モーパッサン 「脂肪の塊」 小説と日常生活の心理学 2/3

ギ・ド・モーパッサンの中編小説「脂肪の塊」は、1870年の普仏戦争中にノルマンディ地方の一部がプロイセン軍によって占領された状況を背景にして、ルーアンの町から馬車で逃亡する乗客を中心にした人間模様を、リアルなタッチで描き出している。

“脂肪の塊”というあだ名で呼ばる主人公の娼婦は、善良で心優しい。他の乗客たちが食事を持たない時には自分の食べ物を提供するし、宗教心にも篤く、ナポレオン3世の政治体制に対する愛国心も強い。
それに対して、裕福な階級の人々やキリスト教のシスターたちは、娼婦をさげすみ、必要な時には利用し、役目が終われば無視し、彼女の心を傷つける。

ふっくらとした娘を乗客たちが最も必要とするのは、逃亡の途中に宿泊したホテルで、プロイセンの将校から足止めをされる時。彼女が身を任せなければ、馬車は出発できない。しかし、愛国心の強い女性は、敵の兵士の要求を受け入れようとしない。
その時、他の乗客たちにとって、彼女は「生きている要塞」となる。
そこで、どのようにして要塞を陥落させ、脂肪の塊というご馳走をプロイセン兵に食べさせるのか? その戦略を練り、彼女を降参させるための「心理戦」が、この小説の中心的なテーマになる。

このような視点で「脂肪の塊」を概観すると、モーパッサンが、プロイセン軍による占領の現実をリアルに描きながら、それと同時に、人々の心の動きを「心理的な戦い」として浮き彫りにしたという、二つの側面が見えてくる。

戦争の現実

モーパッサンは、自らが自然主義作家というカテゴリーに分類されることを好まなかったが、しかし、ロマン主義的な感傷を避け、現実を理性的に見つめ、現実以上に現実的な世界を小説内に作り出すことを目指した。

「脂肪の塊」の冒頭で描かれるフランス軍の敗走、プロイセン軍の侵攻と占領、それに続く占領された地域での日常生活の様子は、モーパッサン自身の従軍経験に由来しているものと思われる。

負けた側のフランスの兵士たちは、悲惨な様子で逃げるしかない。

ここ数日続けて、敗走する軍隊の切れ端が町を通過していた。それはもう軍といえるものではなく、バラバラの群れでしかなかった。汚れた髭が長く伸び、軍服はボロボロ、のろのろと歩き、軍旗もなく、隊列を作ることもなかった。誰もが疲労困憊しているように見え、何かを考えることも、決めることもできないようだった。ただ惰性で歩き、足を止めるとすぐ地面に倒れ込んだ。

彼らが逃げ去った後、住民たちは恐怖の中に取り残される。

生活が停止したようだった。店は閉ざされ、道は静まりかえっていた。時々、その静けさに怖じ気づいた住民が、壁に沿って足早に走っていくこともあった。
待つ恐怖が、敵の到来を望ませていた。

敵が来るという恐怖があまりにも大きいために、どうせなら早くそれが起こった方がいいとさえ思い始める。恐れる気持ちがそこまで達する。

そんな中、とうとうプロイセン軍が到来する。

フランス軍が去った日の午後、何人かの槍騎兵(そうきへい)がどこからともなく姿を現し、すごい速さで町を通り過ぎた。その少し後、黒い塊がサント・カトリーヌ丘から下って来た。侵略者たちの別の二つの波も、ダルヌタルやボワギヨームの道を通って姿を現した。その三つの部隊の前衛隊が、同じ時間に市役所前広場で合流した。その近くの全ての道を通って、ドイツ軍が到着した。その行進の歩調の揃った冷たい歩みが、舗石を鳴らしていた。(中略)
何人かの分隊ごとに家々のドアを叩き、家の中に消えていった。侵略が終わり、占領が始まったのだ。負けた者たちにとって、義務が始まる。勝者たちに愛想よく接しなければならなかった。

実際に占領が始まると、非常に特殊な空気の中ではあるが、日常生活が再開する。プロイセン兵は、市民の家の中で、あんがい礼儀正しかったりする。カフェでも、昨年駐屯したフランス兵と比べて、横柄な態度を取らないこともある。
ただし、占領軍からは金銭の要求があり、市民たちはそれに応じなければならない。それまでに蓄えた富がそのようにて敵の手に渡っていく。

