戦争の残酷さ

イエメン 2022年1月

ロシアがウクライナに侵攻し、戦争の悲惨が世界中で叫ばれている。

ヨーロッパでは、地続きの国で起きている戦争ということで、イラク、アフガニスタン、シリア、そして今も続いているイエメンでの空爆と比較しても、人々の反応は大きい。
ロシアに制裁を課し、ウクライナに兵器を供与することで、何とか戦争を停止させる努力が続けられている。

しかし、そうした中で、忘れられていることがあるのではないかと、欧州議会議員ラファエル・グリュックスマンのテレビでの発言を聞いて思うことがあった。

彼のウクライナに住んでいる友人の一人が、その朝、初めて銃を手に取り、引き金を引いた。しかし、決して人間に銃口を向けることができなかった。そして、グリュックスマンに、「そんなことはできない」と言ったという。

このエピソードは、戦争で戦う一人一人が、たとえ兵士であろうと、対抗する市民であろうと、「一人の人間である」という当たり前のことを思い出させてくれる。

逆に言えば、兵士や敵・味方という鎧をまとってしまうと、相手を殺しても無感覚になってしまう。たとえ普通の市民でも、侵入してくる兵に対して銃を向け、殺害すれば誇りに思う可能性がある。
そして、戦争中は、死者の氏名ではなく、死者の数が発表され、数字の後ろにある人間の実態が隠される。

このようにして、人間性があっという間に失われる、あるいは一時的に消滅してしまうことこそが、戦争の残酷さではないだろうか。

もちろん、こんなことを言ったからといって、戦争が解決するわけではない。
グリュックスマンも、上のエピソードを紹介した後で、ウクライナを救うため、武器を提供しなければならないと発言している。
(欧米諸国が武器の提供を決めても、それをウクライナ側に届けるためには、特別のルートが必要になる。ロシアと正面衝突すれば、欧米対ロシアの戦争に拡大してしまうからだ。従って、どのようにということは公表できないと、フランスの軍人がインタヴューで答えていた。)

ロシアがウクライナに侵入している今回の戦争に関して、日本は何をするのがベターなのだろう?

その問いに対しては、欧米と同一の歩調を取り、ロシアに厳しい制裁を課すことだという声が大きい。しかし、本当にそうだろうか?

かつての冷戦の時、世界全体がアメリカ対ソ連の対立によって2つに分割されていた。これからは、欧米対中国・ロシアのブロックによって、再び世界が色分けされていく可能性がある。
そうした状況を前にして、ロシアを政治的・経済的にますます中国に近づけ、しかも、今回の戦争の収拾に中国が大きな役割を果たすことになると、「国際社会」が二つに色分けされ、新しい冷戦がより現実味を増してくる。

そのような可能性を考えた時、もしできるのであれば、日本がロシアとウクライナの間に入り、二つの国と密接な関係にあるイスラエルなどと協力して、戦争終結のための仲介をすることが、国際的な役割を果たす方法なのではないだろうか。

そして、そのためには、ロシアがなぜ戦争を始めたのか、冷静に分析する必要がある。そうしないと、色眼鏡を通して現実を見ることになってしまう。

ウクライナ西部リビウでは、ビール工場でビール瓶を使い火炎瓶を作り始めためたというニュースが流れている。ビール工場のオーナーは、映像の中で、2014年の革命の際にも火炎瓶を作ったことがあると語っている。
ところが、あるテレビ・ニュースでは、普通の市民が初めて火炎瓶を作る光景の異常さといったナレーションが流されていた。
それは、現実を見ながら、別の解釈をしてしまった例といえる。

写真のロシア兵にも親がいて、もしかすると妻や子どもがいるかもしれない。

戦争を終わらせるためにも、日本がロシアとウクライナの仲介者としての役割を果たし、人々が兵士や敵として非人称的に扱われることがなくなり、人間性を取り戻すことを祈らずにはいられない。
無力ではあるが。。。


2022年3月11日追記

ロシアによるウクライナ侵略が始まり3週間目に入るが、まだ攻撃は終わらない。その間、どれだけの数の人間が死に、どらだけの数の人間が殺人者になったことだろう。
あえて殺人者というのは、兵士にしろ、民間人にしろ、戦争であれば、人を殺すことが正当化されかねないからである。

2月24日から毎日、残酷な戦争の惨禍を映した映像が流れ続けている。3月9日には、産婦人科病院が破壊され、妊婦や子ども、傷ついた大人の姿が映し出された。
戦争は残酷であり、悲惨な結果をもたらす。
この点では、全ての人が同意するだろう。

他方、同意できないこともある。
ロシアのプーチン大統領は最終的な勝利まで、決して攻撃を止めないだろう。どんなに民間人に死者が出ても、建物が破壊されても、多くの国々からの非難が集まり、制裁を受けようと、最後まで続けるに違いない。

それに対して、軍事力で劣るウクライナは、どうすべきなのか?
ゼランスキー大統領に鼓舞され、祖国を守るために戦い続けるべきなのか?
それとも、たとえ、ロシアの支配下に置かれることになったとしても、一刻も早く停戦し、戦争を終わらせるべきなのか?

ロシアの条件を呑み、停戦に踏み切るのは、国を守ることを蜂起することなので、そうした意見は無責任だという論調がある。
それがごく普通の考え方かもしれない。

ところが、その論理だと、実は、プーチンと同じことになってしまう。
プーチンを一方的に悪だと決めつけて、病気だとか、気が狂っているとか非難することは、この状況を理性的に判断していないことになる。
プーチンは、ロシアの主権を守るために、ウクライナへの攻撃を始めた。もし自分の国が他国に攻め込まれたら防衛するのと同じ論理で、自国を守ために戦争せざるを得なかった。
これが彼の論理であり、たとえ人命が失われたとしても、国家のためならばしかたがないと考える。
兵士はそのための駒になる。

このように考えると、侵略された側が、国を守るために兵士だけではなく、市民にまで動員をかけ、命を捨てても国を守るという思想が、人の命よりも国を上に置くことであることがわかる。

一方の側から見ると、攻撃と防衛なので全く違うことのように見えるが、人の命という視点から見ると、同じことになる。
戦うことは、どちらにしても、殺人を犯すことなのだ。

戦争中は、人間は人間性を失いかねない。
ウクライナ人が殺害されている様子を見ると憤慨し、ロシアの非人間性を非難し、攻撃する。その一方で、ロシア兵の死骸を見ると、やっつけたとか、当然の報いなどと思う。
殺人に対して、自分の視点で見方が違ってくる。
その時、すでに理性の歯車が狂っていることに気づくことは少ない。

しかし、そうした中でも、人間性を保つことができれば、人の命を救う道が何か見えてくるに違いない。

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