ドガ 生命の脈動を捉える「持続」の画家

エドガー・ドガは、オペラ座の踊り子を生き生きと描いた画家として、日本でもよく知られている。
彼の絵画の中のバレリーナたちは、本当に生きているように感じられる。
外から絵を眺めるのではなく、実際に会場に入った気持ちになり、舞台の上で彼女たちが踊る姿をその場で眺めると、息づかいまで聞こえてくる。

じっとしている姿が描かれているとしても、彼女たちの生命の動きが感じられ、自然に彼女たちの気持ちに共感している自分がいるのに気づく。

止まっているはずの絵によって、どうしてこれほどの「動き」が表現されるのだろうか。
その秘密を、ここではデッサンと構図という二つの面から探ってみよう。

(1)デッサン

ドガが最も信頼を寄せた先輩画家は、新古典主義の巨匠ドミニック・アングルだった。
アングルはドガに、デッサンの重要性を説き、「線を描くこと」を強く勧めた。
絵画を構成するのは、デッサンを形作る線と、面を構成する色。古典派の絵画では、線によって形作られる「形」に重点が置かれた。

アングルの教えを守ったドガはデッサンに励み、素晴らしいデッサンを数多く残している。

この1枚を見ただけで、ドガのデッサン力の素晴らしさを実感することができる。目の前のバレリーナは、絵でありながら、軽く体を回転しつつある!といった印象を与える。

その「動き」にこそドガの特色があることが、アングルと比較するとよくわかる。

一方の女性はピタッと静止している。もう一人は髪をタオルで拭いている。その違いは歴然としている。

新古典主義を代表する画家アングルが表現するものは、動きの中の最高の瞬間を捉え、その姿を永遠に留めること。「ヴァルパンソンの浴女」は、瞬間を永遠に留めることを目指した、ルネサンスから始まるヨーロッパ絵画の伝統の中にある。

ドガの「入浴の後(首を拭う裸婦)」になると、女性の動きの最高の瞬間を留めるのではなく、手や体の動きを表現することを目指している。
彼女は無造作に濡れた髪を拭っている。捉えられているのはある瞬間ではあるが、その一瞬には、そこで行われている行為の「持続」する時間が含まれている。

二枚の絵画を比較すると、デッサン力の素晴らしさは変わらないとしても、アングルとドガが捉えようとしたものの違いは明らかである。

ドガにおける「生命の動き=持続」をよりはっきりと感じ取るために、その反対に位置する古典主義の絵画を見ておこう。
そこでは、人々の動きは静止している。アングルが理想とした古典主義の画家たちも、描く対象の最高の瞬間を永遠に固定することを目指した。

ルネサンスを代表する画家ラファエルによる「キリストの変容」。キリストが自らの聖性を人々に示す、その瞬間が描かれている。

上部に描かれているのは、タボール山の上で、キリストの体が輝きを発し、上空に浮かび上がった場面。
下部は、悪魔に取り憑かれた少年が治癒する場面。人々はそれぞれに天や少年を指さし、奇跡の瞬間を印象付けている。
この場に私たちが自分で入っていくとわかることがある。動きの瞬間が固定され、驚きはあるが、誰も動いてはいない。自分も呼吸が止まり、彫像のように固定するように感じる。

そうした「最高の瞬間=永遠」の感覚は、フランスの古典主義絵画を代表するプッサンやダヴィッドでも変わらない。

プッサンの「アルカディアの牧人たち」では、彼らのいる場所が古代の楽園アルカディアであったことを発見した瞬間。ダヴィッドの「ホラティウス兄弟の誓い」では、三人の兄弟が父にローマへの忠誠を誓う瞬間。描かれた人物たちの身振りは、その瞬間を永遠に留め、しっかりと固定している。

ドガは、こうした古典主義絵画からデッサンを徹底して学んだが、しかし、永遠の美を描くことが生命の流れを止めてしまう、そのことにも気づいたに違いない。

その気づきのきっかけを与えたのは、1856年から始まったイタリア滞在中に知り合ったギュスターブ・モローだろう。
モローは、デッサンよりも色彩を重視し、アングルとは正反対の画法を用いたロマン主義の画家ドラクロワへと、ドガの目を向けさせた。

ドラクロワの絵画では「色」が全て。線ではなく、色によって人物の躍動する姿が表現される。

ただし、この「サルダナパールの死」に躍動感がみなぎっているとはいえ、まだどこか別世界の出来事のように感じられる。
素材がバイロンの戯曲『サルダナパール』から取られ、アッシリア王サルダナパールの最期を描いた歴史画だということもあるが、それ以上に、絵画表現として永遠の美を目指している感じがする。
今を生きる人間の生命感がそのまま表現されるのではなく、最高潮の姿勢が選択され、典型的な姿が捉えられているのだ。

ドラクロワを代表とするロマン主義絵画に対して、ドガは、身近な人々がごく当たり前に生きている間に取る、ごく普通の姿を描こうとした。
最高の一瞬ではなく、流れる時間=持続の中の平凡な一コマ。