時には、プロイセン兵の死体が、近くを流れるセーヌ河で見つかることもある。「”外国人”憎しの感情が、信条のために死ぬ覚悟を持つ恐れ知らずの人間を武装させる」のだ。

このように、物語の開始を告げる馬車が登場する以前に、戦争の現実が、簡潔ではあるがリアルに描き出されている。
そして、その描写を通して、読者は、一気に敵の軍隊に占領された町へと入っていくことになる。

こうした描写は、1870年に敗走するフランス兵として戦争に参加していたモーパッサンの体験を反映していると考えることができるが、それでも、客観性を持って描かれ、主観的な表現は押さえられている。
その理由は、彼がロマン主義的な感傷や感情に引きずられた道徳を避け、理性に基づく観察を通して現実性を体感できる世界を作り出そうとしたからである。

ただし、彼がまったく戦争に対する考えを漏らさないわけではない。
モーパッサンの軍隊生活は、下っ端の兵士として苦労した経験でしかなかった。だからこそ、戦争は個々の兵士の悪ではなく、指導者たちの問題だと考えていた。
将軍たちは一般の人間と変わることのない平凡な人間だが、立派な軍服を身に付けるうちに、愛国心といった高貴らしく見える感情に動かされ、戦争を開始してしまう。だから、戦争とは、「愚かさのために人間を殺させる」(1880年1月5日、ギュスターヴ・フロベール宛の手紙)ものなのだ。

そうした思いを抱くモーパッサンの戦争観は、馬車が留められているトートの宿の女将フォランヴィ夫人の口から語られる言葉を通して知ることができる。
彼女は夕食の給仕をしながら、ド・プレヴィル伯爵夫人に、プロイセン軍が到着して以来のことを色々と語った後、素朴な意見を付け加える。

「そうです、奥様。あの人たち(プロイセン兵たち)は、ジャガイモと豚肉しか食べません。次の時は、豚肉とジャガイモ。あの人たちが清潔などと考えてはいけません。—— とんでもない! —— どこもかしこも汚します。私があなた様に抱く尊敬の念は別ですが。彼らが何時間も何日も訓練するところをご覧ください。みんなずっとあそこの畑の中にいるんです。—— 前に進み、後ろに進み、こっちに回り、あっちに廻る。—— 畑を耕し、ここの道を直してくれればいいのに! —— でも、そんなことありません。奥様。あの兵隊たちは、誰の役にも立たないんです! 貧乏人があの人たちを養っているのに、覚えるのは人殺しだけ!—— 私は教育も受けていない年寄りです。本当にそうです。でも、あいつらが朝から晩まで足踏みして、疲れ果てているのを見ると、こう思うんです。役に立つことをたくさん見つける人がいるけれど、人の害になるためにひどく自分を痛めつける人もいるって! 本当に、人を殺すって、ゾッとしません? 殺されるのが、プロイセン人だって、イギリス人だって、ポーランド人だって、フランス人だって同じです。もしひどいことをした人に復讐したら、罰せられますから、悪いことになります。でも、私たちの子どもたちを動物みたいに鉄砲で皆殺しにしたら、いいことっていうんでしょうか? だって、一番たくさん殺した奴に勲章をあげるんですよ。—— おかしいですよね、私にはちっともわかりません、これからもずっと!」

こうした素直な気持ちこそが、庶民の本音に他ならない。反戦とか大きな声を上げるのではなく、占領された状況を耐えながら、軍事訓練を見れば、もっと役に立つことをすればいいと思う。戦争で人を殺したら勲章をもらえるなんて馬鹿げている。

しかし、平和な時であれば誰もが同意する言葉も戦争時には否定され、別の正論が登場する。その論理は、民主主義者であるコルニュデの口から発せられる。

コルニュデが声を上げた。
「戦争っていうのは野蛮さ、隣の平和な人を攻撃する時には。でも、祖国を守る時には、神聖な義務さ。」
老婆はうつむいた。
「そうね、防衛の時は別の話。でもね、楽しみのためにそんなことをする王様なんて、みんな殺しちゃった方がよくない?」
コルニュデの目が輝いた。
「素晴らしい、市民よ!」

