて、銀色の薄の穂にとまる。
たとえもずが大きな鳥ではないにしても、薄の穂の上にとまるのは現実的ではなく、言葉による架空の世界を浮かび上がらせる。
その上で、「まるで音譜をばらばらにしてふりまいたように」と、鳥たちの姿が目に浮かぶような記述がなされている。
そうした絵画性も、詩的効果を強める役割を果たす。
こうした生命感のある自然の詩的な光景を前にして、めくらぶどうは深く心を動かす。
めくらぶどうは感激して、すきとおった深い息をつき、葉から雫をぽたぽたこぼしました。
めくらぶどうには、自然の美が見えている。だからこそ、深い息をつき、「ぽたぽた」と雫をこぼす。その雫はぶどうの涙に他ならない。
しかも、深い息は「すきとおっ」ていて、『注文の多い料理店』の「序」に出てくる不思議な光景を思わせる。
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗(らしゃ)や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたしは、そういうきれいなたべものや、きものをすきです。
風や日光が食べ物になり、貧しい着物が美しい着物に変わる。それらは現象世界では異なるものだが、個々の姿の中に「真の力」を感じる時には、普遍的な生命の束の間の形であることが見えてくる。
賢治の描く自然が美しく、しかも栄養になるのは、そのためだと考えてもいいだろう。
そして、一度その栄養を味わえば、虹が消えた後の光景にも、美を感じるようになる。
虹はかすかにわらったようでしたが、もうよほどうすくなって、はっきりわかりませんでした。
そして、今はもう、すっかり消えました。
空は銀色の光を増し、あまり、もずがやかましいので、ひばりもしかたなく、その空へのぼって、少しばかり調子はずれの歌をうたいました。
銀色の薄の穂の上にとまったもずが、ここでは、やかましく鳴いている。それにつられて、ひばりも調子外れの鳴き声を立てる。
この光景は、虹の言葉を理解する前であれば、単に騒がしい雑音に聞こえただろう。
しかし、「真の力」の表現であることを知った今では、「わたしはすきです。」と言えるものだと感じられる。
消えそうになる虹に向かい、めくらぶどうは、「虹さん。私をつれて行ってください。どこにも行かないで下さい。」と叫ぶ。
もしぶどうが虹の言葉を理解したのであれば、そう言いながらも、虹がどこにも行かないことをわかっていて、もずやひばりの鳴き声が美しい音楽のように聞こえるだろう。
そして、「すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。」という虹の言葉に誘われるようにして、めくらぶどうは、「虹のように熟れて」いる自分の姿に気づくだろう。

賢治はめくらぶどうがどうなったのか書いてはいない。
しかし、読者は、そのぶどうが美しい姿をしていることを知り、虹だけではなく、ぶどうを取り囲む自然全体が美しいことも知っている。
その美を感じる心であれば、虹の教えを理解しているに違いない。
本とうはどんなものでも変わらないものはないのです。(中略)
けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらわれるときは、すべてのおとろえるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。
こう言ってよければ、美は「真の力」に気づかせてくれ、そのことを通して、美を感じる「私」も、「めくらぶどう」であり、「虹」でもあることを、思い出させてくれる。
Bonjour, puis-je utiliser votre traduction (si elle vous appartient) de 櫻の樹の下には [voir https://bohemegalante.com/2019/06/25/motojiro-kajii-sous-les-fleurs-de-cerisiers/%5D ?
J’aimerais l’implémenter au sein de la mise en roman vidéoludique disponible ici : https://store.steampowered.com/app/531200/Beneath_The_Cherry_Trees/
Le développeur semble en accord avec cela tant que j’obtiendrai votre autorisation, ou celle qui faut si ce n’est pas votre travail.
Bonne journée.
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Merci de votre contact.
Il n’y a aucun problème pour utiliser ma traduction dans votre site.
Bonne continuation.
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Merci beaucoup !
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