強い酒(アプサント)を前にしてただ座っている二人の男女。洗濯をする手を休め大きな口をあけて欠伸をする女。その横で相変わらずアイロンがけを続ける女。
それらの姿は、たんたんと流れる時間の中で、偶然の一瞬に示したものにすぎない。次の瞬間にはまた違う動きが続く。
彼らは私たちと同じように息をし、退屈な時間は長く感じ、楽しいときには時間を忘れる。彼らの命は持続している。

絵画は線と色で描かれ、その中に時間は流れない。全ての姿は固定し、動かない。それにもかかわらず、ドガの描く人々には生命の流れが感じられる。
彼のデッサン力はそうした表現のための一つの重要な要素だが、古典主義絵画を見ればわかるように、それだけでは固定された美の表現になる伝統がヨーロッパにはあった。
そこから外れるためにドガが導入したものの一つが、独特の構図だった。

(2)構図

ドガが最初にバレリーナのチュチュを描いたとされる「オペラ座のオーケストラ」。

この絵の本来の意図は、中央に描かれたバスーン奏者デジレ・ディオーの肖像画だったという。ドガは、楽器の形や顔の重なり合いなどを組み合わせ、ディオーの姿に焦点を当てた。

オーケストラの上部の舞台の上にいるバレリーナたちは、ピンクとブルーのフンワリとしたチュチュをひらめかせ、黒くがっしりとした服の音楽家たちとコントラストを作り出す役割を果たしている。

そうした意図をより際立たせるために、ドガはヨーロッパ絵画の伝統ではありえない構図を用いた。
古典主義絵画を思い出すとわかるように、伝統的な絵画では、遠近法に基づいた三次元の空間が形作られ、描かれる対象の中心は中央に位置し、視点は真正面に置かれている。
空間を斜めに区切るものはなく、全体が安定した構図の中にある。

それに対して、「オペラ座のオーケストラ」では、上部が舞台で区切られるだけではなく、前景も板の仕切りで斜めに区切られている。
この構図は、ヨーロッパ絵画の伝統から外れる兆候を示している。

では、ドガは空間を斜め横に切断する構図をどこから学んだのだろう。
ゴッホが模写した歌川広重の浮世絵を見ると、それが日本由来の構図ではないか推測できる。

広重の「あらし山満花」を見ると、構図の不安定さが、動きを生み出すことが実感できる。

対象を画面中央に置かずに中心からズラし、視点も真正面ではなく、見上げるようにすると、人物が空中に向かって飛んで行く印象を作りだすことができる。

ラファエルの「キリストの変容」の中で、キリストは神であることを悟り、光に照らされ、空中に舞い上がる。その安定した構図は、キリストがその瞬間に永遠に留まることを感じさせる。

それに対して、ドガの「フェルナンド・サーカスのララ嬢」に描かれるブランコ乗りは、鎖を口にくわえて空中を遊泳している。
私たちは、彼女と一緒にゆらゆらと揺れたり、今にも落ちるのではないかとドキドキする。

ドガは、視点をずらすことで、斜めに広がる空間をキャンバスの上に作り出し、しかも人物を斜めの空間を強調するように配置する。
そうした構図から、人間が動くに従って違って見える「生きた空間」が生み出される。

「線を描くこと」を説いたアングルのもう一つの教えは、「事物を見てはいけない。いつでも記憶か巨匠の版画に従って描くこと」というものだった。
この勧めは、決して実物を見るなという意味ではなく、実際の場面を写生するのではなく、実物をじっくりと観察した上でスケッチをし、後でアトリエで構成して描くことを意味している。
構図は、その場の現実ではなく、アトリエで効果を十分に考えた上で決定しなければならない。

ドガがその教えを守り、太陽の下で写生をした印象派の画家たちとは違い、常にアトリエで絵画の制作を続けた。
構図は彼の記憶の中にあるものか、彼が意図的に構成したものなのだ。

バレエのレッスンを描いた以下の2枚も、ドガがその場で写生したのではない。
一人のバレリーナが中心になることなく、斜めの視点から捉えられた空間構成がなされている。

数多くの少女たちが描かれているが、誰一人なおざりにされることなく、一人一人が違う表情をし、異なった身振りをして、その時を生きていることがわかるだろう。

(3)持続する生の表現

ドガの絵画の最大の特色は、描かれた人物が固定しているにもかかわらず、動きを感じさせることにある。
絵画を外から眺めるのではなく、場面の中に入ってみると、私たちはその場の空気を感じ、しばらくの間そこに立ち会っているような気持ちになる。時間の流れを感じ、持続する時を共に生きる感じがする。

そうした生命の動きは、アングルから強く言われたデッサン力と、中心をずらして不安定化した構図によって生み出されたと思われる。
その意味で、古典主義の流れを汲みながらも、そこから別の方向に一歩を進めた画家だといえる。

そして、彼の絵画が生命感に溢れているからこそ、同じ素材が何度扱われても、一人一人の人間は違い、一人の人間でも一瞬毎に違っているように、常に異なる表現になり、私たちは見飽きることがない。

ドガは、人間の一瞬の動きを捉えながら、その瞬間の中に持続する生の動きを表現することに成功した。
私たちは、彼の描く場面に入り込むことで、その生の感覚を共にすることができる。

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