防衛の時には戦争は肯定される。愛国心は大切な義務だ。そう言われてしまうと、フォランヴィ夫人も、本心かどうかは分からないが、口を合わせるしかなくなる。

こうした自然な会話は、実際にこんな状況があったのではないかと思えるほどに現実的であり、小説に真実味を与えるのに役立っている。
モーパッサンは、『ピエールとジャン』の序文として書かれた小説論の中で、読者に現実ぽっさを感じさせるためには、現実をそのまま再現してもだめであり、「真実を作り出すには、様々な事実の普通の状態の論理に従って、真実の完全な幻(イリュージョン)を生み出す必要がある」と記している。
「脂肪の塊」で描かれた普仏戦争の状況は、まさに現実のイリュージョンが作り出されているということができる。

それと同時に、脂肪の塊をプロイセン兵の餌食とする物語とは何の関係もなく、それにもかかわらずモーパッサンがあえて付け加えた理由は、フォランヴィ夫人の言葉を通して、彼の戦争観をこっそりと表明することにあったのではないかと考えられる。

生きた要塞を攻め落とす心理戦

A. 小説の構成

小説の中に「現実のイリュージョン」を作り出す必要があることを述べた小説論の中で、モーパッサンは、登場人物たちの心理が作品の骨格になるという考えを示している。

客観的な小説家たちは、登場人物の精神状態を長々と説明するのではなく、その人物が、ある特定の状況の中で、その人物の魂の置かれた状態によって、彼がどうしても犯してしまう行動とか身振りを探り出そうとする。(中略) 彼らは心理学を開示するのではなく、隠しておく。目に見えない骨格が人体の骨組みであるのと同じように、心理学を作品の骨組みにするのだ。(『ピエールとジャン』「序文」)

「脂肪の塊」でも、まず普仏戦争におけるプロイセン軍の占領という特定の状況が設定され、次に、ルーアンから馬車に乗って逃れる10人の登場人物の社会的な状況、職業と密接に関係する性格や行動パターンが描き出され、その上で、娼婦がプロイセンの将校に身を任せるように仕向ける心理戦が、彼らの足止めされたホテルの中で展開する。

モーパッサンが作り上げたそのミニ世界は非常に巧みに構築され、登場人物たちの性格描写と心理分析が、簡潔でありながら的確に行われている。この小説が発表当時、モーパッサンの師であるギュスターヴ・フロベールを始め多くの批評家から高い評価を得、しかも大ヒットした理由は、そうした点にあるのだと考えられる。

その一方で、自然主義小説というレッテルを貼られ、科学的主義的な文学概念に基づいているため、図式的すぎるという批判もなされた。
実際、馬車の乗客10人の構成は、現実的というよりも、当時の社会の縮図だといえる。

最初に紹介されるのは、社会的に優位な地位にいる人々。
ワインの商売で財を成したロワゾー夫妻。
3つの紡績工場などを持ち、国家から勲章を贈られたカレ=ラマドンと彼の妻。
ノルマンディ地方で最も古く高貴な貴族の家柄に属すブレヴィル伯爵夫妻。

伯爵夫人の近くには、二人のシスター。一人は年老い、もう一人は体が弱そうだが、二人とも長いロザリオを触りながら、お祈りを唱えている。

最後は、社会からはみ出した人間。
その一人は、民主主義者のコルニュデ。
ナポレオン3世の帝政下で、資産家の市民たちにとって、民主主義者は恐怖と嫌悪の対象だった。1870年、プロイセンとの戦争に敗北した直後、たとえ共和制が宣言されたとしても社会は不安定で、民主主義者に対する恐怖感は続いていた。

そして最後の一人が、”脂肪の塊”というあだ名の娼婦。
彼女に最初に言及する際、モーパッサンは彼女の本名を明かさず、脂肪の塊としか名指さない。読者がエリザベット・ルッセという本名を知るのは、ホテルに着き、彼女がプロイセンの将校から指名される時になる。

こうした10人の構成は、偶然馬車で一緒になったとは思えず、当時の社会の縮図、しかも人口構成ではなく、社会階級から代表を取りだした縮図になっている。
その意味では、現実のイリュージョンというよりも、ある実験のための図式的な設定だといってもいいだろう。

物語全体も非常の整った構成に従っている。
(1)馬車の中
誰も食べ物を持たず、お腹を空かせている。そんな中で、”脂肪の塊”だけが食べ物を持ち、おずおずとした様子で、一緒に食べることをみんなに提案する。

(2)ホテル
プロイセンの将校は一行の出発を許可しない。みんなはその理由がわからず困惑するが、将校の望みが”脂肪の塊”と寝ることだとわかると、心理戦が始まる。
最初は軍人の要求に憤慨するのだが、出発できない日が続くと、みんなで”脂肪の塊”の説得にかかる。軍人が望みを満たす時になると、三組のカップルは、ホテルの上の階で起こっていることに聞き耳を立てたりしながら、シャンペンを注文し、陽気に夕食を楽しむ。

(3)馬車の中
ホテルから出発後、みんなが”脂肪の塊”を無視し、蔑視した視線を投げかけさえする。みんなは食事をするが、”脂肪の塊”だけは食べるものがない。
そうした中で、民主主義者コルニュデが「ラ・マルセイエーズ」を口ずさむ。”脂肪の塊”は涙を流し、暗闇の中に啜り泣きが流れ続ける。

この構成を確認するだけで、有産階級の人々のエゴイスムや偽善に満ちた人柄や行動が明らかになる。

その一方で、社会的な勝者になるのは常に資産を持つ階層であり、虐げられた人間は常に惨めな状況に追いやられるしかないという、冷酷な現実にも直面させられる。
こうした展開は、当時の社会状況や時代精神から導き出されるもので、19世紀後半の自然主義小説の土台となる構図に従っている。

当時はダーウィンの進化論を社会に適応したハーバード・スペンサーの「適者生存」説が有力な思想となり、資本主義社会の中で生き残るのは、「適者」つまり資本を所有する階層だと見なされた。
それに対して、カール・マルクスの社会主義のような動きも発生したが、それは労働者階級が常に抑圧される側にいることの証明でもある。そのために、ドイツの哲学者ショーペンハウアーの悲観主義(ペシミズム)が広く受け入れ始めてもいた。
モーパッサンも、「ショーペンハウアーとハーバート・スペンサーは、人生に関して、『レ・ミゼラブル』の著名な作家よりも、理に適った考えを数多く持っていると思う」(「メダンの夕べ」1880年4月17日)という言葉で、ショーペンハウアーとスペンサーの思想に賛同している。

こうした状況の中で、弱者の視点に立ち、上層階級の偽善を暴き、”脂肪の塊”の悲しみに共感を抱くように導く物語の展開は、誰にとっても理解しやすいものになっている。

B. 心理戦

エゴイストな人間たちが”脂肪の塊”をどのように追い詰めていくかを探る前に、彼女の姿が肉感的で、食欲をそそる食物のように描かれていることを確認しておこう。

その女性は、艶っぽいと呼ばれる女たちの一人で、若いのに太っていることでよく知られていた。そのため、”脂肪の塊”というあだ名がついたのだった。背は低く、体中がまん丸で、脂ぎっていた。指はむくみ、指の骨と骨の間に挟まれ、小さなソーセージが並んでいるよう。肌はツヤツヤで、ハリがある。大きな胸はドレスからはちきれそう。彼女は美味しそうで、人気があった。とても新鮮で、眺めても楽しめた。顔は赤いリンゴか、今にも咲きそうなボタンの花のようだった。その中に目をやると、上の方で開いているのは、大きな黒い目。大きくて厚い眉毛がかかり、影ができている。下には魅力的な口がある。キリッと閉まり、口づけのために湿っていて、数本のごく小さな歯が光っている。
彼女にはそれ以上にたくさんいいところがある、などということも言われていた。

脂ぎる(ラードで太い)、ソーセージ、リンゴなど食物の比喩が使われ、「美味しそう(食欲をそそる)」や「口づけのために湿った」など、より直接的な表現もある。
さらに、わざわざ段落を変えて、「それ以上にたくさんいいところがある」と性的な暗示も付け加えられる。

“脂肪の塊”というあだ名は、決して単に太っていることを揶揄するものではない。貧しい時代には、食べることは富の象徴でもあり、肉付きがいいことは、彼女の商売が上手くいっていることを示すものでもあっただろう。
モネの絵画に描かれた歓楽施設フォリ・ベルジェールで働く女性たちを撮影した写真(1869年)を見ると、現在とは美の基準がかなり違っていることがわかる。

その美味しそうな”脂肪の塊”が、プロイセン将校の要求を拒むとき、彼女は「生きた要塞」になる。そして、その要塞を陥落させなければ、馬車の出発許可を得ることできない。
その時から、彼女を心理的に追いつめ、将校の餌食にする作業が始まる。

その作戦を見る前に、”脂肪の塊”が要求を拒否する理由を明確にしておこう。
彼女はナポレオン主義者であり、ナポレオン3世が皇帝として君臨する第二帝政(1852-1870)を支持していた。従って、ナポレオン3世の敵であるプロイセンは彼女の敵でもあり、そのフランスに対する強い愛国心から、プロイセンの兵士は決して受け入れられないのだった。

ちなみに、民主主義者は反体制派であり、コルニュデの歌う「ラ・マルセイエーズ」は共和制の賛歌と見なされ、第二帝政下で禁止されていた。
従って、”脂肪の塊”とコルニュデの政治信条は対立するものであり、二人の間に親近感があったわけではない。そのことには注意しておく必要がある。

最初に敵兵の要求を知った時、みんなはどんな感情を持ち、どんな反応を示すだろうか?
その場面は、ホテルの主人が夕食の席にやってきて、「エリザベット・ルッセ嬢が考えを変えたかどうか」と尋ねるところから始まる。

“脂肪の塊”は立ったまま、真っ青だった。しかし、すぐに怒りがこみ上げてきて真っ赤になり、何も話すことができなかったが、最後にわっと叫んだ。「言ってやって、あの薄汚い奴、くたばりそこないのプロイセン野郎に。絶対にだめだって。わかったわね。絶対、絶対、絶対だめ。」
太った主人は出て行った。 “脂肪の塊”はみんなに囲まれ、質問され、主人が来た秘密の理由を明かすように言われた。彼女は最初ためらった。しかし、しばらくすると、絶望的な気持ちが勝った。「あいつの望み? ・・・ あいつの望み? あいつ、私と寝たいのよ。」と彼女は叫んだ。誰もその言葉にショックを受けなかった。それほど、みんなの怒りは激しかった。コルニュデはテーブルの上にビールのコップを激しくぶつけ、たたき割った。恥知らずな兵士に対する非難の声が一斉に上がった。怒りが湧き上がり、全員で抵抗するという連帯の印となった。彼女に強要された犠牲の一部を、一人一人に要求されたかのように感じたのだった。伯爵は、あんな奴らは昔の野蛮人のような行動をすると、うんざりしたように言い放った。とりわけ女性たちは、力強く愛撫するような同情を”脂肪の塊”に示した。シスターたちは、食事の時にしか姿を現さなかったが、頭を垂れ、何も言わないでいた。

“脂肪の塊”に対する要求は、全員に対する侮辱のように感じられ、誰もが憤慨し、彼女に同情し、共感を示す。全員がひどく怒り、団結し、抵抗の意思を示す。
こうした感情も、それに伴う行動も、ごく自然のことだろう。
しかも、「全員で抵抗するという連帯」という、戦争を連想させる言葉で表現されるために、彼らがフランス軍の兵士のようにプロシア軍に対抗する意志を示していることがわかる。

しかし、翌日もホテルから出発できないことがわかると、社会的に優位な階級に属する6人の感情は変化し始める。
“脂肪の塊”に対して冷たい空気が流れ、彼女が夜の間にこっそりと、誰にもわからないように、プロイセン将校の言いなりになっていればよかったのにといった、非難の気持ちが生まれる。

それ以上に簡単なことなんて、何もないじゃないか。そうしたって誰も知らなかっただろうに。将校に、彼女はみんなが困っているので可哀想に思ったと言わせれば、体面は保てたはずだ。彼女にとっては、そんなに大したことじゃないんだから!
しかし、誰もこうした考えを、まだ口にすることはなかった。

モーパッサンはみんなの考えを誰かに言わせるのではなく、発言者を明確にしない語り方(自由間接話法)で読者に伝える。そうすることで、その場の空気感がひしひしと伝わってくる。

その後、六人の紳士淑女たちは”脂肪の塊”を散歩に誘い、和気あいあいとした時間を過ごす。
そこにプロイセン将校が通りかかり、女性陣に挨拶した後、カレ=ラマドン夫人は、彼はなかなか悪くない、フランス人だったらどんな女性でも夢中になるのに、などと口にする。
その言葉が本心なのか、”脂肪の塊”に向けられたものなのか、カレ=ラマドン夫人の心の中は、読者が読み取るしかない。(後に、自分が”脂肪の塊”の立場だったらなどと考えるので、まんざらでもないのかもしれないが。)

“脂肪の塊”が教会のミサに行ったためにその場にいなくなると、みんなの本心が吹き出してくる。
ワイン商のロワゾーは、将校にこっそりとコンタクトして、”脂肪の塊”を差し出すから、みんなを出発させて欲しいと頼んでみたらどうかと提案する。しかし、その提案は将校からあっさり拒否される。
すると、ロワゾー夫人はかっとなり、「あれの仕事は男たちとすることなんだから、こっちはよくてあっちはだめなんて拒否する権利はないはず。」と大きな声で言ったり、さらには、「将校は私たち三人みたいな女性の方が好みに違いないわ。でも、全員用の女で間に合わせるのよ。既婚の女性を尊重してるんだわ。」だとと言ったりさえする。

その後も、追い詰められたとき、自分たちが助かるためにどんなことを考えるかがわかるような例が続く。とにかく、6人の頭の中心には、「商売女だから」という論理があり、”脂肪の塊”を説得する術を相談する。

長い間、みんなは、包囲された砦のためであるかのように、封鎖の準備をした。一人一人が演じるべき役割、拠り所にする議論、実行すべき行動を取り決めた。あの生きた要塞が敵を広場に受け入れるように、攻撃計画、用いる策略、奇襲攻撃を整備した。

ここでははっきりと戦争の用語が使われ、外の世界で行われている普仏戦争と、”脂肪の塊”との心理戦を重ね合わせていることがわかる。
暴力で彼女を従わせるのではなく、「生きた要塞」が自分から門を開けるように、彼女の心を動かさなければならない。

ここで一つ注意しておきたいのは、その心理戦に民主主義者コルニュデは加わらないこと。彼は6人から離れ、その作戦とは無関係でいる。

“脂肪の塊”がミサから戻り、昼食になると、6人は彼女に親しげに話しかけ、古代ローマや近代イギリスで自分を犠牲にして夫や国を救った女性たちのことを話題にする。
午後、彼女に呼びかけるときには、それまでの「マダム」ではなく、一段下の「マドモワゼル」が使われる。そのことは、”脂肪の塊”の心に一定のプレッシャーを与えることになったようだ。

夕食になり、再び宿の主人が将校の要求を伝え、拒否された後で、今度は宗教の話題が持ち出される。そして、そこでのシスターの言葉が、「娼婦の怒りを交えた抵抗に亀裂を作り出す」ことになる。

(前略) 伯爵夫人は、たぶん予め考えていたわけではないだろうが、宗教に敬意を表する必要があるという漠然とした気持ちを感じ、年上のシスターに聖人たちの人生の立派な行いについて質問した。そうですね。多くの聖人たちは、私たちの目には罪と思われる行為を犯しました。でも、それらが神の栄光や隣人のためだったのであれば、教会は罰することなく彼らを許しました。それは強力な議論だった。伯爵夫人はそれを利用した。(中略) 年老いたシスターは、この陰謀に恐ろしいほどの援助をもたらした。彼女は内気だと思われていたが、大胆で、口数が多く、激しい一面を示した。(中略) 彼女の考えでは、意図が賞賛すべきものであれば、神様のお気に召さないものは何もなかった。伯爵夫人は、思いもよらず現れた共犯者の神聖な権威を利用し、シスターの口から、道徳の格言を教訓として別の言葉で言ってもらった。「目的は手段を正当化する。」
彼女はさらに質問した。
「では、シスター、神様は全ての方法を受け入れ、動機が純粋であれば、行為は許してくださるのですね?」
「奥様、お疑いになるのですか? それ自体では非難すべき行動でも、そのようにしようと思い立った考えのために、しばしば価値あるものになるのです。」

この議論自体は何も非難すべきものではない。
「目的が手段を正当化する」とはよく言われることだし、神の命令によって自分の子どもを殺害する行為さえ賞賛すべきものと見なされることがある。
キリスト教の論理では、神を讃えるため、あるいは隣人のためによいことだと考えてであれば、一般的には悪だと考えられることでも、最終的には善と考えられる。

モーパッサンは、この会話での伯爵夫人とシスターの心理について、非常に曖昧な書き方をしている。
伯爵夫人が宗教について話し始めるのは、「たぶん」予め考えていたことではなかった。他方、シスターも彼女の問いかけに答えているだけのように見える。
その一方で、「陰謀」とか「共犯者」という言葉が使われ、”脂肪の塊”を説得するための議論であることもほのめかされている。

普段は大人しそうなシスターが、宗教になると熱中して饒舌になる。それは、シスターとしてごく普通のことだろう。としたら、彼女の発言に悪意はないのか? それとも、自分も早く出発したいと考えてのことなのか?

とにかく、その議論の後で、シスターは、彼女たちがルーアンを脱出するのは、別の町の病院に入院する兵士たちを看護するためだという身の上話も付け加える。
愛国心だけではなく、宗教心も厚いエリザベット・ルッセには、シスターの話はほとんど決定的な打撃を与えただろう。

翌日、再び散歩をする際、伯爵は”脂肪の塊”の腕を取り、「愛しい子」といった呼び方をする。さらにわざとくだけた話し方もし、「将校の国にはいないような可愛い娘をあいつが味わったら、自慢になるだろうよ。」などと言う。

こうした様々な作戦が成功し、”脂肪の塊”という要塞は攻略されることになる。そして、こう言ってよければ、「生きた要塞」が再び「美味しそうな食物」へと変わり、プロイセン将校に供される。

この心理戦の中で、”脂肪の塊”だけではなく、ロワゾー夫妻や伯爵夫妻、カレ=ラマドン夫人、そして、年上のシスターの、複雑な心の動きが浮かび上がってくる。
モーパッサンが目指したのは、上級階級の人々や宗教者の偽善的な側面を描くことだけではなく、それ以上に、人間の心の動きだったのだ。

現実の世界と同じように、小説の世界でも、心の中が読みやすい人もいれば、そうでない人もいる。顔色や行動、言葉で何を考えているかわかる場合もあれば、まったくわからないこともある。
“脂肪の塊”は、シスターの意図をどのように読み取ったのだろうか? 実際のところ、シスターの意図はどうだったのだろう? 読者にとっても謎は残されている。

モーパッサンは、「脂肪の塊」の最後に、「ラ・マルセイエーズ」によってそうした謎を仕掛けている。

ラ・マルセイエーズを聞く心理

“脂肪の塊”が身を任せた翌日、一行はやっと出発することができる。

彼女が最後に遅れて馬車に乗ると、9人全員が彼女から目を背け、何も見なかったふりをする。
伯爵ときたら、妻の腕を引き寄せ、汚いものから遠ざけようとする。
シスター二人はぶつぶつとお祈りをし、コルニュデはじっと動かず、考え込んでいる。

お腹がすくと、みんなは各自で準備したものを食べ始める。その一方で、”脂肪の塊”は慌ただしく出発したために、何も食べるものを持たずにいる。しかも、誰も彼女に食べ物を分けてくれない。
みんなの態度に彼女の怒りがこみ上げてくる。しかし、あまりにも腹が立って声も出ない。そうしているうちに、最後は涙がこみ上げ、涙の流れるのを止めることができない。

その姿に気づいた伯爵夫人は夫にサインを送る。伯爵は肩を上げ、自分が悪いわけではないと言わんばかりの仕草をする。
ロワゾー夫人は、声もなくにやりとし、「自分のことが恥ずかしくて泣いているのよ。」と小声で呟く。
二人のシスターは再びお祈りを始める。

彼らの冷たく非人間的な言葉や行動は、外から見て取ることができる。だが、心の中ではどう思っているのだろうか?
もし少しも後ろめたさを感じていなければ、もう少しやさしくできたのかもしれない。
あるいは、本当に娼婦を軽蔑し、自業自得だと思っているのかもしれない。

一般的には、読者は主人公に肩入れする傾向にあるので、可哀想な”脂肪の塊”に同情し、9人を自己中心的で、偽善者、人間として許しがたいと思うことが多い。
しかし、自分がその場にいるとしたら、どのように振る舞うだろうかと自問すると、より複雑な心理が働いている可能性も推測できる。

最後に、コルニュデがニヤニヤしながら、「ラ・マルセイエーズ」を口笛で吹き始める。すると、みんなの顔が曇り、いらいらし、やめさせたそうな様子をする。
そのために、コルニュデは今度はわざと、歌詞を口ずさみ始める。「祖国への神聖な愛よ。/導いてくれ、支えてくれ、復讐する我々手を。/ 自由よ、愛しい自由よ、/お前を守る者たちと共に戦いを!」

民主主義者にとって「ラ・マルセイエーズ」は共和制を思わせる親しい歌だが、コルニュデはなぜその歌を歌ったのだろうか?
ナポレオン3世の治世下で、貴族のブレヴィル伯爵は王党派であるに属し、反対派。しかし、それでも社会の中で有力な地位を占めていた。そうした有産階級に人々にとって、革命を思わせる「ラ・マルセイエーズ」は、社会の混乱を招く危険分子の象徴と感じられたはずである。

では、”脂肪の塊”にとってはどうだろう?
小説は次の一節で終わる。

脂肪の塊はずっと泣いていた。時々、どうしても押さえることができない啜り泣きが、歌詞の合間に、闇の中を流れていった。

彼女はナポレオン主義者なので、第二帝政下で禁止されていた「ラ・マルセイエーズ」には共感できなかったはずである。
その歌を、コルニュデがいつまでも止めずに歌い続ける。
彼女の涙も止まらない。

その時の”脂肪の塊”の心理はどのようなものだろうか?
モーパッサンは、彼女の心の中に入り込み、彼女の思いを読者に説明することはしない。
読者は、現実世界と同じように、彼女の涙から彼女の気持ちを推測するしかない。

共和主義への反発を忘れ、祖国、復讐、お前を守る者といった言葉に共感し、慰めを感じているのだろうか?
怒りと空腹でどうしようもない彼女のことなど何も考えず、嫌な歌を平気で歌う民主主義者の無神経に対して、ますます怒りが増しているのだろうか?
歌など何も聞こえず、聞きもせず、怒りと悲しみのために泣き続けているのだろうか?

もう一つの視点を付け加えるならば、「脂肪の塊」が出版された1880年の1年前の1879年、「ラ・マルセイエーズ」はフランスの国家として承認された。そこで、当時の読者にとって「ラ・マルセイエーズ」は、愛国心の表現と感じられるようになっていたかもしれない。
その場合には、”脂肪の塊”がナポレオン主義者であることを忘れ、最後の場面は、偽善者たちとは違う、庶民の真の愛国心を称揚したものと見なされたかもしれない。

このように、モーパッサンは、登場人物たちの行動や発言を通して彼らの心理を様々に推測させる、あたかも現実のような小説世界を作り上げたのだった。
そして、その中に登場人物たちの心理を、非常に巧みに組み込んだのだった。
その心理の読み取りは、多くの場合、読者に委ねられている。


モーパッサンの小説家としてのテーマの中心が心理だったことがわかると、自然主義的と言われる小説群と、幻想的あるいは狂気を描いたと言われる小説群とが、対極にあるのではなく、心理という糸よって結ばれていることがわかる。

現実的な小説では、登場人物たちの身振りや表情といった、身体的あるいは生理的な要素から、心理を探る。19世紀後半に成立した実験心理学のように、科学的な視点で、物質から心理を解明する。

反対に、普通は説明できない不思議な現象を扱う小説では、心の動きが外部に影響を与え、目に見えないものが見え、ある時には物質化して、現実の事物を動かしたりする。

この両者は、体と心が連動するという思考の中で、一方から他方への働きかけを問題にしていることになる。
「脂肪の塊」の場合には、身振りや言葉から心理を推測可能という仮説に基づく心理学。
幻想小説の代表といわれる「ル・オルラ」の場合には、心理から物質への働きかけが可能かどうかが問題にされる。
その二つの例を代表として見ていくことで、モーパッサンの小説世界の全体像が見てくる。


翻訳

『脂肪のかたまり』高山鉄男訳、岩波文庫。

参考

村松定史『モーパッサン』清水書院。

モーパッサンに関しては、以下のサイトが推薦できる。
「ギィ・ド・モーパッサンとは」 http://maupassant.info/biographie.html

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中